メッセージ - バージョンアップしたペテロ(ルカ22:54-62)
礼拝説教メッセージ音声:バージョンアップしたペテロ(ルカ22:54-62):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日は受難日、十字架にかかられた主を覚える日である。
主が十字架にかかられた日の夜明け頃、イエス様は大祭司の庭で尋問を受け、ペテロは少し離れて中庭で火に当たりつつ成り行きを見ていた。
ペテロはその数時間前、最後の晩餐の席で、主から躓く事を予告されていた。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(31-32節)
この「立ち直ったら」とはエピストレフォー、転向し以前よりも優れた状態になる事を、バージョンアップする事を、意味する。
つまりペテロはこの時まだバージョンアップ前だった訳であり、それは、イエス様から「人間を獲る漁師にしてあげよう」と呼び出された時から、その時に至るまで、ずっとそうだったのである。
事実彼は、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と力を込めて主張したのに、その夜が明け切らない内に、彼は人前で、イエスを知らないと三度言い、呪いをかけてまで誓ってしまった。
鶏の鳴く時、ペテロはイエス様と自分との関係を、徹底的に探られたのである。
シモンはイエス様に人間を取る漁師にしてもらい、イエス様と寝食を共に活動するようになって以来、多くの地方を回り、多くの病や悪霊をイエスの名によって追い出し、多くの人達から感謝され、前の漁師生活よりも遥かに充実していただろう。
彼はイエス様に命がけで仕えて来た、と思っていたかもしれないが、結局、以前よりも活躍している自分、充実している自分を存続させるために、イエス様に着いて来ていたに過ぎない。
キリスト者の中にも、その時のペテロのように、自分のために仕えたり、賛美したり、活動したりする人もいる。
キリスト教という「業界」の中で、前よりも充実している「自分」、賛美したり演奏したりして注目を集めている「自分」、世では受け入れられなかったけれど、この優しい人達の集まりの中で受け入れられている「自分」が好きで、なんとなくキリスト業界の中にいるのであれば、やがてペテロのように、イエス様に仕えて来た動機が暴露される「鶏の無く時」が来る。
鶏が鳴いた時、イエス様は振り向いて、ペテロをじっと見つめられた。
イエス様のその眼差しで、じっと見つめられた時、私達は自分の中の主に対する愛の無さ、弱さ、罪深さが、光の下に晒し出される。
その時、私達もペテロのように、思いっきり泣くべきである。
泣くのが激しければ激しいほど、自分の愛の無さ、弱さ、罪深さ、ふがいなさを思い知り、そうしてますます、イエス様と親密になれるからだ。
そしてペテロは再び、復活の主と出会う。
その時、主の御前に「自分には完全な愛で愛し尽くす事はできない、それでも自分はあなたを親っている」と告白するなら、後には聖霊に満たされ、バージョンアップし、力強い証人として、造り変えられる。
それまで自分中心にしか生きられなかった人間が、イエス様中心に生きられるようになり、全世界に出て行き、福音を伝え行く者へと変えられるのだ。
ペテロはその半年も経たない後、もっと大勢の、もっと権威ある人々の前で、イエス様を大胆に証する事になった。
議院や祭司長たちに対し「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」こそ救い主であり、このお方以外に救いは無いと、大胆にあかしし、その一漁師のあまりな大胆さに、彼らはうろたえた。(使徒4:1-14)
ペテロはイエス様を三度も知らないと言っていたが、そんな口で「あなたがたが十字架につけた、、、」などと、言えるのだろうか?
言えるのである。
十字架にあって、以前のものは過ぎ去り、全てが新しくなったからだ。
十字架のこちら側とあちら側では、全く違う者へと創り変えられているからだ。
皆さんも、鶏が鳴いた経験があるだろうか。
十字架の死によって、造り変えられただろうか。
ただ十字架の主の前にひれ伏し、主にあって造り変えられ、力強い証人となって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!