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メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:証人(あかしびと)(使徒22:1-21):右クリックで保存
韓国語通訳有

殺意の群集の中で殺されそうな所を辛うじてローマ兵に助けられたパウロが、群集に向ってどうしても弁明したい事があると言って千人隊長に願い出、語った内容とは。
それは、命乞いでも言い訳でもなく、キリストの証(あかし)だった。
パウロの証は、?救われる以前の状態(3-5節)、?イエスに出会った出来事と信じたきっかけ(6-11節)、?神のパウロに対する目的(12-21節)の3部分に分けられる。

彼は以前、ガマリエルの元で厳格な教育を受けたパリサイ人で、キリスト者達を牢に渡し死に至らしめる者だった。
もし殺意の群集をなだめる事が目的なら、ここだけを強調して終わっておけば良かったかもしれないが、しかし彼は信仰の転換となった体験、天からの幻やナザレ人イエスの事を語らずにはいられなかった。
ダマスコの途上でまばゆい光に照らされ目からウロコが落ちた、使徒パウロの原点とも言える体験(使徒9章)は、22章だけでなく、26章でも異邦人アグリッパ王にほぼ同じ内容で証している。

その時パウロに同行していた者達は、9:7では「主の声を聞いた」、22:9では「主の声を聞かなかった」とあり、日本語だけ読み比べると矛盾しているかのように見える。
実は「声」のギリシア語では「音(noise,sound)」の意味も含み、また「聞く」のギリシア語では「理解する(reported, understand)」の意味も含まれている。
つまり、イエスの召命の声は、同行していた者に"ノイズ"としては聞こえていても、内容を"理解"できたのはパウロだけだったのである。

信じない者にとってはイエスの声はノイズだが、信じる者はその大いに重要な意味を悟り、内容を理解できるものである。
そして主の光に照らされた時、他の者は相変わらず目が見えていたのに、パウロだけは、生まれつきの目は見えなくされ、3日後に新たに見えるようにされたのだ。
このように主は召しだされた者を特別扱いされる。
そしてパウロはアナニヤと出会い、主イエスについて見た事、聞いた事の”証人”となるミッションを告げ知らされ、イエスを信じてバプテスマを受けるよう促された。

パウロは元々、エルサレムに多くの友人知人がおり、彼らに対して福音を伝えていくものと思っていたかもしれない。(19,20節)
しかし主の御心は、パウロはエルサレムから出て行く事、遠く異邦人に福音を伝えて行く事だったのである。(21節)
パウロは律法に精通し、なおかつギリシア語に堪能で、ローマ市民権も持っているという特殊な境遇だったため、彼の願いどおりエルサレムに留まっているのは、御心ではなかったのだ。

私達も一人ひとり、私達にしか出来ない特有の賜物とミッションが与えられている。
また、私達特有のキリストの証を、それぞれ持っているはずである。
それらを生かして主の御心を成し遂げて行く皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:二人きりの隠れ家から(使徒21:27-40):右クリックで保存
韓国語通訳有

いよいよパウロはユダヤ人によって捕らえられた。
その時の騒乱状態はとてもひどく、「エルサレム中が騒乱状態に陥っている」との報告によってローマ兵が駆けつけてみると、パウロは殺意の群集にもみくちゃにされており、パウロがまさに殺されようとしていた時、ローマ兵が彼をかろうじて捕縛し、殺意の群集から守られた。
千人隊長は、パウロが何者で何をしたのかと尋ねても、各々違ったことを叫びたて、騒々しすぎて正確な事がわからず、パウロを連行する時は彼を担ぎ上げなくてはならないほど、群集は興奮していた。

そこまでの狂気の騒乱に遭ったなら、普通は声も震えて何も言えず、ローマ兵の陰で縮こまって群衆の前に二度と出たくなくなる所だが、パウロは落ち着いた声で千人隊長に「お願いです、あの民に話すことを許して下さい」と頼み、再び群集の前に出て、弁明する事を願い出た。
ステファノの時もそうであったように、主に満たされている者には、世のものならぬ平和がその人を支配し、その人の心も体も守られるのである。

「あなたがたの心が〔もうこれ以上〕かき乱されないように。神を信じ、また私を信じなさい。
私の父の家には住処(すみか)が多い。仮りにそうでなかったとすれば、あなたがたのために場所を準備しに行こうとしているなどとあなたがたに言ったりしただろうか。
そして、行ってあなたがたのために場所を準備したら、またやって来る。そして、あなたがたをこの私のもとに引き取ることになる。私のいるところにあなたがたもいるようになるために。」(ヨハネ14:1-3)

