メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:権威的上下関係(使徒19:11-22):右クリックで保存
韓国語通訳有
「神は、パウロの手によって並々ならぬ力ある業を行なわれた。彼の肌から手拭や前掛を取って病人に当てると、病気が去り、悪霊が出て行くほどであった。」(19:11,12)
パウロの前掛けや手ぬぐいそのものに病を癒したり悪霊が出て行くような超自然的な力が宿っているのではなく、癒す側、癒される側の、イエスキリストを信じる信仰による。
12年長血を患った女は信仰をもってイエス様の衣に触れ、イエス様も気付かないうちに癒しを引き出してしまった(マタイ9:20)ように、ツロ・フェニキヤの女も、イエス様に娘から悪霊を追い出して頂けると信じ抜き、イエス様のほうではその気は無くても、信仰告白によって娘の悪霊は出て行ってしまった。(マルコ7:24-30)
キリストを信じる者と悪霊や病は権威的上下関係にあり、暴力団は最終的に警察に屈するように、悪霊や病はキリストを信じる者に最終的に屈するしかない。
警察権威の象徴である制服を着て暴力団に権威を行使すれば、たとい警察署に座っている署長にその気はなくても暴力団は逃げていくように、イエスを信じる信仰によって命じれば、権威は力ある実体となり、悪霊や病、貧しさは逃げていくのである。
大祭司スケワの7人の息子達は巡回祈祷師であったが、試しに悪霊に憑かれていた者向ってイエスの名を唱えた所、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返され、裸にされ、ぞろぞろと逃げて行くはめになった。
イエスを信じてもいないのに、御名を用いて悪霊に向っていくのは、一般人が暴力団事務所に乗り込み、よく知られている警察長官の名を出して丸腰で喧嘩を売るようなもので、そんな事をすれば当然やられる。
霊との戦いにおいてはその人の素性や力、人数などは全く関係無く、イエスを信じる信仰が最も大切で、イエスを信じない大祭司の息子祈祷師七人よりも、子犬呼ばわりされてもなお信仰告白したスロ・フェニキヤの女一人のほうが、悪霊にとってはよほど怖いのである。
この七人に起きた事がエペソ中に知れ渡って、イエスの名はますます広まり、魔術を行っていた者達に悔い改めが生じた。
彼らは魔術の文書を皆の前で焼き捨て、その額は3〜5億円(銀貨5万枚)に相当した。
魔術は悪霊の力を用いるため、力を行使するのに暴力団組織の力を用いるようなもので、人を不幸に陥れるが、イエスという絶対権威は人を生かし、いのちを与える。
彼らはその構造が分かったから、誰かに売ったりせずに、焼き捨てたのである。
イエスを信じる信仰によって、悪霊だけでなく、病、貧しささえも追い出し、世の暗闇の権威構造を打ち壊す皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:誰に浸し込まれるか(使徒19:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
エペソでは、アポロが既にイエスの事を詳しく語り、イエスが救い主である事を明示してユダヤ人を論破していたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
パウロがエペソに下って来た時「信仰に入った時、聖霊を受けたのですか」とわざわざ聞いたのは、エペソの兄弟姉妹たちから聖霊の香りを感じなかったからである。
イエスが救い主である事を頭で知っていても聖霊を知らない者はいるし、聖霊は昔働いていても今は働きは終わっていると言う者達さえいる。
ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマとはどう違い、また、聖霊のあるなしではどれほど違うのだろうか。
結構当たり前すぎて、逆にないがしろにされている所である。
バプテスマは元来「浸し込む」という意味で、ヨハネは水の中へ浸し込むが、イエスは聖霊と火の中へと浸し込ませて下さる。(マタイ3:11)
水のバプテスマは、罪を赦していただくため、人は必ず死ぬという「死」に浸しこまれる。
そこで終わっているクリスチャンは多く、罪赦されているので死んだ後は天国に行けるとしても、ただ教会に行ったり来たり往復するだけで力が無い。
悔い改めと死のみでは、さほど魅力は無いため、エペソの兄弟姉妹もわずか12名から増える事も無く、細々と信仰生活を守るしか無かった。
主イエスキリストの名によって、聖霊へ「浸し込み」がされると、力を受け、全世界にイエスキリストの復活の証人となる。(使徒1:8)
実際弟子達も、聖霊を受ける前と後では別人かと思われる程造り変えられた。
助け主、弁護者なる聖霊が与えられる時、主が御父の内におり、私達が主の内におり、主も私達の内にいる事が私達に分かり(ヨハネ14:15-20)、もはや一人ぼっちではなく、世の何者も奪う事の出来ない平安に満たされるのである。
イエスの名によるバプテスマは、悔い改めと死の向こう側、すなわち新しいいのちへと復活するバプテスマである。
