メッセージ - 重荷を負いあって(ガラテヤ6:1-5)
礼拝説教メッセージ音声:重荷を負いあって(ガラテヤ6:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
もし私たちが、兄弟姉妹の誰かに対する憎しみや苦々しい思いによって、しつこく付きまとわれているとしたら、御霊によって歩んでいない。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(1節)
もし誰かが過ちに陥っているなら、御霊にあって歩んでいる者らしく、その人の過ちを凝視するのではなく、かえって罪に陥っているその人の弱さを覚え、柔和の霊でその人を正してあげるべきである。
私達は、その兄弟姉妹が遭ったような試練に、たまたま遭わずに守られていたかもしれないし、あるいは以前、同じような過ちに陥っていたかもしれないし、また、いつ陥るとも分からないからである。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)
この2節の「重荷」(baie)は、本来進むべき歩みを邪魔させるような重荷を意味し、5節の重荷(phortion)は手荷物、船荷など、本来的に負うべき荷物を意味する。
もし兄弟姉妹の人生の歩みに、重荷となっているものを見出すなら、兄弟愛をもって互いにそれを担い合い、助け合うべきである。
キリストの律法とは「互いに愛し合いなさい」という、新しくも古からある戒めであり(ヨハネ13:34)、隣人を愛するという一言によって律法はまとめられるからである。
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(3-4節)
私たちが自分の行いを思い返す時、人には言えないような恥ずかしい失敗などのひとつやふたつは、必ずあるはずであり、決して自分は誇れるものはない事が分かる。
今、私達が立っていられるとしたら、それはただ恵みによるものであり、私たちが主から召されたのも、私達が格別良いからでも何か優れている所があるからでもなく、主からの一方的な憐れみによるものであって、主から与えられていないものは、何一つ無い。
それ故、「めいめいが、自分の重荷(phortion)を担うべき」である。(6節)
兄弟姉妹を裁く事無く、互いに重荷を負いあい、主の命じられた「互いに愛し合う戒め」を守り行いつつ、愛という御霊の実を豊かに結ぶ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!