私達イエスを信じる者には、主が用意してくださった住処が確かに備えられているが、それは何も、死んだ後の天国の事ではない。
地上に生きる時でも、その隠れ部屋は確かに存在する。
いかに殺意の群集が押し迫り、死の危機の只中に入るとも、私と主・二人だけが知っている隠れ家の中で霊も体も匿われており、そしてそこから御言葉を伝える力と知恵が新たに湧き出て来るのである。
「王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」(雅歌1:4)

愛する主が用意して下さった二人きりの隠れ家で匿われ、平安と尊厳の内に歩む皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:新しく創られた者として(使徒21:15-26):右クリックで保存
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人々は、断片的な情報から物事を誤解しやすいものである。
パウロは、イエスを信じた異邦人たちに割礼を強要してはならない、とは伝えたが、ユダヤ人はもはや割礼を受けてはならない、とは伝えていない。
事実、パウロはテモテを連れて行く時、しなくても良いはずの割礼をわざわざ施させたが、それは信仰が弱く知識の無いユダヤ人達の躓きとならぬよう配慮したからである。

「もしもあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに何の益をももたらされないであろう。私は割礼を受けているすべての人に再び証言するが、その人は律法のすべてを行なう義務がある。」(ガラテヤ5:1-6)

ここはユダヤ人に「割礼を施してはならない」と言っているのではなく、ガラテヤ(異邦人)のキリスト者達に蔓延している「私達も割礼を受ければ霊的に高い所へ登れる」といった誤解を解くためのものである。
何かの宗教儀式をすれば霊的高みに登れると思ったら、大間違いである。
「私にとっては、私たちの主イエス・キリストの十字架以外のものを誇ることは、断じてあってはならない。そのキリストをとおして、世界は私に対して、私も世界に対して、十字架につけられてしまっているのである。
まさに、割礼も無割礼も重要ではなく、むしろ新しく創造〔されることこそ〕が重要なのである。」(ガラテヤ6:14,15)

私達は世に対して、すなわちアダムにあって呪われた全ての物事、悪霊や堕天使、人間、権威、そうした世の諸々に対して、既に十字架につけられており、世の諸々も私達に対して十字架につけられている。
この十字架にあって私達は、決して超えることの出来ない死という断絶によって世の諸々からは完全に分離され、イエスキリストの側にいる者達とされた、新しく創られた者達である。

割礼といった宗教儀式による神に向っての歩みは捨て去り、キリストにあって新しく生まれ変わった者として、新しい創造として歩む皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:行くか行かぬか(使徒21:1-14):右クリックで保存
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パウロはエルサレムを目指して進んでいたが、行く道々の兄弟姉妹達は、パウロの苦難が聖霊によって示されていたため「行ってはならない」と涙ながらに懇願した。
しかしパウロは、頑なに人々の涙ながらの願いを振り払い、どうしてもエルサレムに行かねばならない、と言って聞かなかった。
「あなたたちは泣き、私の心をくじいて、どうしようというのですか。私は主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られるだけではなく、死ぬことさえも覚悟しているのです」。

(13節)

人々にとっては、パウロがいつも近くにいる事が願いだった。
もし彼らの忠告どおり、パウロが行かなかったならば、彼はもっと生き延びる事が出来、もっと各地の兄弟姉妹達と一緒に長く交われたかもしれない。
しかし、聖霊に導かれる者にとって「御心」は強烈な拘束力となり、人間的でセンチメンタルな愛着を振り払う。
行かず伝えずに生き延びるより、行って伝えて死ぬほうが、より福音といのちが増え広がる事であるからには、行かざるを得ないのである。

パウロにとっては、生きるにしても死ぬにしてもキリストが主体であり、そうして走るべき道のりを立派に走り終えたからこそ、義の栄冠を勝ち取った。
私達も「キリスト者」になればなるほど、そのようになって行き、主の故に自身の望まない所へ縛られ行かされる時も、もしかしたら来るかもしれない。
ペテロはその時「この人はどうなるのでしょうか」と問うたが(ヨハネ21:18)、他の兄弟姉妹の事は、私達には関係ない。(ヨハネ21:22)
私達は、あくまで、主イエスに付いて行く。
ただそれだけである。
それは、ペテロにもパウロにも、私達一人ひとりにも、主が示しておられる事である。

