メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:復活の主を証する(使徒26:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロは弁明の機会が与えられた時、自分が釈放されて命を救うよう弁明する事はあえてせず、イエスの証を喜んで行った。
彼はかつて、イエスに反対する者「サウロ」として有名だったが、イエスと出会い、造り変えられ、後には逆にイエスの伝道者として迫害されるまでになった。
彼がそこまでしてイエスを伝える理由は、イエスがまさしく生きておられ、現実以上に現実として働いておられるからである。
彼は、自分が訴えられているのは、先祖に与えられた約束の望みの故だと釈明し(6節)、その約束とは、キリストを通して死者が復活する事である。(8節)
死者の復活はクリスチャンにとっては最重要事項で、もし復活が無いとしたらキリストの復活も無かったはずだ(1コリント15:12-19)。
もし復活が無ければ、福音とは、主人を裏切った臆病者どもの吹聴事、という事になる。
では、弟子達はなぜ、キリストの十字架の前と後で、こんなにも激変してしまったのか。
パウロは幾度かの弁明の場で、なぜ釈放されて命を救う事よりも、イエスの証を喜んで行ったのか。
もしキリストが死んでしまったままであるのなら、弟子達やパウロが命を賭してまでキリストを伝えるメリットは一体何だろう。
キリストは紛れも無く十字架で死に、3日後に復活し、現に生きて働かれておられるのだ。
主が聖霊が使わされたからこそ、弟子達はこんなにも変えられて大胆に証し、福音は現在世界中に至っている。
今やイエスキリストの名前を知らない者はいない事実こそ、彼が生きておられる事の証拠である。
キリストの証人は、何もパウロだけの専売特許ではない。
私達一人ひとりも、キリストのよみがりの御技を体験している者達で、ある者は病が癒され、ある者は不足が満たされ、ある者は強い者に造り変えられた。
キリストが死者の中から初穂としてよみがられたからこそ、我々にも、復活の望みがあるのである。
復活の主にあって日々新たにされ、復活を体現していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:私達に与えられているご計画(使徒25:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有
フェストゥスが総督に着任し、アグリッパ王とベルニケが彼を表敬訪問した時、フェストゥスは「実はこれこれの男がおりまして、、、」とパウロの話をした所、王は彼に興味を持ち、パウロはこの王の前でも弁明する事となった。
このマルクス・ユリウス・アグリッパ2世は、パレスティナ地方のほぼ全域を支配し、あの虫に噛まれて死んだヘロデ・アグリッパ王(アグリッパ1世)の息子である。
ベルニケはアグリッパ2世の姉妹で、非常に美しく、4人の男と結婚・同棲した女であった。
このように、ローマの王や総督周辺は道徳的にかなり堕落していた。
そのような者達と相対してきたパウロは、機会が与えられれば愚直なまでにキリストを宣べ伝え、それはユダヤ人の大祭司や長老達の前でも、異邦人の千人隊長や総督、王の前でも違いは無かった。
パウロにとっては、自分が釈放されるかどうかは関係なく、また、相対する者の身分の高い低いも関係無く、ローマ人もユダヤ人も全て福音を伝えられるべき者であり、ことさら道徳的に堕落したローマの高官・王達は特にそうであるとして、自分の弁明よりもキリストを証する事を優先させた。
『主は言われた、「行きなさい。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前で私の名を担う、私の選ばれた器である。実際、私の名のためにどんなに苦しまねばならぬかを、彼に示そう」』(使徒9:15,16)
この言葉はパウロがまだキリストを迫害する者サウロだった時、彼を癒したアナニヤに主から与えられた言葉だが、まさしくその道を歩んでいる。
彼にそのようなご計画が与えられたのは、実はかなり前で、それは天地創造の前からである。
そしてパウロに限らず、私達も天地創造の前から主に愛され、御自分の前で聖なる汚れのない者にしようとキリストにおいて選ばれており、私達をキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださっていた。(エペソ1:3-5)
