メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:12弟子の非道い(?)決議(使徒6:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
弟子達が増えるにつれ、教会にある問題が持ち上がった。
古今東西、教会には人間が集まる故、問題は付き物であるが、初代教会においてどのように問題を解決して行ったのか、またどのような事に優先順位を置くべきなのか、この箇所から多くを学ぶことが出来る。
問題とは、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ、というものであった。
人は何かと文化や言葉が違う者を理解するのが難しいものだが、当時の彼らにはそればかりでなく深刻な問題を生みやすい要素があった。
ギリシア語を話すユダヤ人とは、ローマ所属州の各地に住んでいる者達である。
なぜ外国に住んでいるのか、色々な理由があった。
ユダヤ近辺で商売するよりも、外国でするほうが儲かって裕福な生活が出来たり、ユダヤの堅苦しい文化を出てヘレニズム文化という当時としてはハイカラな文化を求めて行ったり、あるいは外国人と結婚してその地に住み着いている、といった理由である。
民族意識が強いヘブライ語を話すユダヤ人からすれば、そのような者達は神の民を捨てた、軽薄な、いけ好かない者であり、
ギリシヤ語を使うユダヤ人たちからすれば、彼らは頭の固い、古臭い、ダサい者達であった。
あまり仲がよろしくない集団が混ざり合っていたわけである。
そして、一方のやもめ、援助すべき弱者が、見過ごしにされている、というのだ。
人権意識の進んだ、上から下までクレーム対応第一の現代において、このような事が起こるとすれば、真っ先に取り組んで解決したい問題ではある。
12弟子はどのように問題を解決して行っただろうか。
12弟子が真っ先に語った言葉は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、皆さんもっと仲良くしましょう、といった、現代人なら真っ先に考え付くようなものは全く無く、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」である。
さらに3,4節、
「そこで兄弟たちよ、霊と知恵に満ちた評判の良い人達を、7人探し出してもらいたい。その人達にこの役割を任せよう。
他方、私達は祈りと身言葉の奉仕に専念しよう。」
邪険な見方をすれば、この12人は、この問題を別の人達に丸投げし、私達は別の事に専念しよう、とも見れる。
ヒューマニズム主義の人達からすれば、ずいぶんひどい対応に見える。
しかし、教会という所は、ヒューマニズムという人間中心で動くところではなく、御言葉が中心となって動く所である。
ここで12人が提案した、7人の選別基準は何であろうか。
食卓の奉仕なので、現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人、など、その道のプロを選ぶ所である。
ところが選別基準は、3節「霊と知恵に満ちた、評判の良い人」である。
社会的地位や能力の高さがあっても、霊と知恵に満ちていない人は、落とされるのである。
また評判の良い人でなくてはならない。
教会という閉じた世界では通用しても、外の社会で通用しないような者は、落とされるのである。
これこそ、教会の働き人を選ぶべき基準である。
この12人が、重大問題を差し置いて専念したかった事は、何だったか。
それは、4節「祈りと御言葉の奉仕」である。
人権問題は誰かに委ねて自分は祈りと御言葉の奉仕の方を優先するのは、世の考え方では「ひどい」かもしれないが、しかしそれがエクレシアにおける要職者の取るべき選択である。
エクレシアの主だった人達が祈りと御言葉の奉仕に専念し、霊と知恵に満ちた評判の良い人々がその奉仕に当たった結果、どうなったか。
7節「神の言葉は広まっていき、弟子達の数は猛烈に広がって行った。」
そして、使徒達を迫害していた祭司達さえも仲間に加えられていった。
今日、教会においてこのような増え広がりが無い原因は、教会で要職にある人々が、祈りや御言葉よりもヒューマニズムを優先させたり、
働き人として、霊や知恵に満ちていない者、社会で評判の良くない者が就いたりしているからである。
私達が評価すべきは、霊と知恵に満ち、そしてその実である評判の良い人である。
優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
これは教会においてだけでなく、家庭においてもこの優先順位を守るなら、大いに祝福される。
祈りと御言葉に専念し、大いに祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:イエスの名は永遠に(使徒5:29-42):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サドカイ人達はペテロ達に再び尋問した。
