メッセージ - 栄光の務め(2コリント3:7-11)
礼拝説教メッセージ音声:栄光の務め(2コリント3:7-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
新しい契約は、私たちの心の板に記されたため(エレミヤ31:33)、その律法はいつも私達の内にあり、いつでも私達を導きます。
そしてそれは、いつまでも残るものであり、古い契約は太陽の前の灯火のように色褪せたものとなります。
もちろん旧約の律法にも栄光はありましたが、それは石に刻まれた「死の務め」であり(7節)、「罪に定める務め」(9節)とあります。
モーセが山で律法を授与した時、彼の顔は栄光の光を帯び、民は栄光に輝いた彼の顔を見れませんでした。
また、神がシナイ山で圧倒的な臨在で民の前に顕現された時(出19章)、民は震え上がり、神が直接自分達に語らないようにしてくださいとモーセにお願いしました。
このように旧い契約は、神様と民の間に大きな隔たりがあり、互いの距離は、遠いものでした。
いつも遠くから、細かい決まりごとばかり伝えてくる夫の言う事を、喜んで聞き入れられないように、民は、遠く隔たれて、細かい決まりごとばかり要求してくる神の定めた掟を、守れませんでした。
律法の行いによって義と認められる人は、一人もおらず(ガラテヤ2:16)、あれをせよ・これをせよという律法の行いの下にいる者は、呪いの元にあります。(ガラテヤ3:9-14)
善悪の木の実に基づいて生きている人、すなわち、善か悪かという路線のもとにいる人には、心に平安がありません。
そういわけで、旧約の律法は「死の務め」であり、「罪に定める勤め」なのです。
イエス様はその呪いから解放し、いのちの木であるイエス様に繋がらせて生かして下さるために、十字架上で呪われた者となり、私達の身代わりとなって死に、そして、よみがえってくださいました。
「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
もはや信じた私達は、呪いの木にかけられる者ではなく、命の木につながった者とされました。
その救いは、どのようにして私達に適応されるのでしょうか。
それは、信仰によってです。
律法は罪に定める務めですが、イエス・キリストを信じる信仰は、義とされる道です。
そしてイエス・キリストへと導く勤めは、永遠に残る栄光の務めです。
もはや、古い石の板に書かれたものによるのではなく、聖霊によって心の板に書き記された掟に従って歩むように、キリストにあって造り変えられました。
栄光ある務め人として、相応しく歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。