メッセージ - パスター日記カテゴリのエントリ
今日は、最近毎日のように仕事の報告と祈りをささげに主の御前に来られる兄弟が、仕事で担当する物件に赴き、そこで交わり、御言葉を宣言し、祈るときを持ちました。
その後、先々週から礼拝に来るようになったあるカップルと交わり、主が触れて下さっているのを見ました。
自分を降ろし、主からいただいた御言葉を素直に受け入れ、実践していくと、主が確かに生きて働かれておられる事を示してくださり、そうしてますます自分ではなく主に期待していく。
そういう方は、どんどん成長し多くの実を結んでいきますが、御言葉よりも自分の価値観をいつまでも優先させている方は、何年経っても同じ過ちを繰り返しています。
競技場の場内に入って信仰の競争に参加するのか、それとも観客席に留まって信仰者達の競争をただ見物しているのか、今日はそれを省みる日でした。
先週ある事で苦しみ思い悩みつつ祈っていた時、「口をちりにつけよ」という言葉が与えられました。
この言葉は哀歌にあった事が分かっていましたので、哀歌を読んでみると、今の私に必要な事が沢山ちりばめられていました。
そういうわけで今回はヨシュア記ではなく、哀歌からのメッセージでした。
哀歌はあまり開かないですが、聖書は本当に人間に必要な事が山盛りに盛られていますね。
来週は収穫感謝祭です。
教会の祭壇は、色とりどりの収穫で満たされます。
以下のURLに、去年の収穫感謝祭で祭壇が飾られた写真があります。
http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=108
野田首相がTPP交渉参加方針を正式表明しました。
情報を集めて総合すると、思う所はあるのですが、私はそうした善悪判断は止めて、ただ祈りたいと思います。
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(1テモテ2:2)
最近、毎日教会に来て、神様の御前に仕事の報告をして、それからの仕事が祝福されるようお祈りにくる青年がいます。
昨日は、彼の思うとおりの結果が出なくて、会社として利益が出なかったのですが、彼は気落ちする事無く、むしろ感謝して帰りました。
それが今日、早速別の方面で祝福された、と、嬉しい報告を神様に為しに来て下さいました。
彼は、毎日主が祝福して下さるのを見るのが楽しい、と言っておりました。
私も、それを聞く聖徒達も、とても恵まれて、神様が良いお方である事を賛美せずにはおれません。
きっと神様は、彼をさらに祝福してくださる事でしょう。
教会のコードレス電話の子機の調子が悪く、設定の中身を色々いじっても、ネットで説明を読んでその通りしても、どうしても直りませんでした。
それを見ていた教会のある姉妹がそれを取って、えいっ、と叩いたら、あっさり直ってしまいました。
人の経験や知恵に頼らず、信仰をもって叩く、そうすれば道は開かれるものですね。
以前、特別賛美をささげて下さった新潟の姉妹が、今日から横浜に滞在しに来ています。
この滞在が、彼女にとっても、横浜の聖徒達にとっても、祝福となる事を、楽しみにしています。
今日もある働き人から、魂が救われたという嬉しい報告をいただきました。
昨日から特に示されている御言葉は、エペソ2:10です。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
主は、私達の至らなさや悪さにしたがって裁く事無く、恵みを数えてくださり、私達に良い行いを備え、その中で歩ませておられます。
教会のある中国の姉妹が、仲間と共に中華料理屋をはじめたので、礼拝の後、七人の兄弟姉妹と共に行ってきました。
とてもおいしく、また、大勢で行ったので、わいわいしていて楽しかったです。
その中で、ある姉妹は断食していたのですが、皆が食事をしているのに彼女は主にとても満たされていて、皆のために食事の皮をむいてくださったり、そこにいる一同全員分のお金を出してくださったりしました。
なんでそこまで??と思うのですが、その断食中が、とても主に満たされ、祝福されている、だから喜んで与えたくて仕方ないようです。
主がそのように与えてくださった喜びが、私達にも伝染して、皆で両手を挙げて彼女を祝福しました。
彼女こそ、祝福されて当然だと思います。
この投稿の題名の意味は何か、ですって? それは、与えるものは幸いです、その人は押入れ、揺すり入れして与えられるからです、という御言葉からです。
今日も静岡から姉妹が来て、洗礼準備会の第2回を行いました。
3時間ほどかけて第2回を終えたのですが、せっかく来たのだから、と、時間の許す限り3回目の途中まで学び、そうこうしていたら日も暮れてしまいました。
今日は焼き鳥屋で排水溝が詰まってしまい、詰まりを取ろうと作業している内に右の薬指、小指を切ってしまいました。
長い棒で掻くだけでは取れなかったのですけれど、何か針状のもので引っ掛ければ取れるのではないかとひらめき、釣りのルアーを垂らして引っぱり上げたところ、実にあっさり取れました。
しかし、釣り上げた時、針が左手の人差し指にも引っかかり、そこもケガしてしまいました。
そればかりでなく、その後コーヒーを飲むときにこぼしてしまい、左中指も今ヒリヒリしています。
これだけ私の指に執拗な攻撃があるという事は、敵は、この指をよほど妬んでいるのでしょう。
実は明日、23日の賛美集会のリハーサルのために新潟へ行き、ピアノを弾きますので、そのためだと思います。
でも、この程度の傷でピアノが弾けなくなるわけではありませんので、さらなる祝福を期待しつつ明日に望みたいと思います。
昨日、ある事業をしている兄弟が、仕事が終わった後、ある売り上げの初物の十分の一を捧げに、わざわざ教会に来られました。
本人がまず感謝の祈りをささげた時、この事業はイエス様のものです、と告白していたので、私は二つの御言葉が与えられました。
(箴言3:9,10)「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」
(詩篇91:9-16)「あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
・・・
彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」
この御言葉で祈って昨日は終わったのですが、今日の午後、彼が教会に「さっそく祝福されました!」と言って十分の一を携えて、捧げてくださいました。
私達は喜びに溢れて、主が生きて働かれるお方であり、御言葉の法則どおり行えばそのように祝福されるのだと感謝の祈りを捧げ、ますます祝福されるよう、お祈りしました。
それから焼き鳥屋へ物を届けに行った時、そこに集っていた聖徒達にも、この喜びの分かち合いをしたところ、みんな諸手を挙げてハレルヤ!と主を喜び称えていました。
それでさっき、なんと彼がまた訪ねて来て、「またまた祝福されました!」と言って、またしても十分の一を携え来て捧げて下さいました!
もう笑うしかありません。神様が私達の想定を超えて法則どおり祝福を惜しみなく与えて下さったのですから。
彼は、楽しくて仕方ありませんと、主にある事の喜びを実体験して、ますます主に繋がって行きたいと、目を輝かせていました。
こういう事があるから、主に繋がっている事は、止められませんね。
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)
皆さんも是非、十分の一で主をためしてみては?