メッセージ - 素晴らしい神秘的な体験の意味(2コリント12:1-6)
礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい神秘的な体験の意味(2コリント12:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは自分の弱さを誇った後、第三の天に行くという奇跡的な体験を初披露した。
「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれない」(12:6)
もしパウロが体験してきた、奇跡的・不思議な体験に焦点を当てて、沢山披露したとしたら、人々はパウロをカリスマ教祖のよう扱うかもしれない。
しかしながら、そうした数々の奇跡的体験も、多くの苦難に耐えて来られたのも、全て、自分の努力によるではなく、神様からの一方的な力添えと、憐れみによるものである為、彼は決して誇る事は出来ない。
パウロは2節以降で、第3の天にまで引き上げられた事を第三者的に書いているが、それは、パウロにとってあたかも他人事のように思えるからだ。
本当にキリストにあって生きている働き人は、自分の関わってきた働きそのものが、あたかも他人事のように、第三者的に見えるものである。
なぜならその働きは、自分のものではなく主の為してくださったものだからである。
確かに自分がその働きをした事には間違い無いのだが、あたかも、自分ではなく他の強く大きな方がそれをして下さって、自分はそれに手を添えていただけ、という感じがするものであるため、その業について、自分は誇りようが無いものなのだ。
彼は14年前、パラダイスにまで引き上げられ、人には語る事が出来ないほどの、素晴らしい体験をした。
どの場所でその体験をしたのかには色々な説はあるが、その一つに、パウロがルステラで石打に遭った時ではないか、という考えもある。
「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。」(使徒14:19-20)
人々から石を当てられ、死んだかのようになっても尚生きているのは人間業ではないが、もっとすごいのは、その直後、自分を石打にした人達のいる町の中へと、再び入って行った事だ。
人には語ることの出来ないほどの素晴らしい事が天において用意されている、その光景をこの時見てきたのではないか、というのも、うなずける。
ルステラでこの体験をしたかどうかは分からないが、ルステラの事に限らず、彼は、四十に一つ足りない鞭打ちという死刑にも等しい重い刑罰を5度も受け、幾度も死線をさまよっている。
それでもパウロがキリストを告白してやまないのは、彼はそれらを遥か上回る、素晴らしい恵みや慰めを受てきたからではないだろうか。
そのような神秘的な体験が与えられる理由は、決して誇るためではなく、私たちが大きな艱難を乗り越えられるようにという、神様からの慰めではないだろうか。
私にはそうした体験は無いが、それは今までそのような苦難から守られていたため、必要が無かったからと思う。
もし私達が、死に至るまで証を守り、殉教する分があるのなら、その時は、パウロやステパノのように、圧倒的な主の栄光を、パラダイスにおいて備えられた慰めの大きさを示され、殉教さえも、余りある喜びへと変えられるであろう。
主からの慰めが無ければ、誰もそのような艱難に耐えうる人間はいないだろう。
いずれにせよ、自分には殉教など艱難が待っているのだろうか、という心配は無用である。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリ10:13)
そして、明日のための心配は無用である。明日のことは明日が心配し、労苦はその日その日に、十分あるからである。(マタイ6:34)
日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。