メッセージ - 十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5)
十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-5 20:52
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韓国語通訳有
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や雄弁術、詭弁学が盛んであり、色々な娯楽もあったため、コリント人の目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
それだから彼らがパウロについて気を留めたのは、御言葉のいのちではなく、外見の弱々しさや話ぶりのなってなさ、という、キリストのご性質とは関係の無いことについてであった。(?コリント10:10)
今日でも、語られる御言葉ではなく、説教者の見栄えや話し振り、ステータスなどに気を取られて、その話している御言葉を右から左へと素通りさせているとしたら、当時のコリント人同様、叱責されても仕方無い。
パウロがコリントでは弱く恐れおののいていた(3節)のは何故だろう。
また、何故すぐれた知恵を用いて神のあかしを宣べ伝えることはせず、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したのだろう。
それは、彼がコリントに着く前のいきさつを見れば納得がいく。
彼はマケドニヤで何度もユダヤ人たちの暴動に遭っては別の地に逃れるという事を繰り返し、シラスやテモテを置いてギリシヤへと半ば逃げるように、一人ぼっちでアテネに着いたのだった。(使徒17章)
実はパウロは、このアテネのアレオパゴスで、雄弁術的に知恵を用いて福音を説明しようとしている。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、よって偶像崇拝は意味が無い、
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
それは、死者のよみがえりの話になった途端、アテネの人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言って2度と聞こうとしなかったからだ。
そういうわけでパウロがコリントに到着した時、弱く恐れおののいており、そして雄弁術的に人を説得する事も止め、イエス・キリスト、それも十字架につけられた彼のほか、何も知るまいと決めたのだろう。
パウロはコリントでは弱々しく恐れおののき、雄弁さのかけらも無かったというのに、なぜ大勢の人達が信じ、救いに導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそが、神の御霊と神の御力の現われだからである。
多くの娯楽と不品行に溢れ、目と耳が非常に肥えているコリントの人が、聖なる者へと造り変えられるのは、雄弁さでも説得でもなく、十字架につけられたキリスト、ただこのお方のみである。
もし雄弁さや説得によってパウロになびいたのであれば、他の優れた雄弁家、優れた娯楽が来れば、すぐに捨ててしまっていただろう。
しかし、信仰は人の知恵によらず、神の力によるからこそ、このような町にあっても人は造り替えられ、聖なる者となったのである。
十字架につけられたキリスト、このお方にのみ望みを置き、神の御霊と神の御力を現す皆さんでありますように!