メッセージ - いのちから遠ざける「人の言い伝え」2
礼拝音声: いのちから遠ざける「人の言い伝え」2(マルコ7:5-13)主日礼拝
ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」を守らない事でイエスの弟子達を非難した。(マルコ7:5-13)
それに対しイエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言って非難し、「父と母を敬え」という十戒の一つを例に取って、「この場合は守らなくて良い」という例外を設ける事で神の言葉をないがしろにしている事を明らかにした。
現代も、色々な形を取った「人間の言い伝え」が数多くはびこり、御言葉に人間の編み出した学問をパン種のように付着させ膨張させては、人々を神から引き離し、人間の教えへと目を向けさせている。
人間の教えというパン種が私達の身近に尤もらしく浸透している例を挙げてみたい。
第2次世界大戦中のヨーロッパで、ユダヤ人達はナチスドイツの迫害に遭っている時、一部の勇敢なオランダ人はユダヤ人をかくまい、「ここにはユダヤ人はいません」と偽って、彼らの命を助けた。
さて問題。聖書には「偽ってはならない」と書いてあるが、このオランダ人は罪あり、とされるのだろうか?
嘘も方便、良い嘘もあるのだろうか・・・。
しかし、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽るのは罪なのである。
ここで「人間の教え」は、次のように声高に叫ぶ。
「罪なき人の命を助けた功績は大きいし、身の危険を冒して憲兵に対処した勇気もすごいではないか」
「聖書でも遊女ラハブが嘘でユダヤ人を助けたし、ダビデもミカルの嘘によって助かったではないか。」
「『ここにユダヤ人がいます』と本当の事を言って、ユダヤ人を見殺しにしろというのか」、等など。
尤もらしく聞こえる内容は置いておき、こうした議論は「善し悪しの判断基準に閉じ込め」、「御言葉から目を背けさせ」、「人間第一主義に走らせようとする」性質がある事に気付いただろうか。
私達はイエスの嫌われた「人間の言い伝え」そのものが何であるかに、意外と気付かないものであり、常に御言葉による計測飛行をしているか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。
私達の御言葉に対する正しい対応は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」、それ以外は悪から来る。
神の要求を全部守らなければ救われないのであろうか?
もしそうなら、誰も救われないし、私もとうの昔に投げていた事だろう。しかし感謝すべき事に、救いは行いによるのではない。
聖書が初めから提示している人間の歩む路線は、善悪の路線か、いのちの路線か、どちらかであり、福音は「この場合はこうせよ/するな」という善悪判断の集大成ではなく、いのちの路線である。
救いに至るには、御言葉をしっかり受け止め、まず自分達は神の基準を達し得ない事、違反がある事を認める所から始まり、そして救いが必要である事を認め、そしてイエスへと導かれるのである。(ガラ3:19-29)
故に、御言葉の元の意味を希釈してはならないし、神は厳しすぎる、ひどいと言って、否定してもならない。
私達が義とされるのは、行いによるのではなく信仰によるものであり、また「信じれば救われる」という、いわば誰にでもできる救いが与えられたのは、恵みによる。(エペソ2:1-10)
その信仰はどのようにしてもたらされるか。
ガラテヤ2:16、2:20は「キリスト・イエスを信じる信仰」と新改訳では訳されているが、原文はピスティス・クリストゥすなわち「キリストの信仰」であり、私達人間の信仰ではない。
「一人の従順によって、多くの人の不従順が赦される」(ローマ5:19)とあるように、人間が赦されたのは実にキリストの従順によってであり、人の従順によってではない。
救いも赦しも全ては信仰の創始者であり完成者なるキリストから出ており、キリストへと行き着くのである。
私達が生きることを止め、私達の内でキリストに豊かに生きていただく事によって、宗教臭い人間的な頑張りから開放されるのである。