メッセージ - 癒される資質(ヨハネ5:1-13)
癒される資質(ヨハネ5:1-13)
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ベテスダの池のほとりに、大勢の病人や体の不自由な人、やせ衰えた人が伏せっていた。(ヨハ5:1-9)
主の使いがときどき池に降りて来て水を動かすことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。(異本訳<5:3b-4>)
いつ御使いが降りて来て水が動くとも分からず、また、動かされたあとで最初に入った者しか癒されないという、限定的な状況でしか癒しは起こらないため、そこにいる病人達にも、厳しい競争原理が働いていた。
現代社会も、このベテスダのほとりに似た状況で、人々は厳しい競争の中を、あえぐように走り抜き、人を押しのけてでも幸いを得ようと、虎視眈々とベテスダの池が動く時を見張っている。
「ベテスダ」とは「恵みの家」という意味で、彼らは御使いが水を動かして病が癒されるという「恵み」を狙っていたが、現代を生きる人々は、どんな「恵み」に入ろうとして、狙っているだろうか。
少しでも良い学校や企業に入る事だろうか。少しでも年収の高い旦那を得る事だろうか。
しかし、そうしたものを得るには、非常に倍率が高く、各々違った「ベテスダ」からいつまでも抜け出せず、ただ長い間、特に何をしたという成果も無いまま、いたずらに時間を過ごしてきた人は、大勢いる。
御使いや力ある者、企業や権力などが立てた「恵みの家」から、癒しや必要の満たし等を求めても、それを得られる者は、競争に勝った少数の力ある者だけで、頂く恵みも永続するものでは無く不完全である。
ところが、そうした「ベテスダ」の競争に参加せずとも、救われる方法がある。その鍵は、イエス様である。
ベテスダの池のほとりに、38年もの間、病に伏せった状態で、そこから抜け出せない人がいた。
人にとって、38年という病の日々は、絶望的に長く、生活も、価値観も、凝り固まってしまったかもしれない。
そんな彼のところにイエス様は行って、彼を見、言葉をかけた。「よくなりたいか。」
彼は「はい」と答えるような希望も、思いも、気力も、とうの昔に失せており、ただ自分に何々してくれる人がいない事、誰もが我先にと行ってしまう「嘆き」を、久しぶりに声をかけてくれた方に訴える他できなかった。
イエス様はそれに対し、同情の言葉を返す事をせず、手を延べて癒す事もせず、ただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を投げただけだった。
38年も床を担いで歩いた事の無い者にかける言葉とは到底思えないし、随分冷たい対応のように見えるが、とにかく彼は、つべこべ言う事無く、ただイエス様に言われた通り、癒され、床を担いで歩きだした。
他に大勢病人がいる中、この人だけを癒されたのは、彼には癒される資質があったからである。
イエス様は、誰も彼も自動的に癒すお方ではない。たとえイエス様を知っていても、イエス様を信じない者や、イエス様のお言葉の通り実行しない者には、御業を働かせられないし、癒せない。(マルコ6:1-6)
彼は、自分に声をかけた人がイエス様とは知らなかったのに、癒された。 癒される資質とは、イエス様を知っているか知っていないかは関係無く、ただ、イエス様が言われた言葉の通りに、実行する事である。
イエス様の言われた通り行う者に働くパワーは、人間の何十年という時間や価値観よりはるかに強く、どんな頑固な病気も、凝り固まった固定概念や価値観も、打ち破って余りあるのだ!
イエス様は安息日の主であり、ユダヤ人の祭りにおいて本来、祭られる本尊であるべきお方のはずだが、人の祭りと化してしまったユダヤ人の祭りや、神の安息を忘れてしまった形骸的な安息日は無視し、どこへ行かれたかというと、人々から忘れ去られ、あらゆる競争に負け続け、全ての希望も失ってしまったような人を、わざわざ訪問し、声をかけ、救いのチャンスを与えて下さった。
彼を信じる者は救われ、信仰を持って行動するなら癒しが与えられ、汚れは聖められ、死から命へと移る。
皆さんはどんな床に、どれくらいいただろうか。どんな「ベテスダ」で競争に揉まれ、何を得て来ただろうか。
イエス様の「起きて床を取って歩け。」という言葉どおり行い、凝り固まってしまった価値観や、凝り固まってしまった体を癒していただく皆さんであますように。イエス様の名前によって祝福します!