イエスの名を語ってはならないと言ったのになぜ語ったのか、しかもイエスの血の責任を我々に転嫁しようとしている、と。
そこでペテロ達がまず答えたのは、前の尋問時と同様、人間に従うより神に従うべきである事。
イエスの名によって、既に多くの徴が行われており、それだけ明らかに、イエス様の名に力があると示されているのだから、本来、イエスを信じて然るべきである。
にもかかわらず、なおこの世の富や権力に目を奪われ、激しく怒り、殺そうとまで思ったほど、彼らの存在が邪魔で、自分達の立場や教えは大切なのである。
この人達はたまたま、自分の王座の根拠をサドカイ派という派閥や既得権威に置いていたが、人間、誰しも自分や自分の属するものが王であって欲しいもので、まことの神を脇に置いてでも、それを頑なに握り締めるものである。
しかし、神様に与えられた救いの道は、一つしかない。
自分の握り締めている王座を手放し、イエスに明け渡す事である。
このイエスの名の他に、救いの名は無い。
さて、ここに民全体に尊敬されている律法の教師ガマリエルというパリサイ派の指導者が、最高法院に立ち、次のように提案する。
人間が自分の主張をして人々を先導するのであれば、いつまでも続かないものである。
かつてテウダスという者が自らを預言者と騙り、大いなる事をしてみせると言ったが、結局滅ぼされた。
またガリラヤ人ユダという者はユダヤ民族意識を高揚する正論によってローマへの反逆を煽ったが、結局彼も滅ぼされた。
ガマリエルはさすがに人々から尊敬を受けるだけに、人間から出るものは必ず滅びるし、神から出ているものは永遠に残る、という知恵を語ったのである。
しかももし、キリスト者達が神から出ているなら、あなたたちほうが神に敵対する者となる、と。
実にその通りである。
人類歴史において、色々な政治家宗教家が現れては消えていったが、人間由来で人々を自分の下に引き寄せるというわざは、永遠には残らなかった。
それに引きかえ、弟子たちの行為は神から出ていたため、この2000年来、この教えはずっと増え広がり、イエス復活依頼、多くの人々を造り変え、人生を良い方向へと導いて行った。
福音は、神から出ている事は、もはや明らかなのである。
最高法院の人達は弟子達を呼び出し、鞭を内、イエス様の名で語ってはならないと命じた上で釈放した。
この弟子達は、御名のために辱しめをうけるに足る者とされたことを喜びながら、最高法院の面前から出て行った。
イエス様の名の故に辱めを受けたという事は、それほど明らかに「イエス様の弟子である事」が認められ、天においての報いは大きい事を喜んだのである。
そして彼らは釈放され、その命令を違反して、毎日イエス様の名前で福音を告げ知らせた。
定められた法律には従順に従うべきであるが、福音と相反するのであれば、福音のほうを取るべきである。
事実、イエスの名を語ってはならないというサドカイ派の定めた事はすぐ滅び、彼の伝えているイエスの名が永遠に残っている。
人々に従うのではなく、神に従う皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
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礼拝説教メッセージ音声:留め置けない命のことば(使徒5:17-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒達は、再び大祭司たちに捕まってしまった。
その動機は嫉妬であり、自分達が民の指導者でいたいのに、使徒達のほうが大いなる奇跡を行って、目立っているからである。
福音を邪魔する者の特徴として、もっとも特徴的なのは、嫉妬である。
彼らは民衆の目を気にし、相集い、自分達の権威を振りかざす事で存在をアピールする。
イエスの名によって多くの徴が行われているにもかかわらず、イエスがキリストであるという考えに結びつかないのは「我々」が第一優先だからであり、力強いあかしと奇跡に裏打ちされたイエス様の名を否定してでも、あくまで自分達が支配者の座に座っていたいのである。
ペテロは「あなたがたがキリストを十字架につけた」と、外国から来た者達にも言ったし、イスラエルに元々住んでいる者にも、道端の物乞いにも、そして祭司長達にもまったく同じく言ってきた。
全ての人がイエス様を十字架につけたのだ。
悔い改めて永遠のいのちに入れられる者とは、心刺され、イエスキリストを信じた者達である。
故に、ことさら「我々のせいにしようとしている」と読み取っているサドカイ人達は、まことに自分の事しか見ていない。
福音を伝える者達は確かに迫害を受けるが、しかし福音を留めおくことは出来ない。
どんなに牢獄の鍵をがっちりかけても、番人たちが牢の外で見張っていようとも、主はその中から救い出す事が出来る。
何のために救い出すのか。それは20節「いのちのことばを全ての民に向かって語りなさい」これが理由である。
主は、確かに聖徒達を苦しいところから助け出されるが、聖徒達が「聖徒」たる行いをする動機があれば、大いに救い出してくださる。
「いのちのことば」とは何か?