この人生という競技場にいる間、主イエスに忠実について行き、かの日には義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神とその恵みの言葉に委ねます(使徒20:32-38):右クリックで保存
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救いとは徹底的に自己責任で、大切なこの人を天国に行かせるために、私が代わりに信じます、私が代わりに地獄に行きます、といった取引は一切出来ない。
救いは確かに自己責任ではあるのだが、私はあなたに伝えました、はい、あとはあなたの責任です、と、投げっ放しでいてはならず、伝えた者達のために心砕いてケアするべきである。
パウロは昼も夜も涙を流しながらエペソの人達のために心砕き、教え、ケアして来た。
しかしある日突然、エペソの人達にパウロとの今生の別れが、ある日突然訪れたように、私達にとってのパウロとも、いずれ別れの時が来る。

私達にとってパウロのような人、すなわち、私達に救いの道を教えてくれて、日々霊的に面倒を見てくれ、時には涙を流して訓戒してくれてきた人が、ある日突然いなくなっても、皆さんは御言葉にしっかり留まり続ける事が出来るだろうか。
パウロの願いは自分がいなくなった後もしっかりと御言葉に留まり続ける事であったように、皆さんにとってのパウロの願いも、そうである。

「そして今、私はあなたたちを、神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉には、あなたたちを建て上げ、すべての聖徒と共に、あなたたちに遺産を与える力があるのです。」(32節)

私達が、大切な人達に最終的にできる事とは、結局「神と恵みの言葉に委ねる」という事である。
自分にとって大切な人、子供、親、友人について、自分のものとして握り締めている手を離し、神とその恵みの言葉に委ねるなら、自分の支配から離れ、神様の支配に移る。
神と恵みの御言葉にしっかりと繋がるなら、その言葉はパウロといった人間よりもはるかに力があり、自身を立て上げ、遺産が与えられ、多くの実を結ぶことが出来るのだ。

実を結ぶ者・結ばない者の違いは、御言葉であるイエスさまに繋がっているか、いないかである。
留まっている者は多くの実を結ばせるが、留まっていない者は切り倒され、投げ捨てられ、火で焼かれてしまう。
御言葉がその人の内に留まっているのなら、何でも望みを申し出る事が出来、望みが叶えられ、喜びに満たされ、その喜びによって御父は栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ15:1-8)

まことの言葉なるイエス様にしっかりとつながり、豊かな実を結ばせる皆さんでありますように。
イエスさまの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:別のイエス(使徒20:25-31):右クリックで保存
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イエスキリストの名前を用いてはいても、御言葉なるイエスのご性質とはかけ離れた、別様架空の"イエスキリスト"なる人名を使い、勝利と自由に満ちているはずの福音とはかけ離れた、別様架空の"福音"を伝え、勝利ではなく敗北を、自由ではなく束縛をのべ伝える者は、確かに存在する。
霊を受けたとは言っていても、霊を受ける以前よりも受けた以後のほうが明らかに病的だったり、落ちぶれていたり、人々を不快にさせる事が頻繁になったりと、聖霊の「聖」なる趣から遠のいて行く者もいる。

パウロは、エペソの教会に狼が入り込んで、純粋さが失われる事を、聖霊によって示されていた。
「私が立ち去った後、狂暴な狼どもがあなたたちの間に入り込んで来て、群れを荒して容赦しないことを、私は知っています。」(29節)
狼とは偽預言者の事で、彼らは羊の衣を被って来るが内側は貪欲な狼であり、異なったイエス、異なった霊、異なった福音を伝える。(2コリント11:2-4)

御言葉は心へりくだった者でないと受け入れがたいが、偽預言者の伝える言葉は、心高ぶったままラクに受け入れる事が出来る。
救いに至る道は色々ある、地獄は無い、人間は神の性質を持ち悔い改めは必要無い、といった、御言葉とは別様の教えは、ラクで魅力的に見えるが、それを受け入れた者の結ぶ実は、とげとげしく苦々しいものである。
「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」(ルカ6:44)

パウロはコリントの人達に、異なったイエス、異なった霊、異なった福音を受けても、よくも我慢しているものいだ、と、皮肉を込めて言っている。(2コリント11:4)
それらを発する者は我慢して放置して良いものではなく、御言葉の光によって偽りを照らし、イエスの名によって追い出すべきであって、容認するものでも受け入れるものでも決してない。

