メッセージ - 光よ。あれ。(創世記1:1-5)
光よ。あれ。(創世記1:1-5)
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神は世の全てを6日に渡って創造し、第7日に創造のみわざを完成し、休まれた。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)
はじめに神が創造したものは全て美しく調和し、全てが完全で、はなはだ良いものだった。
しかし今の世を見るに、その美しく調和の取れたはなはだ良い世界とは、一体どこにあるのか。むしろ、闇に覆われて形無く、混沌である、という表現のほうが、しっくり来るのではないか、と思うかもしれない。
そうなってしまった理由はただ一つ。人が神の命令から離れ、自分勝手な選択をしてしまった結果である。
憐れみ深い神は、そんな世を絶ち滅ぼしてしまうのではなく、呪われてしまった世界と、罪と死に支配されてしまった人間とを、再び回復するために、御子イエスキリストのいのちを通して買い戻す方法を取られた。
それが聖書の全体像である。
世は、初めからおられた「ことば」なるキリストによって造られ、この方によらずに出来たものは、一つもない。
世にまだ光が無く、闇に覆われていた時、神は、めんどりが雛を羽で覆うようにして、混沌の上を覆っておられたように、主は、混沌の闇にうずくまって一人泣いているような私達をご覧になり、愛の御翼で覆い、その陰で守っておられたのだ。
そしてこの方はいのちであり、このいのちは人の光であり、闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章)
その全ての人を照らす、まことの光なるキリストは、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に秩序をもたらし、いのちを創造されたあの御業を再び働かせて下さるのだ。
我々はその主を、主日すなわち日曜日に祝うが、なぜユダヤ人のように安息日にではなく主日に祝うのか。
まず、律法が与えられたイスラエルの民には、安息日を覚えてこれを聖とせよ、と命じられたが、彼らは本当の安息に入ったのではなく、来るべき真の安息を世に現すためにと、安息日を守るよう指示されたのだ。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル4:8)
つまり真の安息は、イエスを信じて神の民となった我々に、新創造である我々に、残されているのである。
主日、すなわち週の初めの日、第1日は、神が「光よ。あれ。」と言葉を発せられ、光が世に来た日である。
そしてまことの光なる主イエスは、主日に甦られ、主日に弟子達に顕現され(ヨハネ20:19-29)、初代教会の聖徒達も主日に集まっていた(使徒20:7)から、我々もそれに習い、主日にイエスを覚えて、祝っている。
神は、第7日すなわち安息日に創造の御業を休まれたが、アダムは創造の御業を台無しにしてしまった。
そこで神は、第二のアダム、すなわち全ての人を照らすまことの光なるキリストを遣わし、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に、秩序をもたらして下さった。
だから、新しい創造へと造り変えて下さった、まことの光なる主が来られたこの日を、我々は祝うのである。
キリストこそ真の安息へと導いてくださる安息日の主であるが、その安息に入るにはどうすれば良いか。
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(ヘブル4:3)つまり、「信じる」事である。
アダムの失敗である自分の主張をキリストの元に降ろし、御言葉なるキリストを信じて、服従する事。
荒野を40年さ迷った民が、安息に入れなかったのは、福音を説き聞かされても従おうとしなかったからであり、みことばを聞いた人たちが、信仰によって混ぜる事をしなかったからである。(ヘブル3:13-4:2)
神の安息に入った者は、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休む。(4:10)
キリストは十字架上で「完了した」と言い、頭を垂れて主に霊を明け渡され、そして安息日が始まったように、私達も、生来の人間的なわざは十字架に明け渡し、信仰によって安息に入る。
そしてキリストが主日に甦られたように、私たちも共に甦り、新創造であるいのちにあずかるのである。
御言葉なるキリストを信じ、神の安息へと入る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!