メッセージ - 命じられた通りに(ヨシュア6章)
命じられた通りに(ヨシュア6章)
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主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。
戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)
この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。
イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。
それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。
神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。
しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。
モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。
主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。
ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)
民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。
もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。
しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。
雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。
もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。
それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。
人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。
勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかもしれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもない。
は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。
この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。
皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。
世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。
7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。
私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!