メッセージ - 死は勝利にのまれた(1コリント15:50-58)
礼拝説教メッセージ音声:死は勝利にのまれた(1コリント15:50-58):右クリックで保存
韓国語通訳有
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(54,55節)
今日の箇所は、葬儀の時によく開かれる箇所です。
私たちが身にまとっているこの血肉の体は、朽ちていくものであり、神の国を相続できるものではありません。
朽ちるものは必ず、朽ちないものを着なければなりません。
キリスト者にとっての死は、朽ちてゆく肉体の命が終わり、永遠に朽ちない体が着せられる時まで、眠りにつくものです。
ですからキリスト者にとって、死は忌むべき敗北に終わるものではなく、勝利と復活の希望が持てるものです。
第一の人、アダムから脈々と続く人類の子孫は、呪いの内にあり、罪と死に支配される人生でした。
人は、死から逃れるため、食料を得、病と闘い、時には他人を蹴落としつつ、日々労苦して「死」から逃れる作業をしております。
イエス様はそんな人の有様を救うために、第二のアダムとして来られ、死に勝利する者の先駆けとして、ご自身のからだを人類の罪の身代わりとして死に明け渡し、三日目によみがえり、死に対して勝利されました。
世は、死によって支配されておりますが、しかし、主イエスの愛の命が洪水のように押し寄せて、圧倒的に死を飲み込んでしまい、全てに勝利するのです。
キリストにあって後の世に移された時、もはや死も、涙も、苦労する事も、一切なくなります。
だからこそ今、もしキリストにあって苦労をしているのであれば、それは、永遠に朽ちることの無い栄誉を勝ち取るチャンスであり、またとなく尊い体験をしているわけです。
この人生でさえ、昔を思い起こしてみて、苦労したり涙したりした日々を思いかえすならば、それは良い思い出であり、また、誇りなのではないでしょうか。
なぜなら、そこを通ったからこそ、今の、より成長した、より誇りの持てる自分がいるからです。
ですから今、もしキリストにあって、悲しんだり、悩んだり、貧しかったり、蔑まれたりしているのであれば、幸いです。
永遠に残る栄誉、すなわち、キリストにある苦労の思い出づくりは、今しか出来ないからです。
今、キリストにあって、貧しく、弱く、罵られたり、苦労に満ちているのであれば、それを誇りに思ってください。
今生かされている命を、大切に生き、キリストのため神の国のために大いに働き、永久に朽ちない栄誉を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。