パウロはエペソの長老達を前にして、そのように異なった教えを受け入れる者や、人々を異なった教えへと引き入れる者さえ「あなた方の中から」出てくる、と言っている。
昼も夜も涙を流してエペソの信徒達と関わってきたのに、聖霊によって後の状態を知ってそう言わざるを得なかったパウロは、どれほど辛く悲しかっただっただろう。

救いの言葉を日々しっかりと握り締め、偽りの教えが入ってきたとしても断じて拒否し、交わりを聖く保つ皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:最後に伝えなくてはならない事があります(使徒20:13-24):右クリックで保存
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使徒20章に入ってからパウロは何かに突き動かされているかのように、町々を巡り歩いて兄弟姉妹を励ましている。
パウロが突き動かされているのは、聖霊に縛られているからである。(22,23節)
その行く先には縄目と苦難が待っている事もはっきりと示されているが、それでも主イエスから受けた任務を全うするために、彼は走らざるを得なかった。

パウロはミレトスに着いた時、エペソの長老達をわざわざ呼び寄せ、最も伝えたい重要なメッセージを残した。
その重要な事とは、神に対する悔い改めと、主イエスキリストに対する信仰の二つである(21節)。

彼はエペソ人に、伝えるべき必要な事のうち、知らせなかった事は何一つ無い、と言い切っている。
もしパウロが、この人に悔い改めとキリストに対する信仰を促したら傷つくのでは、怒るのでは、去っていくのでは、といった躊躇をしながら伝えていたのであれば、そこまで大胆な事は言えなかったはずだ。

どんな状態にある人でも、どんなバックグラウンドがある人でも、悔い改めと主イエスキリストに対する信仰は必ず必要であり、例外は無い。
一人一人がいずれ主イエスキリストの御前に出る時が来て、全てを申し開きしなくてはならない時が来る。
それはとても厳粛な事であり、私達もパウロのように、悔い改めと主イエスキリストに対する信仰を憚らず伝えなくてはならない。
かの日には主から「よくやった」と誉められ、栄光の冠を受ける皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:居眠りして死んだ者(使徒20:7-12):右クリックで保存
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「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。」(使徒20:9-11)

使徒行伝の記者ルカはこの場面をわずか3節で片付けてしまっているため、我々も軽いテンポで読み過ごしてしまい、教会の説教でも「大切な話をしている時や礼拝中に居眠りしていると、痛い目に遭うぞ」といった教訓によく用いられるが、現実的に見れば、とても軽いテンポで済むような話ではない。

パウロ達のトロアス滞在最後の晩、時間を惜しんで兄弟姉妹達に囲まれ話している最中、なんと死人が出て、その楽しく有意義な交わりは一転して悲劇と混乱の場と化したのだ。
三階の窓に腰掛けて、大切な話の最中に眠りこけ、落ちて死んだのは彼のミスかもしれないが、彼をよく知る兄弟姉妹達にとってはその出来事は、悲しみと衝撃で言葉も出ないものだっただろう。
しかし憐れみ深い神は、悲しみに悲しみが重なるような事はなさらず、パウロを通して若者を生き返らせて下さった。

「人々は生き返った少年を見て、少なからず慰めを得た。」(12節)
ひとたび高い所から落ちて死んでしまった者が生き返り、彼を含めた皆がすぐに上に戻ってパンを裂いて食べる、というのも理解し難いかもしれない。
しかし主が大いなる御技を身近で為さったなら、私達は大いに慰められ、皆でイエス様はすごいね、と、共に喜ばずにはおれないのではなかろうか。

私達も信仰的に若かったり未熟であったりするなら、御言葉もパウロの話も理解できず、眠るしかない。
交わりの部屋から落ちてしまい、霊的に死んでしまったかのようになっても、主はその者も周りの者達も憐れんで下さり、以前よりもさらに優れた形で復活させて下さる。
死から蘇らされた者は共に上に戻り、真実に聖徒達とのパン裂きの交わりに参加し、御言葉もパウロの話もはじめて理解できるようになるのだ。

この終わりの時代、私達も眠ってしまわないよう日々気をつけるべきであるが、落ちてしまって死んでいるかのような者を蘇らせてくださる主に委ね、蘇らせていただいたなら主の交わりに再び加わらせ、まことのパンを裂く祝いに加わらせるような皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:闇に勝利する簡単な方法(使徒19:33-40):右クリックで保存
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ユダヤ人達はある者を立て、その演説によって群集を沈静させようとしたが、群集は逆上し、2時間も「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫び続けた。
そんな事態を収束させたのは、名も記されていない町の書記官だった。
「エペソの諸君、エペソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。
 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。」(使徒19:36)

