メッセージ - 自身に刻まれたことば(2コリント3:1-6)
礼拝説教メッセージ音声:自身に刻まれたことば(2コリント3:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」(1節)と書いていますが、果たして、コリントの人達にとってパウロは信用ならず、誰かの推薦が必要なのでしょうか。
そもそもコリントの教会は、パウロの献身的な奉仕のお陰で建てられたようなものなのに、パウロがそんな事まで書かなくてはならないという事は、コリントの人達のパウロに対する信用は、パウロを誹謗中傷する者達のお陰で、そこまで地に落ちていたようです。
しかしパウロは言います。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」(2節)
パウロが使徒として、コリントの人達に福音を伝えた。
その実りが、コリントの人達自身であり、だからパウロは「あなた方こそ私の推薦状である」と言っているのです。
人は、文章による確証を求めがちでありながら、一体誰のお陰で今の恵まれた状態に入ったのかを、忘れがちです。
人は書面を求めるかもしれませんが、主が求められるものは、人そのものです。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3節)
主の新しい契約も、書面によるものではなく、霊によるものです。
新しい契約の律法は、御霊の筆によって私達の心の板に記され、主を知る事について、もはや誰かからの説明を必要としなくなります。(エレミヤ31:33-34)
救いは、文字上のものではなく、人そのものが変わり変革されます。
キリストを信じる事により、いのちの御霊の法則が適用され、主は何を喜ばれ、何を嫌われるかが、自分自身に刻み付けられ、それに従って歩む事が出来るのです。
主も、私達を、その手のひらに刻みつけて下さいました。
イザヤ書49章を見ると、主は、私達を本当に愛し、憐れまれるお方である事が分かります。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)
主の手と足に受けた傷は、いのちを差し出すまでに私達を愛して下さったしるしであり、主も、ご自身の傷跡を見る度に、私達を思い起こして下さり、そしてその傷跡は、永遠に残るのです。
私達は、主がそこまで愛して下さった事を忘れないため、心の板に主の律法を刻み付けるのです。
主が御手に刻んでくださった事を覚えつつ、主の言葉を心に刻み、主にあって歩みつづける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。