メッセージ - ああ愚かな!(ガラテヤ3:1-5)
礼拝説教メッセージ音声:ああ愚かな!(ガラテヤ3:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
たとえば、あなたが記憶に残っていない程の小さい時、父親が道路に飛び出したあなたを助けるために、身を挺して身代わとなり、車に轢かれ、死んでしまったとする。
後にあなたが「私は、かけっこが早いから、あの時、自分の足でがんばって走って救われた」と言うとしたら、母親は叫んで「ああ、なんて愚かな子。お父さんが目の前であんなにはっきり命を挺して守ってくれたのに、誰がそんな風に惑わしたの!」と嘆くだろう。
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)
もし、自分のかけっこのお陰で救われたと、あくまで主張するなら、それこそ父親の死は無駄であり、父に対して失礼である。
同じように、私たちも行いによって救いを完成しようとするのなら、それこそキリストの死は無駄であり、命を投げ出して下さったキリストに失礼である。
私達がアダムの腰の中にいた時の記憶は残っていないが、確かにその時、私達もアダムと共に不従順へと飛び出し、それ以来、神から離れた善悪判断によって生きるよう、生まれながらの罪の性質がインプットされてしまった。
しかし、そのような罪へと飛び出してしまった私達を、キリストが身代わりになって死んでくださり、そして、よみがえって下さった事を、信じる信仰によって救いが与えられ、御霊が与えられ、奇跡的な救いの喜びの日々へと入れられた。
救いは決して、私達の行いや努力によるものではない。
キリスト者は救われた当初、限りない喜びを体験し、健やかな救いの自由に喜びをもって浸り、どんどん魅力的になっていくものだが、なぜか、日を追うごとに疲れ、くたびれ、魅力も無くなって行き、中には病んでいく人もいる。
そのような人は、ガラテヤ人ような罠に陥っているからだ。
そっと忍び込んだサタンの使いが、私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込み、あたかもキリストの十字架の死だけでは不十分であるかのように吹き込み、私達に罪の呵責へと追いたて、良い行いを強いさせ、そのようにして罠に陥れられて行くのだ。
騙されてはならない。
キリストが言われたのは「あなた方にさらに重荷を負わせて疲れさせてあげよう」ではなく「重荷を降ろさせ休ませてあげよう」であり(マタイ11:28-30)、「真理はあなたを束縛する」ではなく「自由にする」である(ヨハネ8:32)。
福音は、勝利の良い知らせであり、敗北の悪い知らせではない。
もしキリスト者になった事で束縛を感じたり、病んだり、重荷をさらに負わされたのであれば、ガラテヤ人の罠に陥ったのではと疑い、再び御言葉を点検し、人にではなくキリストに聞き、再び真理へと戻るべきである。
私達に救いを、自由を、解放を、命を投げ出してまで提供して下さったキリストの愛をますます知り、罪と死から解放された自由を満喫し、喜びをもってキリスト者として生活していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!