それは、ペテロが2回のメッセージにて一貫して伝えている「十字架につけられたイエスキリスト」の事である。
彼を十字架につけたのは人類全てであり、悔い改めて信じる者には、罪の赦し、永遠のいのち、約束の聖霊が与えられ、大いなる徴や不思議を成す。
祭司長達はあくまでイエスの名を語ってはならないと命じたが、いのちのことばは病や汚れた霊に苦しめられている人達を解放し、邪悪な行いをしていた者達は聖なる行いをするようになり、生まれつき歩けなかった者も、神殿に入れなかったものも、喜び踊りながら神殿に入って、神を礼拝する者となるのだ。
どうしてこの尊い「いのちのことば」を黙す事が出来るだろうか。
弱い者達が次々と壮健に変えられていくのも、祭司長達が耐えられない理由のひとつであった。
世の中の価値観では、弱者は弱者のままであって欲しい。
世の価値観は人々を束縛し奴隷状態にするが、主の価値観は、人々をいのちで満たし、奴隷から解放する。
しかし、いのちのことばは、留め置く事ができないのである。
春になれば、芽を出す。そのめは例えアスファルトに覆われていようと、突き破って行くように、いのちのことばを伝えるなら、どんな邪魔も迫害も、留め置く事はできない。
しかし、聖徒達が恐れるなら話は別である。
サタンは色々な方法を使って邪魔を試みる。
特定の人達を使って直接の妨害をする事もあるし、何かしようとしたらそれをするに当たって欠かせない物が壊れたり、あるいは、聖徒達をささいな事で仲たがいさせたりする。
サタンのその策略を見言葉の光に照らし出し、見破り、イエスの血をふりかけるなら、妨害は無効化され、より大いに主の御技を成す事ができる。
サタンの策略に立ち向かい、いのちのことばを大胆に広める皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:奇跡の力と責任(使徒5:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
主を信じる者達に対する民衆の思いはどうであっただろうか。
神殿や政治を司る者達に嫌われているし、大いなる奇跡を行うし、また聖霊を欺いた夫婦は死んだという、恐ろしげな噂もある。
何やら特異すぎる存在だったため、変化を好まない者達は彼らと一線を引き、敢えて交わろうとはしなかったが、尊敬はしていた。
他方、主を信じて悔い改める者も多く加えられており、
主を信じて永遠の命に加えられる者と、一線を引いて敢えて加わらない者という二通りに別れた。
使徒達があまりに病人を癒したり汚れた霊を追い出したりするので、病人を寝台や寝床の上に乗せて使徒達が通る道に運び出して行った程である。
そしてせめて、陰が誰かの上に落ちるようにした者もいたが、全員癒された。
主を信じた者は、影にさえ力が宿るのであろうか?
