メッセージ - コリントへのパウロ最後の挨拶(1コリント16:13-24)
コリントへのパウロ最後の挨拶(1コリント16:13-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2012-1-20 20:55
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韓国語通訳有
第一コリントの最後で、パウロは非常に簡潔な勧めを書いております。
すなわち、目を覚ましている事、かたく信仰に立つ事、そして男らしく強くあるという事。
そして、それらを愛をもって行いなさい、という事です。(13,14節)
このコリントという町は道徳的に退廃しており、偶像崇拝の盛んな街ですから、色々と目を奪う物も多くあり、誘惑も多いからですが、何より大切なのは、全てを愛をもって行いなさい、という事です。
愛がなくては、どんな信仰も、身を捧げるような献身も、意味がありません。
13章でも愛は全ての賜物より優れている事を語っておりますし、愛は結びの帯として完全である事をコロサイ3:14でも語っております。
15節に登場するステファナは、アカヤ地方の初穂で、聖徒たちのために熱心に奉仕をしてくださいました。
16節で「どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。」と勧めておりますが、ステファナは最初に救われて信仰暦が長い、だから服従しなさい、という事ではなく、聖徒たちのために熱心に奉仕をしているから、そのような人に服従しなさい、という事です。
主と聖徒達のために労をし、多くを捧げておられる聖徒達を、私達もねぎらい、尊敬し、助るべきです。
「すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」(20節)
当時、聖徒達の挨拶として、口づけをする習慣が、ありました。
しかしいつしか、聖職者の階級づけがなされればなされるほど、このような親密な挨拶はどんどん縁遠くなって行きました。
現代日本を生きる私達は、口付けはしないにしても、聖徒たちの間の交わりにおいて、親密さを忘れないようにしたいと思います。
21節以降は、パウロが直筆で手紙を書いております。
パウロが真っ先に書いた事は、22節「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」です。
極めてストレートに、きつい事を言っているかのように見えます。
しかし主が、私達をどんなに良くして下さったか、主がどんな思いで私達を愛して下さったのかを、知れば知るほど、その主を愛さないような者は、呪われるが良い、と思うものです。
22節の「愛」という言葉は、アガペーの完全な愛ではなく、フィレオの親密で親しい愛です。
主は私達を、命を捨ててまで愛して下さいました。
その主を、完全な愛ではないにしても、親う感情すら無い者は、誰でも呪われよ、と、パウロは極めて正直な告白をしているわけです。
主を愛する人達には大きな祝福がありますが、主から離れる者には呪いが待っているという法則を、パウロは誰よりも知っていました。
たとい厳しい口調で嫌われてしまったとしても、たといその人が呪われる事になっても、最終的に主に立ち返るのであれば、その一時的な呪いは、永遠の祝福に変わるのです。
第一コリントの最後は、主イエスにあって大きな愛でコリントの人達を愛している、という、パウロの愛の告白によって、手紙は終わります。
パウロは一貫して、この、本当にどうしようもないようなコリントの人達を、愛していたのです。
結局、私達はキリストイエスにあって、愛するしかありません。
パウロは時にはきつく、時には優しく語りましたが、愛とはそのように、真剣なものです。
第2コリントの手紙を見ると、コリントの人たちの中には悔い改めた者もいましたが、相変わらず悔い改めない者もおりました。
福音を伝える事において、ある人からは多くの喜びと実を得ますが、別の人からは落胆と失望ばかり受けてしまうような事も、ありえる事です。
それでも、キリストイエスにあって落胆せずに、いのちの働きをし続けるしかありません。
いつも落胆せずに、忍耐を持って主の働きをする皆さんでありますように。
イエス。キリストの御名によって、祝福いたします。
アーメン。