「私は何々教団に属しています」「私は誰々牧師の元で養われています」といった「人の名」に浸しこまれているだけなら、力は無く、それはたとえ人類で最も偉大と言われたバプテスマのヨハネの名に浸し込まれていても、そうである。
しかしイエスキリストの名に浸し込まれているなら、爆発的な力を受ける。
エペソの兄弟姉妹は、それまでわずか12名で細々と信仰生活を守っていたが、聖霊を受けた後、エペソの生徒達は大いに活躍し、エペソだけでなくアシア州全体に主の言葉が伝えられて行った。
いつも主イエス様の名前に浸しこまれ、聖霊に満たされ、主の御名を大胆に伝えていく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:アクラとプリスキラ(使徒18:18-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒18章の18節から23節までの間、パウロは最低でも2000キロの道のりを海陸移動しているが、著者ルカはわずか5節で表現し、駆け足で書いている。
パウロは、それまで主が異邦人の間で為してくださったいのちの広まりを、エルサレムとアンテオケに戻って報告し、しばらくそこに滞在した後、さほど落ち着く間もなく再び旅立ち、かつて行った事のある地方の兄弟姉妹達を訪ねて力づけた。
パウロは多くの人達を救いへと導き、教会を立てていたため、彼らに対する心遣いと主からの熱心に捕らえられ、自分だけが落ち着くなど出来なかったのである。
我々一般人から見れば、スーパーマンのように見えるかもしれない。
さて、パウロはエフェソにアクラとプリスキラを残して来たが、この町に巡回伝道者アポロがやって来た。
彼は雄弁家で聖書に強く、イエスのことを詳しく語るのだが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
そこでアクラとプリスキラは彼を招き入れて、もっと正確に神の道を説明した。
目立たない天幕作りの夫婦が、雄弁で聖書に詳しいプロの伝道者を招いて、より正確に神の道を解き明かすのである。
この夫婦は、アポロほど自分の時間を捧げていなかっただろうし、彼ほど雄弁でもなく聖書に通じていたわけでもなかったかもしれない。
それでも神の道についてアポロに説明すべき事があるなら躊躇事無くそうしたし、アポロも謙虚に受ける事によって、より強力な伝道の武器を手に入れる事が出来たのである。
そればかりでなく、アポロが行きたがっていたアカイア州の聖徒達に手紙を書くことによって次の伝道地点までの手助けを為し、アポロもそこの聖徒達を大いに助け、そこの聖徒達もアポロから多くの影響を受けた。
神の働きは、パウロやアポロなどのフルタイム伝道者だけのものではない。
彼らのような表立った献身者の功績は確かに大きいが、表に立つ事のない多くの「アクラとプリスキラ」が背後にいるからこそ、彼等は活動出来るのである。
現代のアクラ・プリスキラとして、世の仕事を忠実に為し、同時に神の国の働きも立派に果たす皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹同士の争いは(使徒18:12-17):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
コリントのユダヤ人達は一致してパウロに反対し、法廷に引き立て、彼が律法に反していると異邦人の総督ガリオに訴えたが、ガリオは取り合わなかった。
彼らは異邦人に訴えたりせず、御言葉に即してパウロを論破すれば良かったものを、パウロ達は真理に沿っていたため、結局反論できなかったから、こうして異邦人に訴えて排除しようとするしかなかったのである。
真理を不都合とする者達は、パウロもステファノも、そしてイエス様も、偽りを口実に不真実な者に訴え、ある時は追い出し、ある時は石打ち、ある時は十字架にさえつけるのである。
さて、私達聖なる者が兄弟姉妹を訴える事について、御言葉はどう語っているか。
1コリント6章でパウロは、兄弟姉妹の間で何か訴えごとが起きた時に、聖なる者達の間ではなく不義な者達の前でさばこうとするコリント人を叱責している。
もし兄弟姉妹達が間違っているなら、御言葉の知恵によって戒めるべきであり、御言葉を知らない異邦人に裁きを委ねるべきではない。
主が「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさい」と言われたのは「悪人」に対してであって(マタイ5:39)、兄弟姉妹に対しては、身勝手に兄弟姉妹を叩くような悪人たらぬよう御言葉をもって責め、戒め、勧めるべきである。(2テモテ4:2)
もし兄弟姉妹の不義をほったらかして甘んじるなら、その者を神と人との間で「不義な者」「兄弟姉妹ではない」と定め、その者の裁きを神に委ねる行為である。
だからもし大切な「兄弟姉妹」であるのなら、御言葉に従って不義を指摘し戒めるべきである。
もし「兄弟姉妹ではない」なら、甘んじて不義を受け入れ、その裁きを神に委ねれば良い。
そういうわけで、兄弟姉妹を御言葉に従って戒めないまま、異邦人の判断で裁いてもらうというののは、もっての他なのである。
今日、キリスト者は外部からどのように見られているだろうか。いらぬ紛争をしてキリストの名を貶めてはいないだろうか。