主が皆さんに与えられているご計画を悟り、それに従って忠実に歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:カエサルに上訴する理由(使徒25:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有
総督がフェリクスからフェストゥスに替わり、パウロの裁判は2年ぶりに再開された。
パウロに並べられた多くの罪状はどれも立証する事は出来ず、本来ならそれで無罪放免されて良いはずであったが、フェストゥスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロに「エルサレムで裁判されたいか」と持ちかけたため、パウロはカエサルに上訴した。
パウロがカエサルに上訴したのは、自分の正当性を主張したいからでも死を免れたいからではなく、邪悪な者達の欲望に甘んじる事によって、不正や罪を増し加えさせないためだ。
我々キリストの聖なるしもべは、不正な者の偽りを甘んじる事で、その者と取り巻く社会に罪を犯させるのは良くない。
そしてパウロが上訴した一番の理由は、イエスキリストをより多くの異邦人や高官達に証するためである。
パウロは少なくとも、ローマまでは命が脅かされない事を、主から御言葉によって保障されている。
『主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」』(使徒23:11)
パウロには個人的に保障の御言葉が与えられたが、今の時代、聖書の御言葉は全て私達に個人的に語られ、信じる私達の保障となっている。
たとい千人万人が右左に倒れるような災いに遭っても、自分に災いは近づかないという御言葉(詩篇91:7)を信じるなら、その信仰がその人の保障となるし、神の国と神の義を求めるなら、必要な物はこれに加えて全て与えられると信じるなら、その信仰を込めた御言葉が保障となって、その通りになるのである。
パウロはカエサルに上訴する事によって、さらなる証の機会が与えられた。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(ピリピ1:12-14)
兄弟姉妹たちはパウロがエルサレムに行かないように懇願し、逮捕されないで欲しいと願ったが、パウロが聖霊の導きに従い、逮捕された事によって、より多くの者達に福音が伝わり、そして兄弟姉妹たちもそんなパウロを見て確信を得、ますます勇敢に恐れなく御言葉を語るようになったのだ。
人の目からは何が最善か分からなくても、最善を知っておられる主に全て委ね尽し、御心を成就させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声: 義と節制と来るべきさばき(使徒24:22-27):右クリックで保存
韓国語通訳有
総督フェリクスは妻ドルシラと一緒にパウロを呼び出し、キリスト・イエスについて尋ねた。
フェリクスはユダヤ人を非情な仕方で押さえつけ、反乱をさらに大きくさせた、非情で不道徳な総督である。
ここに出てきた妻ドルシラは、元々アジザスという領主の妻だったが、フェリクスはそれを離縁させて第3番目の妻として召し入れていた。
さて、ここで想像していただきたい。
もしあなたがキリストの故に逮捕され、すんでの所で死刑から守られ、非情で不道徳な総督の元へと護送され、そこである程度の自由が与えられたとする。
その総督は、あなたを釈放する事も死刑にする事もできて、彼が「あなたの信じているキリスト・イエスについて聞かせて欲しい」尋ねたとしたら、一体何を語るだろうか。
そのような状況でパウロが語ったのは、愛や憐れみ、赦しではない。
義と、節制と、来るべきさばきについて(25節)であった。
大祭司アナニヤを筆頭にユダヤ教徒達は、身に危険も無かったのに、憎たらしいパウロを陥れたいがために、この不道徳な総督をおだて上げ、へつらった。
しかしパウロは、どんなに危うい立場にあろうとも、また目の前の人がどんな権威でどんな立場にあろうとも、その人にとって霊的に必要な戒めを与えたのだ。
私達もどんな状況にあろうと、また相手がどんなに力ある者でも、キリストについて尋ねられるのなら、その人にとって必要な御言葉を伝えなくてはならない。
語った事によってその人が怒ったり悲しんだりする事が簡単に想像できるような状況でも、御言葉は真実であるが故に、そのまま伝えなくてはならない。
フェリクスは、義と節制と来るべきさばきについての言葉を聞くと恐れ「この話はまたの機会に聞くとしよう」と言ってその場を閉じたが。
しかし、「またの機会」は訪れなかった。
彼はその後、何度かパウロと会うが、それも福音を聞くためではなく金をもらいたい下心のためで、その卑しい態度は改善される事無く、結局彼は2年後、その暴政のために皇帝ネロによって罷免され、死刑されそうにさえなったが、命だけはなんとか助けられた。
