メッセージ - あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13)
あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-15 19:23
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韓国語通訳有
パウロは諸々の苦難、幾多の迫害や、鞭打ち、石打などを経て、やっとコリントに至り、福音を伝え、そして彼らは、いのちを得た。
しかし彼らは、パウロの言葉は哲学よりも愚かに聞こえるなどと、あたかも自らが誰よりも偉い王様のように、あるいは全てに満ち足りているかのような立場でいた。
確かに、キリストを信じる者は、王のような支配者となる事は書かれてある。
しかし、それはキリストにならう者である事が、条件だ。
キリストは、まず低くなられ、十字架の死に至るまで従順だったからこそ、神によって引き上げられ、栄光が与えられた。
そのキリストに習い、自らを主の御前に低くなり、従順になり、その忍耐と従順を学ぶ事によって、はじめて引き上げられる。
キリスト者は確かに豊かになるし、王のようになれるが、「キリストに習い、まずへりくだる」という所を抜きにして、豊かになったり、王のようになったり、などというのは、あり得ない。
「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」(9節)
当時のコロシアムでは、様々な競技や戦い、公開処刑などが行われ、多くの観客が娯楽として見入っていた。
パウロは、キリストに従う者たちは、あたかもコロッシアムで見世物にされているような者達で、しかも、世の人達だけでなく、御使いたちにも見世物とされ、競技場の中で戦っているようなものだと言っている。
競技場の中にいる者と、観客席にいる者とでは、立場が随分違う。
観客席の側にいる人は安全であり、娯楽のためにそこにいて、あれこれと評論したりするが、中にいる人はいのちの危険があり、苦しみ頑張り、実際に体を張って血と汗を流すが、後には賞と栄冠をいただける。
パウロは9節で、コリント人達は観客席からパウロたちが頑張るのを見物して楽しむ側のようだと皮肉を込めている。
キリスト者とは、観客席にいてポップコーンを頬張りながら、血と汗を流す競技者を眺めて、批評したり楽しんだりする人種ではない。
観客席にいる者は、賞も栄冠も、決してもらえない。
むしろ私達は競技場の中で戦い、キリストの栄冠を勝ち取る者として、日々、いのちの務めに励む者達である。
パウロはコリントにおいて、労苦して働きながら復員を伝えた。それは、自らの手で働いて、模範を示すためだったが、残念ながらそれは伝わらず、彼らはそんなパウロを見物していた。
「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(13節)
「しもべ」という言葉の原意は「ちりの中をくぐる」という意味だったと最近学んだし、奇しくも、一昨日の主日メッセージも、口を塵につけよという題だった。
今私達に特に示されているのは、キリストの僕たり者は、塵の中を通れ、という事かもしれない。
確かにキリストの働き人は、塵の中をくぐる訓練が待っているかもしれない。
しかし、キリストが低められた後に高く上げられたように、私達も後には、決して朽ちる事の無い義の栄冠を勝ち取るために、しているのである。
塵の中をくぐるというのは、嫌な事、屈辱に移るかもしれないが、しかし、私達の主イエス様は、そのような所をくぐって行かれたのだ!
私達ももし、塵の中をもしくぐっているなら、キリストの足跡をそのまま歩んでいるという、甘く栄誉ある経験をしているのだ。
どうか、キリストに習い、キリストの歩んだ足跡をそのまま歩む事によって、主のくびきの甘さと安息を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!