病の異やしには色々なケースがある。
ある女性は、イエス様に気付かれずに衣の房に触れるだけで、癒しを勝ち取ってしまい、これは100%彼女の信仰に拠った。
百人隊長は何キロも離れている部下を、おことば一つで癒していただき、このケースは部下ではなく彼を思う百人隊長の信仰とイエスの思いに拠った。
パウロは前掛けで病を癒し、パウロと癒される側の、信仰両方が関係していた。
これらの事から、癒す側と癒される側、あるいは取り成す者の、それぞれの「信仰」が重要である事が分かる。
影や衣の房、前掛けそのものに力が宿っているわけではなく、信仰の篭った言葉こそ、力があるのである。
前回、アナニヤとサッピラの件を見たが、この事件により、聖霊の働きの力強さと恐ろしさを経験した。
使徒達はその後も大いなる奇跡を起しているが、その大いなる奇跡を見ておきながら捕らえる大祭司達やサドカイ派の人達は一体何なのだろう。
アナニヤとサッピラは捧げ物の代金を一部をごまかしたのに対し、サドカイ人達は主の僕たちを捕らえた。
目で見る限り、はるかにサドカイ派の人達の邪悪さのほうが明らかと思われるが、この事から次の事が分かる。
主は、聖霊の御技を体験した者と、そうでない者を、区別される。
サドカイ派の人達は、奇跡は見たが、イエスというお方は信じておらず、聖霊の御わざも彼ら自身の身の上には体験していなかった。
アナニヤとサッピラはイエスを信じて、聖霊の大いなる御技を体験し、目の前で数多く見ていたわけである。
それだけの体験をしておきながら尚、聖霊を、神様を欺こうとする事のほうが、主の御前には、サドカイ派よりも邪悪という事である。
我々は聖霊を求め、力を求め、奇跡を見たいと思うが、大きな力には大きな責任も伴う。
神様はもっと大いなる事をしてくれないかと願うが、今、一人一人に与えられている分は実に相応しく、主の恵みは今、聖徒達一人一人に十分なのである。
だから、しるしそのものを求めるのではなく御言葉を求め、その御言葉に各々信仰を混ぜて語るべきである。
それこそ、主が各々に求める責任を忠実に果たしている事になるのである。
聖霊に満たされ、人々から尊敬され、主にあって力ある実技をする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:全てを共有に(使徒4:32-37):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒達の生活の様子が再び出て来るが、ここで強調されている事は、心と魂がひとつであり、一切を共有して生活し、何も自分の物とは言わない事である。
土地や家を持っているほどの者は、家や畑を売って、使徒達の足元に代金を置いた。
実に思い切った事をするものである。
なぜ彼らがそれだけの事をしたのか。
まず、イエスキリストを信じた者達はそれほど「兄弟姉妹」だったからであり、イエスキリストの通った兄弟姉妹のほうが血の通った兄弟よりも真実の兄弟姉妹なのである。
そればかりでなく、世の富が霞んで見えたからであり、売ったとしても収支が余りある大いなる恵みが彼ら一同の上にあった(33節)から、喜んでそれが出来たのだ。
さて、36節以降にバルナバが出てくる。
「訳せば慰めの子」と書いてあるが、言語的には慰めの子とは訳せない。
しかし彼の後の行動を見れば「慰めの子」の名前が相応しい事が分かる。
教会を迫害していたサウロ(後のパウロ)がイエスを受け入れた直後、教会は彼を非常に恐れていた。
そんな時、バルナバはサウロを受け入れ、使徒達の元に連れて行き、彼を仲間に加える仲介人となった。
また、後の伝道旅行の時、パウロは、以前伝道旅行を脱退して行ったようなマルコは連れて行けないと主張したが、バルナバは断固一緒に連れて行くように主張し、激しい意見衝突となり、結局二人は別のルートで行く事になったエピソードもある。
この箇所で二人は別れたが、分かれた後もパウロはバルナバを忠実な僕として認めていた様子である。
それが1コリント9:1-7 に書かれてある。
この箇所を見る限り、バルナバも独身を通していた節がある。
「私の働きの成果は、主にあるあなたがたではないか。」(1コリント9:2)
パウロもバルナバも、たとい妻や子供はいなくても、コリントの人達や世界中で伝道して得た主にある兄弟姉妹たちが子であり、父であり母であり、家族である。
主にあるいのちにつながった兄弟姉妹が増える事が大いなる喜びだったからこそ、バルナバは自分の畑も売って、主にある兄弟姉妹、父、子たちに喜んで捧げたわけである。
バルナバのように豊かに捧げ、豊かな実をたくさん得る皆さんであますように。イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:アナニヤとサッピラ(使徒5:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