全ての事を御言葉に照らして兄弟姉妹を導くみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:託された賜物と遣わされた場所で(使徒18:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロは自らアテネを去り、発展した商業都市であるコリントへ行った。
コリントは発展した経済と活発な偶像礼拝のため道徳的に退廃し、当時は退廃した生活を「コリント風」とさえ言っていた。
そのようの町でもイエス様は「恐れず御言葉を語り続けよ、この町には私の民が大勢いる」とパウロに示し、パウロも1年半じっくり腰を据えて活動したため、多くの者達が悔い改めに導かれて洗礼を受けた。
パウロがコリントに来た時、アクラとプリスキラという夫婦に出会った。
「彼らは、カエサル・クラウディウスが、すべてのユダヤ人はローマから退去すべしとの命令を出したので、最近イタリアから来ていたのであった。」(2節)
なぜそのような命令が出されたかというと、ユダヤ人達はキリストの騒動で世界を騒がしているため、そのような「迷惑な民族」はローマから出て行かなくてはならなかったからである。
使徒行伝を見ると、あたかもパウロ一人が地中海世界を伝道していたかのように錯覚するが、そうではない。
名も無い大勢の者達が、至る所に遣わされて伝道し、多くの命を獲得し、そして迫害に遭ってきたのだ。
アクラとプリスキラも、イタリヤにいた時に誰かから伝道されてキリスト者となり、そしてコリントに退去させられたと思われる。
彼らの仕事は天幕作りで、パウロも同業だったため、彼らと一緒に仕事をしながら安息日ごとに会堂で論じる生活を暫くしていた。
福音を伝えながら世の中の仕事もしている人をテントメーカーと呼ぶのは、この箇所が元になっている。
全ての人が専業の献身者にならなくてはならない、というわけではないし、逆に、全ての召された人は必ず世の仕事もしなくてはならない、というわけでもない。
12使徒は、祈りと御言葉の奉仕を差し置いて食卓の事に関わるのは良くないと判断した(使徒6:2)し、主は、福音を宣べ伝える人達には福音によって生活の資を得るようにと指示されている(1コリント9:10)。
パウロがその権利を、コリントやテサロニケで行使しなかったのは、キリストの福音を少しでも妨げないため(同12節)また、怠惰な生活を脱却して働く者になるよう、身をもって模範を示すため(2テサロニケ3:9)であった。
事実、テモテとシラスが来てくれたからパウロは御言葉と祈りに専念でき、その結果、このような堕落した町でも多くの人達が悔い改めて洗礼を受ける事になったのだ。
主の仕事とは何もパウロのような特別な器だけのものではないし、世の仕事をしながらでも十分に出来るし、主の奉仕に当たっている者を支える事も、立派な主の仕事である。
それぞれに託された賜物と遣わされた場所で、それぞれにしか出来ない主の仕事をすれば良いのである。
任された秤に従って、主の働きを忠実に為す皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:霊的不毛地帯(使徒17:22-34):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
アテネの町では、パウロに積極的に「語ってほしい」と頼んで来た。
そういうケースは珍しく、伝道者には一見嬉しい事のように見えるが、何でもかんでも受け入れるアテネのような所こそ、実は要注意である。
アテネ人のように、死の危険が少なく、生活の雑事から解放されて、時間的ゆとりもあると、面白おかしい物事は無いかと探し回り、偶像や哲学、福音さえも「自分に気に入るか入らないか」という身勝手な判断によって取捨選択する。
そのような所は日本のように、福音を受け入れない霊的不毛地帯となりやすい。
彼らは福音さえも「何か新奇なこと」の一つとし、パウロをコメディアンのように新規なネタを提供してくれる者とし、イエス様を「異国の心霊(ダイモニア)」の一つにしてしまう。
日本も色々な神々が祀られ、テレビをつければ日々目新しい事や、面白おかしい事に満ちており、イエス様さえもコメディアンの一つのようにしてしまった。
パウロはアレオパゴスという有力者達の評議会に連れて行かれ、話す機会が得られ、アテネの人達にも分かりやすいようにメッセージを展開した。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、だから偶像崇拝は意味が無い。。。
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
死者のよみがえりの話になった途端、人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言いつつ2度と聞こうとしなかったからだ。
他のほとんどの伝道地では、迫害に遭ったりユダヤ人が騒ぎを起こして出て行かざるを得なかったものだが、ここでは何の迫害も反対も無く自由に伝道出来たのに、パウロ自ら去って行った。そういうケースも珍しい。
もし死者の復活が無ければどうか?