対してパウロはその2年間、兄弟姉妹達と比較的快適で有意義に過ごす事が出来、さらなるその後の主の働きの為に養われた。
いかなる状況においても御言葉を正しく伝え、祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:必ず最後に主が勝つ(使徒24:10-21):右クリックで保存
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総督フェリクスの法廷にて、大祭司アナニア他ユダヤ人長老達の訴えに対し、パウロは大胆かつ的確に反論した。
ユダヤ人達の訴えには具体性も根拠も無かったが、パウロの答弁は具体的で根拠もあり、説得力があった。
なぜパウロがこのように的確で知恵に満ちた対応が出来たのか。
それは主が約束された通り、聖霊に満たされ知恵が与えられたからである。
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21:12-15)
祭司長や長老達は、パウロ一人を巡って千人隊長や総督、その他多くのユダヤ人やローマ人を振り回したが、そのどさくさにキリストを証する機会が多く与えられ、多くの人々が福音を聞いた。
結局、最後に勝利してほくそえむ者とは、雄弁な弁護士を雇って訴える者ではなく、大声でわめいて衣服や塵を空中に撒き散らす者でもなく、憎む者を陥れたり目的を達成する為に恥も外聞も捨てられる者でもない。
勝利する者とは、イエスを主とする者である。
そして結局は何事も、主の一人勝ちになるのだ。
詳細は音声メッセージで。。。
今日も皆さんが主イエスキリストにあって健やかでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主張をゴリ押しする者(使徒24:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
大祭司アナニヤはテルトゥルス(別訳:テルトロ)という弁護人(原意:雄弁家)と長老数名を連れて、はるばるカイサリアへやって来て、フェリクス(別訳:ペリクス)総督にパウロを告訴した。
テルトゥルスは慇懃な言葉でフェリクスを褒め称え、パウロをあたかも世界中で紛争を起している原因であるかのように、吹き込んだ。
フェリクスといえば総督の地位に就いて以来、その非情さのため数々の騒動が起こり、穏健派ユダヤ人さえも反乱した人物である。
忠実に神に仕えるはずのユダヤ人宗教者は、雄弁な弁護士を雇って訴えたり、敵に媚びたり、大声でわめいて衣服や塵を空中に撒き散らしたりと、憎む者を陥れる為にあらゆる手段を駆使する。
それはユダヤ人指導者達に限らず、現代における敵の常套手段でもあるし、我々の中にもそのように主張をゴリ押ししたい願望は大いにある。
しかし、そうした人間的な欲望を収め、自分の手練手管でのやりくりを止め、主権をキリストに明け渡し支配を委ねる者には、キリストの支配がその者を包み、全ての事は最善へと導かれてゆく。
パウロは裁かれようが無い訴えによって公に裁かれたからこそ、カイサリヤにおいて兄弟姉妹との2年が与えられ、ローマ行きも可能となった。
パウロがこの場面で受けている局面から、敵のがんばりは我々をさらに優位な所へ導くネタに過ぎない事を、今の時代の私達に教えている。
詳細は音声メッセージで。。。
今日も皆さんが主イエスキリストにあって健やかでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:大水の中から引き上げてくださる(使徒23:25-35):右クリックで保存
韓国語通訳有
千人隊長はパウロをユダヤ人の陰謀から救うため、彼をカイサリヤのフェリクスの元へ護送した。
パウロはローマ市民だから下手に扱えないし、ユダヤ人達は3度も阿鼻叫喚の騒動を引き起こし、その度にローマ兵を遣わしてパウロを救出しなくてはならないし、しかも彼等がパウロを訴える理由というのは凶悪犯罪ではなくユダヤ人の律法に関する問題で、死刑や投獄に相当する理由は無い。
千人隊長からすれば、かなりの頭痛の種となっていただろう。
だからパウロ殺害の陰謀が起きた時、色々な口実をつけて総督フェリクスの元へ送り出した。
総督フェリクスは千人隊長の手紙を読むと、この案件の厄介さを悟ったのか、パウロの出身を聞いて別の州で裁判を受けさせられる可能性を示唆したものの、結局このフェリクスの元で裁判が行われることとなった。
パウロとしては、ユダヤ人からは命を付け狙われているし、ローマ人からは厄介者扱いされ、たらい回しにされるしで、心もとない事極まりないだろう。
