メッセージ - 私は誰々につく、ではなく(1コリント1:10-17)
礼拝説教メッセージ音声:私は誰々につく、ではなく(1コリント1:10-17):右クリックで保存
韓国語通訳有
もし皆さんが、ある人から「あの人はあなたについていくと言っていた、でもこの人は誰々についていく」と聞いたなら、どうだろう。
「そうか、あの人は私に味方で、あいつは敵だ」と言って、舞い上がったり憎んだり、という事になるだろうか。
パウロはある時、コリントの人たちがそのような状態だ、という報告を受けた。
ある人はパウロにつく、ある人はアポロにつく、と言って、分裂があるというのだ。
パウロはそれを聞いて、よし、私につく者だけを集めて戦争だ、などと言っただろうか?
そうではない。パウロは分裂がある事を、悲しんだのである。
コリント人への手紙の最初は、流石にあいさつで始まったが、あいさつもそこそこに早速本題とするほど、パウロにとって、兄弟姉妹の分裂は、早急に解決すべき課題だったのである。
「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」10節
「心を一つにし」とは、キリストの心を心とする事(ピリピ2:5・文語訳)であり、「思いを一つに」とは同じ判断基準である御言葉を、全てをはかる上での物差しとせよ、という事である。
そして、兄弟姉妹が一つとなるのは「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」である。
「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」(12節)
この中に。「わたしはキリストに」とあり、それは一見非が無いかのようだが、一体何が問題なのか。
サタンでさえ、御言葉を道具にして人を訴えるのだ。
たとい、御言葉の知識が完全であっても、御言葉を、自分の正当性を主張して対立する道具とし、党派心を煽り、他の兄弟姉妹と敵対するなら、それは問題である。
兄弟姉妹の間に愛が無く告訴し合うのであれば、一体その正しい知識は何になるだろう。
私は誰々先生につく、いや、私は別の先生に、といった争いがあるとしたら、その人たちはまだ肉に属する者であり、ただの人と全く変わりない。(1コリ3:2-5)
あの先生もこの先生も、主が各々に授けられた賜物に従って働きを為した「器」に過ぎない。
大切なのは、誰々から何々の経験を受けた、ではなく、肉に歩んでいた頃の自分には死に、新しくイエスと共によみがえらされ、日々、新しいいのちを主イエスの名によって歩む事なのだ。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)
分裂や分派といった、古い世界に属する事はもう止めにして、キリストと共に十字架で死んだ者として、新しい創造として歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!