メッセージ - アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(ヘブル11:17-23)
礼拝説教メッセージ音声:アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(ヘブル11:17-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
アブラハムは100歳にしてやっと息子イサクが与えられたのに、全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた。
その時アブラハムはどんな心境であったのかは記述が無いが、彼は命じられた翌日、すぐに準備してイサクを連れ、命じられた所へ言った。(創世記22章)
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(同5節)
わたしと息子は一緒に戻ってくる、と言った言葉に、アブラハムの信仰が見える。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブル11:19)
アブラハムはイサクを、主にあって失った。そうしたら、何倍にも祝福された形で得た。
これこそ死と復活の型であり、私達も主にあって失うなら、何倍にもなって得るのである。
イサクは従順だったため、井戸を奪われてもつぶやかずに主に信頼し、次から次へと井戸を見つけて行った。
「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」(ヘブル11:20)
実際の所、彼はエサウを祝福したと思っていたのだが、ヤコブが祝福を騙し取った。彼は息子にさえも騙されたのだ。
しかし、この箇所の趣旨は、家族内の騙し騙されるサスペンス劇ではなく、祝福しようとしたイサクの信仰に対する賞賛である。
皆さんにも、「この人を祝福したい」と思って祈ったり支援をしてきたのに、実は騙され、祝福は別の者に横取りされ、結局自分の望む形で祝福が与えられなかった、という経験はあるだろうか。
しかしそのように、たとい望む形でなかったとしても、神様は私達の「祝福したい」という信仰を良しとされるのである。
ヤコブが人生の中で最も賞賛されている場面は、子供達を祝福し、杖によりかかって礼拝する場面である。(同21節)
彼は神と格闘している間は、祝福は与えられなかった。
しかし、もものつがいを打たれ、力が無くなった時、彼は神の使いを掴んで離さず、ただ寄りかかるしかなくなった。
その時、彼に祝福と新しい名が与えられた。
私達も、神に打たれて自分の力が尽き、もはやイエス様に寄りかかるしか無くなった時、祝福と幸いが与えられるのである。
彼は自分の力や騙しテクニックによって世を渡り歩いて来たが、神様から賞賛されたのは、生涯を閉じようとする時に、わずかな力を振り絞って為した、子供達への祝福と礼拝であった。
ヨセフが人生の中で最も賞賛されている場面は、臨終の時、自分の骨について指示した場面である。(同22節)
彼はエジプトに来て既に100年近く経ち、エジプトで2番目の高い地位に就いていたが、臨終の間際に彼が指示した事というのは、子孫の代でエジプトを脱出するからその時に自分の骨を故郷まで届けて欲しい、というものだった。
人生で何に心の重点を一番置いてきたか、というのは、遺言に如実に現れる。
彼の100年近くの日々で、心に最も重きを置いてきたのは、エジプトの富や地位、名声などではなく、神様の約束された地、生まれ故郷だった。
だからその信仰を賞賛されたのだ。
この世の人生の旅路は仮の宿に過ぎず、私達には天にまことの故郷がある。
彼らが賞賛されたのは、地上での住まいよりも神様の備えて下さる天の住まいを望んでいたからである。
天のまことの故郷に至る歩みが、この地上の歩みである。
いつ死ぬか分からないような情勢の元で住んでいる今日、一日一日の歩みを、天のまことの故郷に向かう歩みとして尊く生きる皆さんでありますように。