メッセージ - ゲラルでの失敗 - イサクを生む前の最後の整え(創世記20章)
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「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
創世記の学びをしている皆さんは、以前にも似たような事があったのを、思い出した事だろう。
彼は、20数年前も、エジプトでも同じ事を言ったために、妻はファラオに召しいれられてられてしまい、神の直接介入によって、妻は助けられた。
彼らはあれから色々な経験をし、信仰的にも成長しているはずである。
エジプトでの時は、愛する妻サライ一人さえ守れなかったのに、その後、甥のロトが強力な王達の略奪隊にさらわれた時、信仰によって、わずか318人で立ち向かい、王たちを滅ぼして身内ロトを救ったばかりか、多くの分捕りを得た程の事もあった。
そんな彼が、こんな初歩的なあやまちを犯すなどとは、逆に信じられないかもしれない。
いかに信仰が立派な人でも、あやまちは、犯すものである。
あの人が、こんなあやまちを犯すなんて信じられない、というような事例は、聖書に限らず日常世界でも幾らでも見いだせる。
ひと度、高みに達したら、それでもう生涯、過ちを犯さなくなる、というものではない。
日々、主の御前に信仰を緩めず、忠実に歩み続ける事こそ、大事である。
アブラハムには、確かに、アビメレクに対する恐れがあっただろう。(11節)
しかし今回の失敗の原因は、もっと、無意識的・習慣的な事に起因したミスであったと思われる。
彼は当初、ある約束を、妻と交わしていた。
すなわち、彼は妻に、どこへ行っても「兄です」と言うようにと、父の家を出た時、頼んでいたのだ。(創世記20:13)
「妻」ではなく「妹」だと名乗るようにして欲しい、という、信仰の未熟な時期に交わした約束。
それは、はるか昔に取り交わしたもので、初対面の人と合う時は、もはや無意識的に、習慣的に「兄妹です」と言うようになってしまっていたかもしれない。
その無意識的、習慣的に言う「偽り」を、この地方に来た時、いつものように言ってしまったため、またも、妻がアビメレクの元に連れて行かれてしまったのであろう。
次の21章では、いよいよ待望の子、イサクが生まれる。
いよいよ彼らは、大いなる民族の父母となる、その直前、神はアビメレクを通じ、この習慣を取り扱われたのではなかろうか。
アブラハムとサラは異母兄妹で、確かに「兄妹」である事に変わりはない。
しかし、周りに「兄妹」と公言しているのであれば、二人の間に子供が生まれた時、周りは、あれ?二人は兄妹ではなかったの?という事になってしまう。
それがどうして神の栄光となりえるだろうか。
つまりこの約束は、自分たちには「子が生まれない」という不信仰が前提の約束であり、神はこれを徹底として扱われた。
今まで、彼らが「兄妹」と公言した事によって、それが彼らに様々な利益をもたらしたかもしれない。
しかし、兄妹から子が生まれてはならない。子供が生まれるのは、夫婦からである。
神の栄光のためには、アブラハムとサラは「兄妹」ではなく「夫婦」であるべきであったのだ。
世の慣習では、当たり前のように許されている事でも、神の国で許されない事がある。
私達も、もはや無意識的に言ってしまう嘘や、昔取り交わした不信仰な約束にもとづいて、不信仰な行いを、無意識的に行ってしまう事があるかもしれない。
神は、私達をさらなる祝福を継ぐに相応しくしようとする時、そのような習慣を気づかせ、強制的に改めさせられる。
それはたとい、今までは咎められなかったような事や、世から見れば何ら問題無く見えるような事であっても、神の民としての祝福を受け継ぐ者にとって、それは改めなくてはならないものであれば、神は介入される。
アブラハム達は、その「習慣」が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に公言するようになった。
こうして彼らは、子を生む準備が整い、子を生んだ時、周りに堂々と証できる準備が、整ったわけである。
ますます神の国民らしく整えられ、祝福を継ぐに相応しく整えられる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!