メッセージ - 捧げる事の喜び(2コリント8:8-15)
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韓国語通訳有
持っている人と持っていない人の差を、貧富の差と言う。
貧富の差は悪い事である、と言う理由は、自分の物は人に与えない、という価値観の元に生きているからである。
しかし、貧富の差があるからこそ存在する、良い事もある。
それは、恵みや施しである。
「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(15節)
神の民に、マナという恵みが降りそそいだ時、ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。(出エジプト16章)
それぞれの力量の差により、集めた量に差が現れたが、共同体全体で分け合った結果、余ったり不足したり、という事は一切無かった。
神は最善を為されるお方であり、40年もの間、共同体全体に最適な恵みを、一日も漏れる事無く、降らせて下さったのである。
自分で集めた物は自分の物、人には分け与えない、という価値観が世の中にはびこっているが、神の国での価値観は、欠乏している人には持っている人が補う、というものである。
「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(14節)
多く集める者と、少なく集める者の差は、言ってみれば貧富の差であるが、それがあるからこそ、恵みの業や施しの業が成り立つのである。
もし皆が皆、大金持ちであれば、何かをあげても、もらっても、何の喜びも甘さもない。
しかし、持っている人が持っていない人に与える時、持っていない人を大切に思う心や憐れむ心が刺激され、実際に分ける事によって、愛と徳が増し加わる。
与えられる人にも、不足が満たされた喜びや、その人への感謝が生まれ、こうして、与える側も与えられる側も、ともに愛に満ちた麗しい感情が湧き起こるのだ。
私達の主イエス様こそ、最たる恵みを与えて下さったお方である。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(9節)
主は富んでおられたのに、貧しくなって下さった。
自らのいのちを支払って、私たちのいのちを買い取ってくださった。
それによって私達の内に、感謝する心、愛する心、大切に思う心、人をあわれむ心、生きた者とされた事への喜びが沸き起こった。
彼が与えてくださり、愛して下さったからこそ、私達もキリストを目標とし、兄弟姉妹を愛し、恵みのわざを為すのである。
キリストは罪と貧しさに満ちた世に降りてこられ、自らのいのちを与えることにより、こよなき愛を示してくださった。
だから私たちは永遠に入った時、永遠にキリストを感謝し続けるのであり、また、今、この世において貧しい兄弟姉妹に施しをするのであれば、それもまた永遠に残る記念となる。
頼る者の無い人に施しをする事は主に貸す事であり、御言葉の故に失うなら、永遠に得るのである。
「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(ルカ18:30)
やがて私たちが行く天の御国には、貧しい者も不足も無く、あらゆる良きもので満ちている。
今この世界では貧富の差があり、不足を覚える事があるが、逆に言えば、恵みや施しは今しかできない。
自分の持ち物など、永遠に残るものではないが、恵みと施しのわざは、天における貯金となり、栄誉となるのだ。
喜んで施しをし、さらに豊かに施しができる祝福が与えられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!