アナニヤとサッピラはたちどころに死に、その事を聞いた原初教会は大きな恐れに包まれた。
少しでも不正な心を持って捧げれば即滅びるのであれば、教会に集う多くの者は既に倒れているはずであるが、そうでもない。
なぜ彼らに、このような事が起きたのか。
アナニヤとサッピラが行ったのは、土地を売って聖徒達の足者に置いたのだから、外見的には立派な行動である。
しかし、彼らの心は「全く逆」で、心はサタンに満たされ、聖霊を欺いていたのだ(3節)。
主は、そのような事は、そのまま捨て置かず赦されない。
当時はまだ新約聖書が無かったが、この出来事によって、神様は何を望んでおられ、何を赦されないのかを、聖徒達は厳粛に知って行く事ができたであろう。
私達は日常生活において、このお金は神様に捧げ、このお金は生活のため活用する、といった仕分けをするが、それはもちろん正当な行為である。
問題は、聖徒達は自分の資産を売って一円違わずきっちり捧げなくてはならない、といったような事ではなく、「心の内をサタンで満たし、聖霊を欺く」事であって「代金を」ごまかすという行為に限った事ではない。
主の御霊を試みて、世の富に心奪われるというのは、ヨシュアの時代のアカンのように「滅び」を自分の内にとどめておくような事である。
世と世の欲望(肉の欲、目の欲、資産の誇り)は滅びるものだが(1ヨハネ2:15-17)、彼らが残しておいたものは、まさしく「滅び」だったのである。
私達という神の畑は、キリストのからだなる教会に、全て売りつくしたはずである。
キリストの血によって買い取られた代金をごまかし、肉の欲、目の欲、資産の誇りのために残してはならない。
この夫婦はその時その場に倒れたが、もし、サタンに心満たされ聖霊を欺いたままで、奉仕や捧げ物をするなら、早かれ遅かれ倒れる。
それはとても厳粛な事であり、古今東西全ての聖徒に対する戒めである。
憐れみと猶予が与えられている今、キリストの血の値は差し引きする事なく、捧げるべきは全て捧げ尽くしたものとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:大胆に御言葉を語らせて下さい(使徒4:23-31):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペテロとヨハネは、釈放されるとコイノニヤ(主の集まり)の元へ戻り、祭司長達に言われた事を残らず報告した。
結局祭司長らは二人に何もする事が出来なかったが、もはやイエスの名によって語ったり何かを成す事も禁じられた。
弟子達は次のように祈り始める。
「天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主よ。」
私達の主は、天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主。
被造物よりも遥かに尊く、全ての人よりもはるか高い主。
これが、私達のバックについておられるお方である。
ペテロ達は「神に聞き従うよりもあなたたちに聞き従うほうが神の前に義しいかとうか、判断して下さい。」と言う事によって、
天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主の御前で、逆に尋問した。
人の目から見れば、主の集まりは国家権力によって脅され、尋問を受け、働きを制限されたかのように見えるが、天的にはむしろ、国家権力の方こそ、迫害され、尋問される
立場なのである。
キリストも、その弟子達も、地上の者達に逆らわれる事は定められており、使徒の時代以来現代に至るまでそれはずっと続いている。
私達はどのように祈るべきか。
「今、主よ、彼らの脅迫をご覧下さい。」(29節)
この続きは「彼らから守って下さい」でも「敵を滅ぼして下さい」でもない。
確かに主は守って下さるし、敵を滅ぼして下さるが、御言葉を語る事抜きに、守って下さいとか敵を滅ぼして下さいと祈るのは、順番が違う。
まず告白すべきは、「あなた(キリスト)の奴隷」である事と「大胆な態度で御言葉を語らせて下さい」である。
奴隷は自身の意のままには出来ず、主人の意に添うものである。
私達は以前、世の奴隷であり、暗闇の支配下にあったが、御父は私達を闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。(コロサイ1:13)
主イエスの奴隷であるという事は、とても麗しく、甘い事である。
「同時にあなたの御手を伸ばし、あなたの聖なる僕イエスの名によって、癒しと徴と奇蹟とを行なわせて下さい」(30節)
