メッセージ - 聖餐(1コリント11:23-34)
礼拝説教メッセージ音声:聖餐(1コリント11:23-34):右クリックで保存
韓国語通訳有
今年最後の早天礼拝メッセージは、奇しくも聖餐の箇所、第一コリント11章、23節から34節までです。
イエス様は、肉体の命の最後の夜、聖餐を制定されました。
主が制定された聖餐には、とても大切な意味があります。
パンと杯をいただくのは、主の死を告げ知らせるためであり、また、「わたしの記念として」(24節・25節)これを行います。
聖餐を頂く時、私たちは、イエス・キリストというお方を覚えて、パンと杯をいただく必要があります。
パンは、イエス・キリストの裂かれた肉体を覚える意味があります。
当教会では、小麦粉を手でこねて作った種無しパンを使うのですが、そのパンを手作りする方が、お話して下さいました。
その粉は、本当によく砕かれた粉で、そして手でよくこねたものでないと、パンはうまく焼けないそうです。
イエス様が砕かれて、主の御手のうちでこねられたように、私たちもよく砕かれ、主の御手の中で陶器師の粘土のように、こねられなくてはなりません。
また、パン種や蜜のような、余計なふくらましや味付けはしてはなりません。
種無しパンは、特に味があるわけではありませんが、噛めば噛むほど味が出て、甘くなっていきます。
御言葉なるキリストも、本当によく似ています。
御言葉も外見的には特に見栄えはせず、そのままでは特に味はしないのですが、噛めば噛むほど味わいが出てきます。
そして御言葉には、私達の好む味付けを混ぜたり、ふくらましをさせてはならないのです。
杯は、ぶどうの実で作られた液体が入っています。
ぶどうも特徴的な果物です。粒々がたくさんあり、そのまとまりを一房として数えております。
イエス様は、主はまことのぶどうの木、あなた方は枝です、と言われました。
ぶどう酒は、それら、身が一つ一つすり潰されて、各々の形は留めておりません。
もはや、一粒一粒という個性や形は無いように、私達も主を礼拝する時は、各々の個性や形を主張してはいけません。
27節に、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」と書いてあります。
イエス様を信じていない方は、主が割かれた肉や主が流された血をわきまえておりませんので、聖餐には与れません。
ところが、イエス様を信じて、洗礼を受けたにもかかわらず、自分が「ふさわしくない」と勝手な判断をして、聖餐を受けない人がおります。
それまでの自分の行いを顧みるに、罪ばっかり犯して自分に良い事がないだから、自分は聖餐を受けるにふさわしくない、という判断をするのです。
もし、罪を犯したか犯してないか、という基準で、聖餐に与るにふさわしいか相応しくないかを判断するとしたら、ふさわしい者など、誰一人いません。
では、ふさわしいとは、何の事でしょうか。
それは、24・25節両方にあるキーワード「わたしを覚えて」という言葉です。
自分がどういう人間か、ではなく、イエス様を覚えているかどうか。それが、ふさわしいかふさわしくないか、です。
私達は自分を吟味する時、自分に罪がある事は、明らかに分かります。
だからこそ主は、そんな私達のために血を流し、肉体を割いてくださったのです。
私達は断然、イエス様を覚えるべきであり、流された血を、裂かれた肉を感謝しつつ、聖餐に与るべきなのです。
聖餐が渡されても拒否するのは、イエス様の裂かれた肉を、流された血を軽んじる事になってしまいます。
イエス様が購いきれないような罪はありません。
どうして私達は、イエス様がせっかく割いてくださった肉、せっかく流してくださった血を、ないがしろにする事ができるでしょか。
そのような、主の体をわきまえない飲み食いは、裁きを招くことになってしまいます。
30節には「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」とあり、これを読むと、非常な恐ろしさを感じます。
コリントで弱い者や病人、死んだ者が多く出たのは、29節にあるとおり、主の体をわきまえない飲み食いが、裁きを招いてしまった結果です。
罪が宿っている肉をまとっている皆さんが、罪を犯してきたのは、当然のことです。。
その罪を、イエス様が購ってくださった事、イエス様を信じる者は赦されるという事を、信じておりますか。
もしアーメンであるなら、流してくださった血潮を、裂いてくださった体を、ただ感謝して頂くべきなのです。
主イエス様を中心とした交わりを、清く保っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福します。
アーメン。