メッセージ - 主の妬み(1コリント10:14-22)
礼拝説教メッセージ音声:主の妬み(1コリント10:14-22):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリント人の一部は、イエス様を信じた後でも、なお親戚や近所付き合い等で偶像の宮に一緒に行き、偶像に捧げられたものを一緒に食べるような事をしておりました。
今回は、そのような人達への戒めです。
既に8章の方で、偶像とは単に物であって神ではなく、偶像に捧げられた肉には何の意味もない事を、パウロは語りました。
という事は、親戚づきあいを壊さないために一緒に偶像を拝み、一緒に偶像に捧げた肉を食べて、良いのでしょうか?
偶像は確かに神ではないのですが、偶像に捧げている人たちは、悪霊にさ捧げている事だと、パウロは言っております。(20節)
それを説明するために、まず16節で、聖餐の事について触れております。
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血に与ることであり、また、私達の割くパンは、キリストの体に与る事です。
また、旧約律法における肉による礼拝においても「供え物を食べる者は、祭壇にあずかる」とあります。
つまり、食べるという行為は、食べる対象と「一つになる」事を意味します。
という事は、偶像の宮に捧げ悪霊に捧げたもの食し、偶像霊すなわち悪霊礼拝をしている者と同じ食卓の交わりに加わるとは、悪霊と一つになる、という事になります。
偶像礼拝とは、霊的姦淫です。
唯一愛するべき夫がいるにもかかわらず、別の男のに走ってしまった女を、夫が激しく妬むように、神も、唯一愛すべき神がいるのに、別の神に走ってしまうような者を、激しく妬むのです。
エレミヤ3章の1節から5節までをお読みください。ここではイスラエルを、夫がありながらその夫を去り、他の男の所に行っている女に例えています。
この箇所からわかる事は、神様の目から見れば、イスラエル共同体は「妻」という立場にある事です。
現在、教会という共同体は、キリストの妻という立場です。(エペソ5章)
ですから、キリストの妻たる私たちが、別のものに走るならば、主の妬みを引き起こすのは、当然です。
妬みとは、敵意より激しい感情です。
敵を憎むのは当然ですが、共に一つとなって愛し合うべき妻が、他の男に走るとなると、敵意よりはるかに強い感情を引き起こしてしまいます。
不信者が偶像礼拝を行なっても、神にとっては大した事ありませんが、既に一度、主に愛されて、妻となった私たちが、他の神々に走るとなれば、妬みを引き起こし、不信者よりも激しい災いが起こる事になってしまいます。
「私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。」(1コリント10:22)
コリントと似たような状況である今の日本に住む私達も、気を付けなくてはなりません。
唯一愛すべきお方、イエス様から決して離れず、身を聖め、交わりを純粋に保ち続ける皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。