メッセージ - 霊的な恩に報いる(1コリント9:1-10)
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韓国語通訳有
コリントの人たちの中には、パウロが使徒であるかないかということをさえ、疑問に思っている者達もおりました。
アポロはとても雄弁な人でした、また、ケパ、すなわちペテロも、主イエス様と共に行動した者で、威厳がありました。
それに対して、「パウロは話し方がなっていない」、などとコリントの人たちが非難しているのです。
「私を批判する人たちには、こう弁明します」と言っているとおり、批判する人がいたわけです。
その疑う者に対して、パウロは言っております。
「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。
あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と。
パウロは、自ら働きながら福音を伝えていたのですが、そんなパウロに、食物やお金を提供するといった考えすら、コリントの人たちにはなかったようです。
パウロは、コリントの人達のため夜昼となく祈り、苦悩し、この霊的に幼稚な聖徒たちのために多大な苦労をしてきました。
そのように霊的に豊かな養いを頂いていたコリントの人たちの中には、パウロに対して、「働きもせず伝道ばかりしているではないか」といった難癖をつける者がいたようです。
ケパは、信者である妻を連れて伝道して、旅費は妻の分も支給されていたようです。
しかし、パウロとバルナバは結婚もせず、ただ主の働きに打ち込んでおりました。
そればかりか、コリントの人達に対して、一人でも躓きを与えまいと、自ら働いて、そのお金で日々の食費や、伝道に必要なお金も出していました。
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
神様は、牛のことを気にかけておられるだけではなく、私たち人間のためにも、働き人に対してその報酬を得るのは当然であると言っておられるわけです。
パウロはそのように、非常にやんわりと諭しております。
ただ、分かることは、コリントの人たちは非常に霊的恩知らずだという事です。
パウロは散散な目に遭いつつも、コリントにたどり着き、コリントの地で汗水流し、血も流して伝道し続けてきました。
そのコリントの人たちは、パウロを批判する事に始終して、その恩に関しては全く忘れています。
恩知らずといえば、ダビデに良くしてもらったにもかかわらず、その恩を仇で返したナバルを思い出します。(第一サムエル25章)
ダビデは、サウル王から逃亡中であるにもかかわらず、ナバルの羊飼いを助けたり、守ったりしていました。
しかし、ダビデがパンや水が必要になったとき、彼のところに使いを送っても、ナバルは「ダビデとは何者だとか、エッサイの子とは何者だ」とすげなく返事をしました。
ダビデはそれを聞いて、若者たちに剣を帯びさせて、そこを襲いに向かいました。
しかし、その途中、ナバルの賢い妻アビガイルの説得によって、ナバルはダビデに殺されずに済み、またダビデ自身もむやみに血を流す罪から救われ、そして、ダビデはパンと水を得て、お互い別れました。
しかし、その恩知らずのナバルが、アビガイルとずっと一緒に生きたわけではなかったのです。
ナバルは、アビガイルがダビデにしたことを聞いて、石のように硬くなり、10日後に死んだのです。
そして、ナバルの財産も、アビガイルも、みんなダビデのものになったのです。
このように、恩を知らない者が、いかに自分の財産をケチったとしても、それは主に従う者に財産を渡すことになるのです。
私たちは、霊的な恩知らずに、なってはなりません。
特に、日々皆さんのために労したり、祈ったりといった、霊的な養いをしている方に対しては、しっかりと恩を成すべきです。
ナバルは、ダビデから物質的な援助を得ていたにもかかわらず、恩を返すことを惜しんで、その結果、このような有様になったわけです。
ましてや、霊的な恩恵を受けていながら、その恩を忘れるとしたら、どのような事が待っているでしょうか。
もし誰かから恩恵を受けているのでしたら、それが霊的であるか物質的であるかにかかわらず、しっかりと恩を返すようにしましょう。
そのような皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。アーメン。