確かにエペソにアルテミス神殿とその御神体がある事は明白だが、逆にパウロが前掛けや手ぬぐいで病や悪霊を追い出した事も、またスケワの7人の息子達がパウロやイエスの名を用いてひどい目に遭った事も、エペソ中の者達に知れ渡っている事実のはずである。(19:17)

結局のところ、銀細工人達はラクして富を得られる既存のシステムのほうが、悪霊や病を追い出すまことの神よりも大事であり、アルテミスは偉大なり!と叫んだ者達も、実はそんな神はどうでもよく、自分の生活基盤を脅かす恐れがあるなら「キリストの福音」さえ掻き消したい、というのが本音なのである。
神の言葉という種が、たとい多くの者達に蒔かれても、実を結ぶまでに至る者は、実に少ない。

エペソにおいては、暗闇の勢力との戦いがつきものだったようである。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
闇の勢力による試練や誘惑に勝利するためには、どうすれば良いか。
それは実にシンプルで、剣を振り回す事ではなく、光を灯すだけである。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4,5)
この光であられるキリストを迎えるだけで、暗闇に勝利する事ができるのだ。

人を照らすいのちの光であられるイエス様をお迎えし、光の子らしくこの世の旅路を歩み、勝利に勝利を重ねる皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神を道具とする者達(使徒19:23-32):右クリックで保存
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「諸君、よく知られているように、われわれが楽に暮らしているのは、この商売のおかげです。それなのに、諸君も見聞きしているように、あのパウロが、『人の手で造ったものなどは神ではない』などと言って、このエフェソだけではなく、ほとんどアシア〔州〕全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、誘惑してしまった。
これでは、私たちの仕事の評判が悪くなる恐れがあるばかりではなく、大いなる女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、全アシア、全世界が崇拝している女神のご威光さえも、消えてしまう恐れがあります」(使徒19:26,27)

アルテミス神殿の参拝方法は、この銀細工人たちが作っているような細工物を買い、それを神殿に奉納するという方法だったようである。
福音が伝えられて縮小してしまうような商売は、汚れた商売である。
この度騒動を起こした銀細工人達は、そのような礼拝システムが続く限り安泰だが、福音が広まり偶像礼拝する者がいなくなると、今までのように楽して儲ける事が出来なくなってしまうのだ。

何も価値を生み出さない、意味の無い物事に、あたかも大きな価値があるかのような幻想を抱かせたり、あるいは、実体の無い恐怖によって人々を束縛する事によって、人からお金や時間、労力を搾取するような仕組みもまた、偶像崇拝の特徴である。
現代日本も、そのように人々を恐怖させ搾取するシステムに気付かないうちに束縛され、閉塞感の内にあえいでいる者が多くいる。
終わりの時代にはそのような、人間の作ったシステムという「獣の像」を神とし、それに拝む事が強要されるものだが、あくまで天地を創られたまことの神を神とし、イエスキリストを主とする者には、最後まで守られる事が約束されている。

銀細工人たちに扇動された大勢の群集たちは「大いなるかな、エフェソ人のアルテミス」と叫んだ。
彼らの表向きの主張は、我らが神アルテミスが貶められている、それはけしからん、大いなるは我らエフェソ人の神アルテミスだ、というものだ。
しかし本心ではそんな神はどうでもよく、ラクしてこの世の富が儲けられるシステムを脅かすような、パウロが伝えている福音を掻き消したい、というのが本音だ。
めいめいがアルテミスという抽象的存在を、自分の欲望の隠れ蓑にし、その欲望がまかり通ることを叫びたいだけ。
だから、それを叫ぶ為に劇場に参加した群集は、なぜ集まったのかさえ知らず、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいる状態だったのだ。

現代の教会においても、良く分からないけれど「アーメン」や「ハレルヤ」などのキリスト教用語をとりあえず叫んだり、「主よ主よ主よ主よ主よ・・・」と2時間も叫んでいれば何かもらえるかもと勘違いしている者も中にはいるが、エペソ人がアルテミスを欲望を満たす道具にしたように、それはまことの神を自分の欲望を満たすための道具にしているに過ぎない。
イエスは、主である。
イエス様は自分の欲望を満たすための道具でるのか、それとも、自分の人生を支配していただく「主」であるのか、日々意識していたい。
 

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