何の考えも目的も無く単に癒しや徴、奇跡を求めるべきではないが、「御言葉を大胆に伝えるために」であれば、躊躇無く求める事ができるし、現に与えられる。
現代に至るまで、世は相集い、国家権力さえも用いてキリストに逆らい続けてきたし、我々もそのようにされている。
時には支配者を相手にする事になるかもしれないが、私達のバックには天と地と海を創られたお方がおり、このお方にあって御言葉を語り、世を罪に定める事さえできる。
私達はもはや暗闇や死の奴隷ではなく、麗しく慕わしい御子の奴隷であり、そうであるからには私達は主の保護の内にあって御心を成すのみである。
このお方にあって大胆に御言葉を伝え、癒しと徴と奇跡とを行い、暗闇を光に、死をいのちへと満たして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:捨てられた石が(使徒4:8-22):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
イエスこそ人々から捨てられた隅の親石(詩篇118:22)であり、彼の名によって人は癒され、また彼の名以外には救いは与えられていない。
この名を信じる者には罪の赦しと、体のよみがえりと、永遠のいのちが与えられ、ペテロ達を大胆に造り替えた聖霊も与えられる。
これこそ、私達がなすべきメッセージである。
ペテロとヨハネは、祭司長達の前であろうと、群集の前であろうと、「イエスの名によってでなければ救われない」と同じく宣言し、誰の目にも明らかに生まれつき足が利か
なかった者は、癒された。
この出来事の故に、多くの人達は「神様を賛美し」、イエスを信じる者はこの素晴らしい事が人に起こるのだと希望を持ち、五千人以上が仲間に加わった。
悔い改めて立ち返るならそのような素晴らしいプレゼントが与えられるが、悔い改めるという事をあくまでしない者もいる。
サドカイ派の人達の主張は、復活もよみがえりもなければ、死後の裁きも無い。
彼らは今生きている現世こそ全てだと考えている故、いかに既得権を守り、保つか、という事に苦心している。
そのような主張は、何も彼らだけの専売特許ではなく、いつの時代でも、どこにでもいる。
多くの人達は癒しの御技に希望を持ち、神を賛美したが、彼らがそれを喜ばないのには訳がある。
自分達が「上」であるために、「下」である人間が必要で、
「あなたは神殿に入れない劣った者、私達は入れる優れた者」といった、目に見える比較対照が欲しかったのだ。
生まれつき足が利かずにいる者は、神殿に一生入れないまま癒される事無く、ずっと物乞いをしていて欲しかったのである。
下の奴はいつまでも下に留まって欲しい、と思って、伸びようとする者を叩く人間は、今も会社組織に珍しくない。
彼らは、その下の階級である元漁師のペテロとヨハネに、何も言い返す事ができず、互いに評議し合って言った。
「あのような著しい徴が全住民に知れ渡ってしまった。だから、どうしよう。」
ペテロ達がイエスの名を通して人間業ではない事が行われたのを見た事は見たものの、悔い改めるという事は、頭に全く無かった。
それどころか、多くの者達がこの二人を支持したから、もし彼らを鞭打ち処刑したりすれば、自分達のほうが悪人になる、といった事を心配しているのである。
そういうわけで、彼は何も出来ず、脅した上で釈放しようという結論に至った分けである。
イエスというお方の前に、人は真っ二つに道が分かれる。
それまでの自分の道を捨てる者、固持する者。
自分を固持する者は後に失い、捨てるものは後に得る。
ペテロたちは言った。
「神に聞き従うよりもあなたたちに聞き従うほうが神の前に義しいかとうか、判断して下さい。」
彼らは尋問されているようで、逆に尋問したのである。
イエスの名によって徴が現れているのは誰も否定しようが無い。
それでもなお、イエスを否定しているあなたたちは、神の前に正しいかどうか。判断して下さい、と。
神の国の大使として、その事を立派に提言したわけである。
ペテロとヨハネは元々お調子者で、カッとなりやすい、裏切った、弱く卑怯な者達であった。
しかし彼らのこのような一連の言動と、大胆さと、知恵とは、とても人間業ではない。
御霊に満たされれば、誰でも造り替えられるのである。
御霊に満たされ、イエス様を大胆に証しする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:ヘタレなヤラレキャラでも(使徒4:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サドカイ派が闊歩している神殿で、イエスキリストや死者の復活を語るというのは、十分逮捕されうる行為だったが、それでもペテロとヨハネは堂々とイエスをのべ伝え、五
千人以上を獲得した。
