メッセージ - 栄光の体(1コリント15:35-49)
礼拝説教メッセージ音声:栄光の体(1コリント15:35-49):右クリックで保存
韓国語通訳有
ある人の家が、火事になってしまったとします。
その家の主人が奥さんに、私はこの家の焼けてしまった灰と炭を利用して、前よりさらに優れた家を作ろう、と言うとしたら、愚かに思うのではないでしょうか。
家が焼けて灰になったなら、全く新しい素材で家を建てるのが当然なように、復活とは、今までの肉体の延長ではありませんし、この体は一度死んで滅びなくては、栄光に満ちた体は与えられません。
私達の体は、植物の種粒のようなもので、種粒は土に蒔かれて死ぬ事がなければ、新しい命を息吹いて成長する事はできないように、私達も、一度死んでこのからだが破壊されなければ、復活の体は与えられません。
成長した植物が、その種より遥かに素晴らしいように、復活の体は、現在私達が持っている体よりも、遥かに素晴らしいものです。
生まれながらの人間は、アダムに似たものです。
アダムは土で作られ、罪を犯し、汗水流して働かなくては生きていけず、いずれ死んでしまうのと全く同じように、私たちの肉体の構成成分は土と同じですし、罪を犯しますし、汗水流して働かなくてはなりませんし、いずれは死んでしまいます。
しかし、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった、とある通り、キリストに繋がるなら、このお方に似る者となるのです。
キリストは罪がないように、私達も罪なき者に似ていきますし、彼は死ぬ事がないように、私達も死ぬ事がなくなりますし、彼が栄光に満ちているように、私達も栄光に満ちていくようになります。
もし科学が発達して、死ぬことが出来ない体になったとしたら、第二のアダムが現れたのを見た時、死ぬ事が出来ない人は、きっとそれを後悔するでしょう。
なぜなら、一度死んで復活したキリストに似た栄光の体は、今私達が生きている肉体の体より、はるかに優れたものだからです。
復活の体は、今生きている世界一美しい人よりも遥かに優れた栄光を持ち、また、どんなに鍛え上げられたアスリートよりも、遥かに優れた特性を持っているからです。(41-43節)
私達の体が日々衰えるとしても、主にあって希望があります。
やがて過ごす永遠の視点から今を考えれば、この地上をいかに過ごすかという事を、もっと大切に思う事でしょう。
この地上において、肉に蒔くなら滅びを刈り取り、霊に蒔くならいのちを刈り取ります。
畑で収穫を得たい人は、望む収穫物の種を蒔くように、私達も天で栄光の体を受けたいなら、地上では霊に蒔き続ければ良いのです。
どうか日々、御霊に蒔く者となり、かの日には、より優れた栄光ある体を獲得する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。