メッセージ - イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16)
礼拝説教メッセージ音声:イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16):右クリックで保存
アブラムの子を宿しているハガルは、サライにいじめられ、逃げた。
もはやサライにとって、ハガルは憎むべき相手、いなくなって欲しい相手となってしまったが、アブラムはまさかここまで発展するとは思っていなかっただろう。
ハガルは、シュルへの道にある泉のほとりで、主の使いに声をかけられた。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いはハガルに、彼女の本来の立場である「サライの女奴隷ハガル」と呼んだのに対し、彼女は「”女主人サライ”のもとから逃げているところです」と答えた。
彼女は「自分はアブラムの子を宿した」「アブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張せず、”女主人サライ”と言って、自分の正しい立ち位置を答えた。
もし彼女が、自分のよかれを主張していたら、どうなっていたか? それは創世記3章、4章でアダム、エバ、カインが主張した結果を見れば、大体想像できる。
そこで主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言い、本来あるべき姿、あるべき所へと帰るよう諭し、そればかりでなく、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束さえ与えられた。
仕えるべき方は誰か、立つべき立ち位置はどこか、為すべきことは何かを正しく見極め、受け入れ、それを告白するなら、祝福をいただく事ができる。
私達も、自分のよかれを主張せず、自分が主イエスの下僕であり、妻である立ち位置を告白するなら、主は、主人として保護して下さり、養って下さる。
主は、生まれて来るる子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう、命じられ、ハガルは主を「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼び、そこにある井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ(生きて、見ておられるお方の井戸)」と呼んだ。
主は生きて、見ておられ聞いて下さるお方であると信仰告白したのだ。
ハガルが一人、身重の身で荒野の道を逃げている時、とてつもなく心細く、やるせなかったろう。
しかし主は憐れみ深く、彼女の元に現れ、彼女は、主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方であると、信仰によって知ったのだ。
彼女が戻るのには勇気が要ったであろうが、荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
その時、この荒野での出来事を、アブラムとサライに報告しただろう。
そして夫婦ともども「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞いて、自分の身勝手さに恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きているお方、見ておられ、聞いておられるお方だと、ハガルを通して教えられたのだ。
イシュマエルは野生のろばのようになる、と主は言われた。
この時生まれたイシュマエルは、アラブ民族の父祖だと言われており、アラブ民族とイスラエル民族がたどってきた歴史を見るに、その通りになっている。
しかし、歴史とは、神の側の提示に人がどう受け答えたかによって織りなされているものであり、今日あるまでに争いが激化してしまったのは、人の側が神の御言葉に不従順を積み重ねて来たからである。
イシュマエルの子孫の中にも、命の危険を賭してまでキリストを信じる信仰を守り通している立派な兄弟姉妹がいるように、私達自身も、野生のロバのような暴れる罪の性質をとりこにしてキリストに服従させるなら、聖霊により、要塞をも打ち破るいのちの力が発揮され、ますます神の子とされて行くのである。(2コリント10:4-6)