メッセージ - 清いキリストの花嫁として(2コリント11:1-6)
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韓国語通訳有
「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(1節)
彼は、雄弁な言葉や誰彼から受けた推薦といった、人間的な根拠を元に、自分は誰々先生よりも優位である、などといった比較や、自己推薦は、愚かである、と、前もって伝えていた(10章12節)。
しかし、コリントの人たちの目があまりに塞がれているため、彼らを納得させるためには、敢えてそのような愚かな土俵に立たないといけないと感じ、これから自分も使徒としての正当性を主張する「愚か」を我慢してもらいたい、と、前もって断ったわけである。
その前にパウロは、コリントの人達をいかに深く愛しているかを伝えた。
「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(2節)
ここの熱心という言葉は、妬むほどに、とも訳せる。
妬む、という言葉で思い出すのは「わたしは妬む神である」という旧約の言葉である。
神の愛は、言葉だけの絵に描いた餅のような愛ではなく、激しい感情を伴った、実際的な愛である。
神は人を愛しているからこそ、滅びに向かっているようであれば懲らしめてでも取り戻す神である。
パウロはそれと同じように、熱情を持ってコリント人達を愛したからこそ、コリントの人達をほうっておけないのである。
またパウロは、キリストを伝えた霊的父親として、コリント人達を、キリストの花嫁として整えていた。
当時の父親は、娘を、嫁ぐ花婿にふさわしからぬところが無いよう、純潔に育て上げていた。
父親は花嫁に、別の男と肉体関係を持って良いなどとは教えないし、嫁ぐべき相手を差し置いて、何でも好き放題にして良い、などとは教えない。
世の中の男性も、「夫は優しいから、妻が別の男の所に行っても赦す」とか「夫は優しいから、夫を放って置いて自分は好き放題できる」などと思い込んでいる女性とは、普通なら結婚したがらないように、キリストもまた同じように、他の神に走る者は赦さないし、夫たるキリストをほったらかしにして好き放題する者を、主は必ず取り扱われる。
コリントに来た偽使徒達は、別のイエスを伝えたと4節にあるが、たとえば、イエス様以外でも救いがあるとか、何でもかんでも自分の好きな事をして良い、などと、御言葉に反する内容をイエス様の名を使って語っているとしたら、それは別のイエス、別の福音を伝えているわけである。
コリントの人達をキリストに嫁がせる花嫁としているパウロは、彼らがそのように思いが汚されキリストへの純潔を失っている様が、耐えられなかったのである。
私達もパウロのように、霊的な息子・娘がいるのなら、キリストに嫁がせる清い花嫁として育み、どうすればキリストは喜ばれ、どうすればキリストは嫌われるかを、きっちり教えるべきである。
そして私たち自身が、キリストの清純な花嫁として、自らをさらに清めるべきである。
そのように、ますますキリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!