御言葉と聖霊にキャッチされているなら、イエスを伝えずにはおれない衝動に突き動かされ、そのような危険など霞んで見えたのである。
御言葉を伝える者は全てそうである。
そしてペテロ達は捕らえられて行った。
政治・宗教の上流階級であるサドカイ派は、民衆の捧げ物を独占的に管理し、思うままに税率を決め、時には搾取していた。
彼らが信望していたのはモーセ5書で、死者のよみがえり、死後の裁き等は彼らの信条には無く、現世的な生き方をしていたため、イエスキリストの教えとは真っ向から反す
るものだった。
彼らは健康や富が与えられる事が神の祝福であるとしていたため、生まれつき足が不自由で神殿の外で物乞いしている者は、神に呪われた者の典型だった。
そんな彼が、イエスの名によって癒され、永遠のいのちについて語られたのだから、サドカイ派からすればたまったものではない。
ペテロとヨハネは捕らえられ、そうそうたる面々の前に引きずり出されていった。
祭司長達とその一族、現代で言えば、大臣と教団長を足して割ったような地位の高い人達が召集され、大いに威儀を正し、
「一体何によってこのような事をしたのか」と、二人の元漁師に詰め寄ったのである。
普通の人間なら、それだけで震え上がるものだが、
彼らは物乞いであろうと大祭司であろうと「あなたがたが十字架につけたキリスト」を大胆に伝えた。
どんな立場であろうと、人間が救われる名前は、天の下において十字架につけられたキリストの他には誰もいないのである。
彼らがあまりに大胆に真理を語るので、祭司長達は何も言い返す事が出来ず、そして、彼らが無学な普通の人間であった事を知って驚いた。
彼らがそのように出来たのは、人間業ではなくまさしく聖霊の力による。
イエス様が本当によみがえったかどうかの根拠を見たい時は、どうしたら良いだろうか。
それは、福音書の前と後の弟子達を見ていると、良く分かる。
あれだけお調子者で3回も裏切ったペテロが、このように偉い人達の前で大胆に証しする事ができるように造り替えられているのだ。
もしイエス様が、有史以来、幾多もの現れては消えていった宗教の教祖の一人であったなら、死刑にされた時点で歴史の闇に葬り去られるものだし、ペテロのようなヘタレキ
ャラなど、裏切った時点で再び登場するわけが無いのである。
しかし主は、そんなヘタレなヤラレキャラさえも用いて、大胆な者へと造り変えて下さるお方である。
聖霊に満たされるにはどうすれば良いか。
それは、聖徒達の交わりから離れず、例え3度主を否んだとしても、再び立ち返るほどのしつこさが大切である。
イエス様にあくまで付いて行って大胆に造りかえられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:待ち望んでいた安息(使徒3:17-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
今回の癒しの徴は、かなりインパクトがあった。
およそ20年以上も毎日神殿の門前にいて施しを求めていた、神殿に行く者達にとってはいわば目印のような者が、癒されたのである。
今回のペテロのメッセージもペンテコステの時と同じで、預言者に予め語られていたキリストが中心である。
モーセは自分のような預言者が神によって立てられる事を示し、その彼に聞き従うよう命じた。
変貌山において天から語られた言葉も、モーセでもエリヤでもなく「彼(イエス)に聞け」と言っている。
モーセ以降、全ての預言者達が語っていた事が、キリストにあって実現した。
アブラハムの子らである私達は、信仰によって不完全なからだは完全にされ、罪は拭い去られ、主の御前から安息の期間が来る。
かの癒された者は、40年もの間、不完全な体のため、美しく装飾された「美しの門」の前に20年毎日運ばれても、決してその中に入ることは出来ず、捧げ物をする事も禁じられていた。
ずっと安息できていなかったが、イエス様を信じる信仰によって安息を得た。
イエスの名によって癒され、ペテロと一緒に門を入っていったその喜びは、いかほどであっただろうか。
第7日、すなわち安息日の祝いは、私達のために残されている。(ヘブル4:9-11)
安息に入るのは信仰の故であり、安息に入れない者は福音に信仰を混ぜない故である。(ヘブル4:2-5)
この足の不自由だった者は、創造のみわざが再び完成する必要があった。
みわざの完成は、イエスを信じる信仰によって成る。
不完全さは、キリストの名によって完全にされなくてはならない。
病は、キリストの名によって癒されなくてはならない。
貧しさや不足は、キリストの名によって満たされなくてはならない。
信じて、創造のみわざを完成させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!