メッセージ - エデンの園と新しいエルサレム(創世記2:4-14)
礼拝説教メッセージ音声:エデンの園と新しいエルサレム(創世記2:4-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり(ヤッツァー:form)、その鼻に命の息(ネシャマ:霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(たましい)となった。」(7節)
人の構成は、土を素材とする「体」と、神の息を素材とする「霊」と、霊が吹き込まれた時に出来た副生物「たましい」の、3要素から成る。
神は人間を、ご自身の手によって練り込んで形づくり、ご自身の息吹を吹き入れられ、特別な存在として造られた。
人は、神の霊抜きにはただの塵にすぎず、元々、神と関わるように創られているのだ。
「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」(5節)
創世の時代は雨が降らず、地の面は、立ち昇る露によってまんべんなく潤されており、主の恵みと支配が、まんべんなく行き届いていた状態だった。(ハバクク2:14)
神はさらに、人の必要を満たす所、また、人の働くべき所として、エデンを造られ、そこに命の木と善悪を知る知識の木とを、生えさせられた。(8-9節)
この「命の木」、すなわちキリストを選ぶか、それとも、「善悪の知識の木」すなわち自分で善悪判断する道を取るか、という選択は、聖書を一貫して貫く重要テーマであり、私達人間には、常にその選択が迫られている。
黙示録21章以降に、全てが成就した世界の有様が記されている。
そこにも命の木は登場するものの、善悪の木は、もはやそこには無く、神と人とは共にひとつとして住み、もはや呪われるべきものは何も無い。(黙示録22:3)
呪われるべきものとはすなわち、神から離れて善悪判断する生き方であり、その善悪判断の集大成である律法に拠る人々は、全て呪いのもとにある。(ガラテヤ3:10)
「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」(創世記2:10)
黙示録においても、いのちの木やいのちの水の川が流れている様を見る。
いのちの木の実を食べる者、すなわち御言葉なるイエスキリストを食べる者は、その人の腹から命の水が川々となって流れ出るようになり(ヨハネ4:14)、神が住まわれる神殿となり、天におけるまことのエデンに入る事が許される者となる。
エデンから流れる川々のほとりからは、良質の金や宝石類が産出し、その川の水によって諸国に恩恵をもたらした(創世記2:11-14)。
同じように、黙示録におけるまことのエデン、新しくされたエルサレムでも、諸々の宝石や、透き通ったガラスのような純金によって豪華絢爛に飾られており(黙示録21:18-21)、川は諸国へと流れて行き、諸国を潤し、癒す。(黙示録22章)
創世記と黙示録のこうした一致は、人間の完成とはすなわち、神から離れて善悪判断しつつ生きる道を捨て、キリストなる命の木に結び合わされ、神とひとつとなって共に住む事であるからだ。