メッセージ - 善い方にあって自由とされた(ガラテヤ5:13-18)
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韓国語通訳有
パウロは、キリストと出会う以前は律法に縛られ、異邦人と食卓を共に出来なかったが、キリストにあって開放されてからは出来るようになり、ある種の食物を食べられなかったのが、食べられるようになった。
しかし、その与えられた自由を、単に自分だけの楽しみのために用いるのではなく、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになり、それによって、一人でも多くの人達をキリストへと導き、いのちを獲得しようとした。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)
私達はキリストにあって、自由が与えられたが、それは、何でも好き放題にできる自由ではなく「好き放題にしたら滅びに至ってしまう肉の性質」からの自由であり、御霊にある自由である。
一人の男がイエスに近寄って「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と訪ねた時、イエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われた。(マタイ19章)
彼は、律法を幼い頃から守ってきた、と思い込んでいた。
しかしイエス様から示された「隣人を愛する」事のレベルは、財産を全て投げ出すまでの程度である事を示された時、悲しみながら去って行った。
主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたが、金持ちであったザアカイはどうだったか。
彼は、善いお方イエス様を受け入れた結果、別に頑張りもせず、むしろ喜んで、貧しい人に財産を投げ打った。
貪欲で頑強な、らくだのようなザアカイであっても、イエス様にあって楽々と「針の穴」を、通れたのである。
神に不可能は無いのだ。
律法を守り通すような力も愛も無く、善い事など元々出来ないのが、人間の実情である。
大切なのは「善いこと」ではなく「善い方」であり、このお方は、何も善いものが無い人間を、善いものへと造り変えてくださるお方である。
かの青年には、律法には従えない、善い事が出来ない、という「不自由さ」があった。
しかし人は、御霊によってそうした「不自由さ」から、自由とされるのだ。
唯一の善いお方であるイエス様によって造り変えられ、御霊によって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!