しかし全ての事は主の御手の内にあり、彼は安全で心地良い所へと導かれていく。
それから2年の間、パウロはこのカイサリアの総督官邸で快適に保護される事となり、しかもある程度の自由が与えられ、仲間も彼の世話が自由に出来るように取り計らわれた。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。
敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-20)
ダビデはサウル王の手から救い出された時この詩篇を詠んだが、ダビデの時代も、パウロの時代も、今私達が生きている現代日本も、主は、同じ主である。
主を避け所とし、助けを求めるなら、たとい害為す災いが大水のように押し寄せようとも、憎む者がいかに勝ち誇っていようとも、主は高い天から御手を遣わして引き上げ、広い所へと導き出して下さるのである。
いつでも主を助けとし、広く快適な所へと導いていただく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:寝ている間に与えられる(使徒23:12-24):右クリックで保存
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ユダヤ人達はパウロを殺す陰謀を企て、殺害するまでは一切飲み食いしないとまで誓った者は、40人以上いた。
しかし主は、彼等が集まって陰謀を企てる以前、既にその陰謀を企てる会合場所に、パウロと千人隊長に知らせるための使者を遣わしておられた。
その日中にその陰謀はパウロと千人隊長に知られてしまい、その夜の内にパウロは遠くへ護送される手はずが整えられた。
千人隊長が用意したのは、歩兵200名、騎兵70名、軽武装兵200名、さらにパウロ用の馬まで用意され、総勢470人のボディガードに連れられて、次に証する者たちの所へと、安全に護送されて行ったのである。
パウロがこんなにも特別扱い的に主によって守られていたのは、彼がイエスキリストの働き人であり、御言葉を大切にしていたからである。
最高法院の長老達、祭司長達は、御言葉に従って裁く立場におりながら守らず、むしろパウロのほうが御言葉に従っていた。
祭司長や断食した40人以上のユダヤ人は、人間の興しうる最高の計らいとモチベーションによってパウロを葬り去ろうとしたかもしれない。
しかしそのお陰で千人隊長が動き、ローマ兵270人を動かし、パウロは無事次の証すべき地へと送られる便宜が図られ、彼らは単なるダシとして主に用いられたに過ぎない。
「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」(詩篇127:1,2)
パウロとしては特に何かしたわけではなく、兵営の中でじっとしていただけである。
ユダヤ人達とローマ部隊が勝手に騒いで、結局はパウロの便宜が図られた。
主に信頼を置く者は、眠りを、安らかな平安を与えてくださるだけでなく、眠っている間に全て備えられるのだ。
御言葉を守らない、イエス様に反する勢力は、いかにがんばって断食しようとも空しく、彼等が夜昼がんばって何かを積み上げるのは、積み上げたものを聖徒達に与えるためである。
「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。」(コヘレト2:26)
パウロに護送つきで無料で行った。
皆さんは主に信頼し、あくせくして働いた末に飢えて歯軋りする者ではなく、信頼して寝ている間にも備えられる者でありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:白く塗った壁(使徒23:1-11):右クリックで保存
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パウロは大祭司や指導者達の集う公の場で弁明する事になり、自分は良心に少しのやましいところなく神の御前に生きて来た事を証した。(使徒23:1)
神との間に何の後ろめたさも無いなら実に堂々としていられるが、神との間に何かしらある者はそうではなく、多くの不審な挙動と言葉の洪水によって自己弁護し、あるいは他人を責め立て告発する。
パウロが大胆に証し始めた時、大祭司アナニヤはパウロの口を打てと言った。
律法では、有罪と認められない限り被告に罰を加えるのは不当である。
パウロは彼を「白く塗った壁」と言ったが、それは自分に暴言を吐いたから仕返ししたのではなく、律法に従って裁く座についておきながら律法に反しているから「神にいずれ打たれてしまう漆喰で塗ったり壁」(エゼキエル13:10)という御言葉を適用しただけである。
