メッセージ - 追うべきでしょうか?(1サムエル30:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声「追うべきでしょうか?(1サムエル30:1-8)」(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声「悪霊からの解放(マルコ5章)」:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
※ 本日の第2礼拝メッセージは、主の導きにより、サムエル記ではなくマルコ書から与えられました。
「ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」(1サムエル30:3-4)
弱肉強食の世で生き残るために奔走する中、些細なきっかけで、突然家族や財産を失う、という事がある。
ダビデと六百人の部下達は、サウル王を恐れて異邦の地に逃れ、異邦の王アキシュの信頼とステータスを得るために、騙し合いと奪い合い・殺し合いの日々を連ねている中、ダビデ達が出かけている、わずか三日の間に、アマレクの略奪隊に襲われ、大切な家族も、積み立てて来た財産も、全て奪われて行ったのだ。
ダビデ達は泣き疲れるほど泣いた末、部下達は、ダビデを石で撃ち殺そうと言い出した。
ダビデはそれまで、昼夜襲ってくる危険とプレッシャーに耐えつつ部下達を守り養って来たのに、不可抗力の災いがたまたま起きると、部下達は、ミスリードしたダビデは死んでお詫びしろ、となってしまったのだ。
そもそも、ダビデがイスラエルを離れ、異邦の地で自活する道を選んだのも、また、異邦の王の信頼とステータスを得ようと奔走したのも、恐れに支配され、主に頼らずに自分の心に頼ったためだった。(27:1)
私達も、信仰によらず行動し、神の領域から離れて自分の良し悪し判断に頼る時、このような絶望の極地へと陥ってしまう事はあるが、そんな時、どうすれば良いか。
ダビデは、彼の神、主によって力を奮い起こし、そして祭司の所へ行って、主に伺った。(30:6-7)
「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
ダビデは、非常に控えめに、勇気を振り絞って問いかけをしたのに対し、主は「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と、明確に、しかも問うた以上の答えを示して下さった。
ダビデ達は追跡を始め、ちょうど案内してくれるエジプト人と主が出会わせて下さったおかげで、最短ルートで、しかも攻めるには最善な時に到着し、しかも自分たちの持ち物や妻子達は無事で一切傷がなく、分捕られた分をはるかに超えて、非常に多くを逆に分捕る事ができた。
この勝利と分捕りは、明らかに主に導かれての事であるが、部下の中には「われわれが」分捕った物を、一緒に行けなかった者達に分けてやるわけにはいかない、と言う者も出てきたが、ダビデは「主が」私達に賜った物を、そのようにしてはならない、と言った。(30:21-25)
私たちは主にあって奮い立ち、導かれるなら、必ず祝福が待っている。しかし、祝福された時こそ、なお気をつけて、我々の力で為したなどと奢らず、全ては主が守り勝利させてくださる事を、忘れぬべきである。
ダビデは、戦いに行った者も行けなかった者も、共に同じく分け合うようにし、イスラエルの掟として定めた。
教会はキリストの体であり、皆の益となるために、それぞれ違った賜物が与えられている。(1コリ12:4-13)
だから、教会というキリストの共同体においては、主が与えて下さった祝福は、皆で分かち合うべきであり、誰か一人だけが豊かになり、誰か一人だけ仲間はずれにされる、という状況は、改善しなくてはならない。
皆さんは人生において、どんなものを略奪されて来ただろうか。
サタンが支配する世から、欲深く世渡り上手な人間から、騙され、搾取され、分捕られて来ただろうか。
「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
私は世の中で10数年働いて後、献身するよう促されたが、ムリだと思いつつも、燃やされるものがあった。
弱肉強食の世で立ち働き、確かに多くを分捕られたが、そんな事より、この日本という国が、霊的な略奪隊によって、好き放題に分捕られている現状に、また、何もして来れなかった自分が、悔しかった。
そこで2009年8月1日未明、この礼拝堂で暗闇の中、何度も「追いつけるでしょうか。本当にこの道で良いのでしょうか?」と問うていたが、主の声など一切無く、ただ静けさと沈黙の中、この御言葉と、それに対する熱い涙だけがあり、それで私は信仰を持ってこの道を進み、霊的分捕りをするために、追う事にした。
キリストを信じてから略奪されたなら、主にあって奮い立ち、きっちりと主に伺い立て、取り戻すべきである。信仰を持って奮い立ち、行って多くを分捕り返す皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!