メッセージ - 誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31)
礼拝説教メッセージ音声:誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31):右クリックで保存
韓国語通訳有
十字架の福音とは、世の人からすれば、実に愚かである。
なにしろ、世界を救うメシヤが、裸にされ、あざけられ、十字架で公開処刑された、というのだから。
知者であればあるほど、また力ある者であればあるほど、それはばかばかしく、受け入れ難い。
福音はなぜ、わざわざ、そうなのか。
それは、この世の力ある者達をはずかしめるためである。(1コリント1:27)
コリントの人たちは、世の価値観のまま変わらず、世において富を得、高められ、力ある者、知恵ある者となる事を、求めていた。
彼らは福音を、この世的なステータスや祝福を求める価値観だったからこそ、争いや分裂が絶えなかったのだ。
キリストに望みを置く者は、概して、知者も、権力者も、力ある者も、そんなに多くは無い。古今東西、大体そうである。
それでキリスト教は弱者が信じる宗教だと言われるが、それは逆である。
神が、この世の弱いものを、敢えて選ばれた。(28節)だからこそ統計的に、知者や権力者、力ある者は少なく、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者が多いのである。
キリストに望みを置く皆さんは、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者と言われて、不愉快になるだろうか。
もしそうなら、コリントの人と同じく、価値観はこの世に向かっているのだ。
イエス様が、無に等しい見下されている者を、あえて選んで下さったのは、誰も誇らせないためであり、私達が誇るべきは、ただ主だけである。
しかもなんと、私達が為す良い行いをも、あらかじめ備えれていたのだ。(エペソ2:8-10)
ここまで来ると、もはや誰も自分の何かを誇る事ができない。
私達が世にあって歩むとき、何を求めるべきだろうか。
お金だろうか?地位だろうか?知恵だろうか?力だろうか?
私達は、それらを豊かに与えて下さり、楽しませて下さる主をこそ、求めるべきである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)