アナニヤは人々の前では大祭司だったかもしれないが、どんなに人間的権威のある地位に居ようとも、御言葉に沿っていない者は、霊的には「神に崩されてしまう白く塗った壁」に過ぎない。
それでもパウロはアナニヤが大祭司だと知った時「確かにあなたの民の指導者を悪く言ってはならないと書かれている」(出エジプト22:28)と、御言葉にあって口をつぐんだ。
いかにその者が神に打たれるべき塗り壁だとしても、その者が指導者であると知り、指導者を悪く言ってはならない、という御言葉を知ったなら、祝福を得るために、私達も口をつぐむべきである。
最高法院に集った者達が大いに議論を沸かせる原因となった言葉は、御言葉でもイエスの証でもなく「私はパリサイ派です」という「どこの組織の者か」という言葉だった。
それも、千人隊長がまたしてもパウロを強制的に退場させるほど議論を沸かせた。
結局彼らにとっては、どの組織、どの先生、どの神学に属するかが、御言葉よりも重要だったのである。
「その夜、主がパウロの傍に立って、こう言われた、「勇気を出しなさい。エルサレムで私のことを証ししたと同じように、ローマでも証ししなければならないからである」」(23:11)
主が夜現れて御言葉を与えられたのは、大祭司ではなくパウロであり、大祭司や指導者連中に関しては、一言さえ言及されないほど、相手にされていない。
主は、御言葉に即していない宗教的権力者達は相手にされず、御心を求める小さい者にこそ現れて下さり「勇気を出しなさい」と力づけてくださるのだ。
私達が危機的状況に陥る時、もし私達を責め立てるものが、御言葉に敵対する者であるなら、私達は御言葉の保護にある限りは全く恐れるに足りない。
主は「恐れるな」と言われ、私達を通して御心をなされるまで、責任を取って守り通して下さる。
しっかりと御言葉に根ざして歩み、恐れず神を証してゆく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:問題全て丸投げの平安(使徒22:22-30):右クリックで保存
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パウロのイエスキリストの証が唐突に終わってしまったのは、ユダヤ人達が証の最中に、上着を脱いで空中に放り投げたり、ちりを空中に撒き散らしたりして「こんな男は取り除け」「生かしておいてはならない」と大声でわめき散らし、ただならぬ事態を憂慮した千人隊長が、彼を無理やり陣営に引き入れたからである。
この場面だけを見ると、せっかくの聖なるキリストの証が、群集の汚らわしい狂気によって掻き消されてしまった感がある。
私達も、せっかくの聖なる神の国の仕事が、汚れた者によって阻害されるような経験をする事はある。
しかし主は、それさえもさえも益として最善へと用いてくださるお方である事を、私達は知っている。
事実その狂気の場面の故に、このパウロという人物はただならぬ人物だという植え付けがローマ兵達になされた。
隊長がパウロを鞭打とうとした時、パウロは自分はローマ市民だと告げた。
ローマ帝国市民に対しては、裁判無しに鞭打ちや拷問などは許されておらず、こういった訴訟事件が起きた場合はカエサルに上訴する特権もある。
パウロがこの時、先手を読んでいたかどうか知らないが、そう明かした事によって、実はさらに多くの場面、さらに多くの権威ある者達に対して証する機会が増えていった事になる。
この使徒22章という時点のパウロの状況だけを見るなら、一人ぼっちで誰も助けがおらず、いつ命を奪われるか分かったものでは無い、お先真っ暗な状況である。
しかし、パウロの様子は落ち着き、平安に満たされ、その趣には余裕さえ感じられる。
災いの渦中にある者には、もちろん将来は見えない。
しかし世に勝ったお方、全てを益とし最善へと導いて下さるイエスに信頼し続けているなら、どのような状況下にあっても、手放しで喜べる平安、重荷は全部丸投げした余裕の内に、守られるのである。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
私達の特権は、単に地上において守られるというものだけでなく、天においても幸いな報いがある。
正しい事の故に苦しい目に遭うのは実は幸いで、むしろ、踊るほど喜べ、といわれているのだ。(マタイ5:12)
先が見えない困難な状況も、主イエスにあって手放しで喜べる平安に満たされる皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!