メッセージ - ピスティス・クリストゥ(ガラテヤ2:11-14)
礼拝説教メッセージ音声:ピスティス・クリストゥ(ガラテヤ2:15-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
律法の実行によって、義とされる者はいるのだろうか?
答えは否である。
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」(16節)
万引きをして捕まったとして、「私は母の肩を叩きました」とか「学校の雑草を抜きました」とか、良い行いをして来た事をいくら並べた所で万引きの罪は消えないように、人は生まれながらアダム以来抱えている罪を抱えている限り、律法の行いをいくら守ったところで、罪が消えるわけではない。
万引きしたら、それなりの罰を受けたり償いをしなくては罪は消えないように、人類が抱えている罪も、それなりの罰を受けるか、償いをしなくては、罪は消えない。
その罪の罰を身代わりに受け、償いを払って下さった方が、イエス様であり、このイエス様を信じる信仰によって私達は義とされるのである。
かつての私達は、律法が示されると、自分の内に罪があることが示され、かと言ってその罪をどうしようもできずに、苦しんでいた。
しかし「キリストを信じる」という、芥子種ほどの信仰を働かせた事によって、そのような以前の、罪vs律法の終わり無き葛藤の人生に対して、死んだ。
何によってか?それは、キリストの十字架につけられた事によって、である。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(19,20節)
16節の口語訳/新改訳は「キリスト・イエスを信じる信仰によって」とされているが、ここはピスティス・クリストゥ、すなわち「"キリストの信仰"によって」が正しい。(KJV:by the faith of Jesus Christ)
生まれながらにして持つ人間の性質に対して、十字架にあって死んだ私達は、もはや以前のような宗教的な頑張りによって生きるのではなく「キリストの信仰」によって生きている。
キリストの信仰とは、わずかのパンと魚で何千人もの必要を満たし、病や悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、魚の口から税金を払える銀貨さえ出したような、あの信仰である。
人間由来の信仰では、そのような事はありえない。
ただ、キリストの信仰によって生きるから、そのような事がありえるのである。
結局、自分の頑張りや信仰ではなく、「イエス様を信じた」(believe in Jesus)事によって以前の自分は死に、死んで甦ったキリストが私達の肢体の内で生き、その"キリストの信仰"によって(by the faith of Jesus Christ)私達は生き、このキリストにあって、全ての事は可能なのである。
このキリストの信仰によって生きる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!