メッセージ - エルサレム - キリストの花嫁(詩篇24:7-9)
エルサレム - キリストの花嫁(詩篇24:7-9)
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The Holy Cityという賛美には、3つのエルサレムが登場するが、それらエルサレムの有様は、私達の有様を、如実に表している。
はじめに登場するエルサレムは、古き日々のエルサレムで、町の中には栄光に満ちた神殿があった。
神を敬う人々は、都上りの歌を口ずさみ、喜びと期待に胸をふくらませつつ神殿に上って礼拝を捧げ、子供たちの純粋な賛美を、御使いたちが天でそれに応答し、共に賛美するような、そのような良き時代。
神と人とが共に住み、素晴らしい関係を保ちつつ、豊かな繁栄を享受している、平和なエルサレムである。
それは、主が初めから望まれた関係であり、人の最善とは、御言葉を守り、神を礼拝しつつ生きる事である。
しかし、純真な子供が汚れと堕落に身を染めていくように、エルサレムは、やがて背信の都となってしまう。
主イエスは叫ばれた。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(マタイ23:37-38)
イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、都は、大人も子供も、こぞって「ホザナ(ああ救い給え)」と叫び、自分の服や、しゅろの枝を敷き、イエスをダビデの子とし、歓迎した。しかし、その一週間後、都の外のさびしい丘で、全地を覆う暗闇の中、イエス様をはりつける十字架が立ってしまう事になる。
都の人々は、ポンテオ・ピラトの裁判の前で、イエスを王として望まず「十字架につけろ」と叫び、罪の無いこの御方を排除する判定を下し、代わりに、暴動と人殺しの男・バラバを開放した。
彼らは、自分が王でいたいがために、まことの王を十字架に定め、殺してしまったのだ。それ故、この都は後に軍隊に囲まれ、破壊され、栄華を誇った聖なる神殿も、土台石ひとつ残らず崩され、西壁の一部を残すのみとなり、今ではそこは、ユダヤ人たちが神殿の崩壊を嘆き悲しむ場所「嘆きの壁」となっている。
再び場面は変わり、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。
この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか。この都は、誰のために整えられたのか。それは、一度都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。
この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26-27)
その都には、もはや神殿は無い。神であられる主と、小羊とが都の神殿であり、人は神の臨在の内に、いつまでも住む。都には太陽も月もいらない。なぜなら、神の栄光が都を照らし、小羊が都の灯だからである。
もはや夜は無いため、都の門は一日中決して閉じることがない。全ての人々が、栄光と誉を携えて来るが、全て汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。(黙示録21:22-27)
まことの王・イエスを一度拒否した都は、一度滅ぼされたが、この、人々から捨てられた主・イエスを王とした者達には、神の子とされる特権が与えられ、全てが新しくされ、神に整えられ、聖なる都とされる。
全ての人々には、二通りの道が示されている。まことの王を強情に拒み、永遠の火の中に閉じ込められるか。それとも、まことの王を受け入れて、新しいエルサレムとなって花婿なるキリストと共に永遠に生きるか。
エルサレムの都は、花嫁であり、王なるキリストは花婿である。都の中に王が入って来る時、門を大きく広げ、王を歓迎して迎えるように、私達花嫁は心を大きく広げ、花婿を喜び迎えるのである。(詩24:7-10)
心の戸を広げ、救い主であり、王の王であり、花婿であるイエスを喜んで受け入れ、とこしえに、その真の夫と共に生きる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!