メッセージ - 300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)
300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス様は、苦難を受けられるかの過越祭の6日前、ベタニヤにて晩餐にあずかった。
食卓にはイエス様に甦らせて頂いたラザロも共に着座し、マルタは喜びをもって給仕していた。
マルタはかつて、色々な事を気遣う事に頭が一杯で、主の足元で御言葉を聞き入っているマリヤも働くよう主に指示したが、ラザロを甦らせて頂き、イエスこそ命の君であると知ったため、自分に与えられている賜物をいかんなく発揮し、喜びをもって主に捧げていた。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)
彼女はいつも主の足元に座って、じっと見言葉に聞き入っていたため、他の弟子達は気付かなかった主の心の機微を察知し、6日前という、早すぎず遅すぎないベストな時期に、主の葬りの用意を実行した。
彼女はその時、大切な物を惜しげなく主の御前で割り、主が働き歩んできた「足」に塗り、女の冠である髪でぬぐったからこそ、香ばしい香りがいっぱい広がり、永遠に残る記念として語り継がれるようになった。
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉による(ローマ10:17)とある通り、私達も主の御足元で御言葉を聞き入っているなら、そのタイミングでしか出来ない事を見分ける事ができ、その時、自分の大切なものを主の御前に割って捧げつくし、自分の冠を、主の「足ぬぐい」にさえ喜んで差し出すなら、主の喜ばれる香りが溢れ満ち、それは永遠に語り継がれる記念として、御前に残るのである。
私達は主のために、どんな「香油」を割れるだろうか。また、どんな「髪」で、主の御足を拭えるだろうか。
さて、この高貴な香り漂う麗しい調和を破って、しゃしゃり出る者があった。イスカリオテ・ユダである。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がそう言ったのは、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を自分のものとして、好きにしたいからである。
マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟り、止むに止まれぬ思いで捧げただけなのに、ユダは主の御思いを量るどころか、主ではなく人を見て、「私だったら300デナリをこうする」と言って、自分の定める礼拝形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。
彼の特徴は、聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする事である。そのような者は、要注意だ。
また、麗しい調和をぶち壊して、人々の注目を自分に向けさせ、アピールし、栄光も横取りしたりする。
このような者はイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍している自分が好きなのであり、イエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえする。
私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、欲望や一時の感情という「銀貨三十枚」と引き換えに、イエス様を見積もって売りたい性質、裏切りたいようなユダの性質を、取り扱わなくてはならない。
あの人の捧げ物は間違っていると陰口を叩いたり、兄弟姉妹の麗しい交わりを、自分の気に食わないと言ってぶち壊したりする時、高貴な香り漂う場は一転して汚れた欲望の臭いニオイに満ちてしまうからだ。
イエス様は、ユダの下心も、あさましい動機も、当然知っていたが、その事は一切触れず、平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭した。「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)
それが私達も習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
私達はいつまでも地上で生き長らえている保障はなく、いつまでも赦してもらえる、という保障は無い。
私達はマリヤのように、捧げるべき時機にいつでも300デナリを捧げる準備は出来ているだろうか。
それとも、いつでもイエス様を売って、自分の好き勝手という銀30枚を得たい心を、野放しにするだろうか。
今しか出来ない悔い改めも、今しか出来ない礼拝も、先延ばしするのではなく、今、為すべきである!
マリヤのように主に香ばしい捧げ物をする皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!