メッセージ - 忠実な管理者であれ(1コリント4:1-5)
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韓国語通訳有
4章では、コリント人たちが高慢になっている事を指摘している。
神様を差し置いて、自分が善悪判断したり、罪定めしたりする、というのは、高慢である。
私達はキリストのしもべであり、支配する側ではなく、仕える側にあるのだ。
また、なんと私達は、神の奥義を管理している、というのである。(1節)
「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」」(マタイ13:52)
倉庫番は、倉庫から新しいものや古いものを、その時に応じ、取り出す事が求められている。
神の国の奥義の管理者が、神の倉庫から取り出すものは、御言葉であって、自分自身の何かを取り出すものではない。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
もし私達が、ある会社の倉庫番であるなら、誰か他人が倉庫の中身にケチをつけたとしても、痛くも痒くもないはず。
それは自分のものではなく会社のものだし、ケチつけた人は、会社にケチをつけた事になるのだから。
私達は、神の国の倉庫番なのに、あたかも、自分の家の倉庫番であるかのようにふるまうから、他人の評価が気になってしまう訳である。
「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
裁いてはならない、とは有名な言葉だが、それは、他人を裁くだけでなく、自分を裁く事も含まれている。
なぜなら、私達はもはや私達のものではなく、私達の所有権は、イエス様に移ったのだから。
だから、勝手に「自分をさばく」という事も、してはならない。
「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(4節)
これは、逆に考えれば、私達にやましい所が大いにあったとしても、それで有罪にされるわけでもない。
唯一、裁く権利のあるお方は、主である。
だから、やましいところがあろうと無かろうと、自分は有罪だ無罪だ、といった裁きは、無意味である。
私達は、人の評価や自分の評価は止め、ただ自分自身という「託されたもの」を忠実に管理する事が、求められている。
この世において、管理するものを、小さなものだと思ってはならない。
もし地上で忠実に管理するのであれば、天において、さらに大きな事が任されるからだ。
地上における事はしっかり管理し、かの日には、主から「良くやった、良い忠実な僕よ」と賞賛される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!