メッセージ - 罪と私の方程式(ローマ7:13-20)
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韓国語通訳有
「私」の中には、色々なモノが棲んでいる。
私たちの内側には、相反するものが存在し、分裂し、戦っている事は、私たちがうすうす気付いている事だ。
「私は、私が行為していることが、わからない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すことをせず、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからである。」(15節)
その自分が憎んでいる事を行わせているものが、罪である。
キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた。(ヘブル9:12-14)
私たちが犯す個々の罪々については、キリストの流された血潮を自らを適用すれば良い。
しかし、その個々の罪々を犯してしまう根源、すなわち原罪が、依然として私たちの内にある。(ローマ7:17)
「もしも私が、この自分の欲しないことを行なっているとするならば、もはやこの私がそれを行為しているのではなく、私のうちに住んでいる罪がそれを行為しているのであ。」(同20節)
この20節によると、望んでもいない事を為してしまうのは、私たちの責任だろうか?そうではなく、私たちの内に住んでいる罪(原罪)が、それを為させていると分かる。
すなわち、私、ノットイコール、罪という式が成立する。
自分は悪魔だとか、罪の人間だとか言う者がいるが、それは過ちで、罪と私たちは、イコールではない!
肉体に突き刺さっている棘は自分ではないように、罪という外来性の棘が突き刺さって、私たちはそれによって痛み苦しんでいるのである。
自分が罪深いことをしてしまった、自分はなんてダメなんだ、と言って自分を責める者がいるが、それもお門違いである。
それは例えば、犬が噛み付いた時、犬を責めずに、痛い思いをしている自分を責めているような、とんちんかんな事なのだ。
私たちが処罰すべきは噛み付いた犬であって自分ではないように、処罰すべきは、罪なのだ。
この今だ私たちの肉に残されている原罪の扱いについては次回以降に譲るが、この罪の根っこがまだ取り除かれていない以上、私たちは日々、肉の欲望に身を委ねる事を否み、キリストの十字架をこの身に適用する事によって、キリストの望んでおられることを自由意志によって選択する事を、主は望んでおられる。
主は、自らのいのちを捨てるという、深遠な贖いのご計画を立てられたほど、人間の自由意志を尊重されたのだ。
生ける限り罪との戦いはあるけれど、日々、キリストの十字架を適用していくことによって、ますます罪を犯しにくい行動パタンが焼きついていき、霊的に熟練していく。
そのように日々、キリストを選んでいく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!