メッセージ - 主は誰か?(ガラテヤ2:6-10)
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韓国語通訳有
「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」(6節)
この「おもだった者」「と見られていた」「人たち」という短い言葉から分かるのは、主(おも)たる者は、人間の誰かでも組織でもなく、主イエスキリストである、という事だ。
パウロがエルサレムに行った時、ペテロ達がパウロに唯一指示した事といえば、貧しい人たちをいつも省みるように、という事だけで(10節)、半年に一度はエルサレムの牧師会に参加しなさい、といった事は、一切無かった。
ヤコブやペテロが交わりのしるしとしてパウロに右手を差し伸べ、パウロ達が行っているミニストリーにあれこれ指示する事が無かったのは、アンテオケの聖徒達の内にキリストが生きて働かれておられるのを認め、そのキリストに全面的に安心して委ねられたからである。
人間組織には必ず「おもだった人」がおり、会議などで上意を下達したり、集団としての意識を合わせたり、調整したりするが、初代教会においては、キリスト者それぞれの内に生きておられるキリストに聞き、支配していただき、キリストの意向に沿って物事が為されていた。
しかし、クリスチャンと呼ばれる人が、誰しも、キリストに支配されて働いているわけではなく、その場合は、人間の知恵によってではなく、キリストにあって注意深く取り扱われなくてはならない。
エルサレム使徒会議において、律法を押し付けるよう者達の意向は、キリストの為された業に照らし出された結果、退けられ、キリストを信じる信仰によって救われるという、主の意向が勝利したように、私達も、キリストの意向を中心にいつも据えるべきである。
教会(エクレシア)とは元々、キリストに召しだされた者達の集まりであり、キリスト抜きの組織や会議といった、人間だけの思惑によって運営されるものではない。
ペテロやパウロといった「人間という器」が重要なのではなく、信じる者を成長させ、働き人に使徒としての権限や力を与え、教会を建て上げて下さる「主イエス」こそ、重要である。
それだから教会には、与えられた賜物を存分に発揮できる自由さと、いのちの躍動があるのだ。
人に支配されるのではなく、キリストに支配され、キリストにある自由の中を存分に生き、働ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!