古今東西のクリスチャン達は、自分たちの師を見捨てた卑怯な12弟子たちによるでっちあげ話を信じているわけである。
しかしあいにく、イエス様と出会った者はいっぱいいるし、イエスの名によって悪霊は追い出され病も癒されたケースは数多く、イエスにあって眠った聖徒達の顔は、実に聖なる安らかさがある。
いのちの主であるイエス様は、私達の初穂として蘇られた。そのしるしとして、イエスの名によって多くの良きわざが為されているのを、私達は見ている。
そういうわけで、復活こそ救いの根幹であり(?コリント15:12〜19)それを認めないアテネ人も、復活を信じない「クリスチャン」も霊的には致命傷で、パウロもイエス様も、そういう者からは何も言わずに去っていくのである。
罪と死によって支配されている呪いの生活に対しては十字架の死に明け渡し、イエス様と共に復活し、新しい永遠のいのちという祝福に満ちた人生を歩む皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:真に高貴な者とは(使徒17:10-15):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
テサロニケでのユダヤ人による混乱のため、パウロ達は夜陰に乗じてベレヤの方へ送り出された。
「この町のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも「まとも(エウゲネス:生まれの良い、高貴な)」で、御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた。」(11節)
ベレヤの人達は、なぜ「高貴」と記されたか。
それは、「御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた」からである。
つまり、神の目から「生まれの良い者」「高貴な者」とは、メッセンジャーから受けた内容を、はたしてその通りかどうかを御言葉からじっくり調べる者である。
御言葉が気に食うか気に食わないかではなく、御言葉を伝えるメッセンジャーが気に食うか気に食わないかではない。
一番望ましいのは、私達一人ひとりが日々聖書を調べ、神様から直接御言葉を頂き、頂いた御言葉の恵みを兄弟姉妹の間で流し合う事である。
※ 天声教会から日々配信しているメッセージも、はたして御言葉の通りかどうかを確かめ、もしそうでない所がありましたら遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。
ベレヤの人達は毎日聖書を調べ、熱心さをもって受け入れた結果、多くの人達が信仰に入った。
それなのに、テサロニケで反発したユダヤ人達は、はるばる80kmの道のりを超えて来てベレヤまで来て、群集を騒動させ、そのためパウロはシラスやテモテ達と別れ別れになり、一人アテネへと導かれる事となってしまった。
御言葉を伝える者を「自分の気に入るか、気に入らないか」というはかりにかける者は、「霊的生まれの良くない者」であり、自分の何かではなく御言葉から熱心に調べる者こそ「霊的生まれの良い者」である。
永遠に残る書物に「生まれの良い者」「高貴な者」と記されたベレヤの聖徒達のように、御言葉を熱心に調べる皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:マケドニアの模範達(使徒17:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達はピリピを離れてテサロニケまで行き、ユダヤ人の会堂で3週間に渡って聖書に基づいて論じ合い、ある者はイエス様を信じ、別の者は反発して暴動を起こした。
反発したユダヤ人達は、パウロ達を「カエサルの勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っています」と訴えた。
しかし、そう言う自分達も、王とすべきまことの神を差し置いて「カエサルを王」と告白する事によって自己矛盾に陥っている。
彼らの行動の動機は嫉妬であり、訴え内容も矛盾しているが、彼らのやかましい主張のお陰で、パウロ達はまたしても別の町へ行かなくてはならなくなってしまった。
そんな中で、福音の種が撒かれたテサロニケの聖徒達はとても優れた信仰の持ち主であった。
彼らはやがてマケドニア・アカイア全体に聖徒としての模範となり、彼らを通して主の言葉がマケドニアやアカイアへと広まった事が、テサロニケへの手紙から分かる。(1テサロニケ1:6-8)
さらに彼ら自身、神様から直接に互いに愛し合うよう教えられ、実際にそのことをマケドニア州全地にいるすべての兄弟たちに対して実行している。(4:9-10)
パウロの最初の訪問の時は、ヤソンが捕らえられ、パウロもわずか3週間にして他の町へと散らされる艱難は確かにあった。
しかし例えパウロと一緒にいた期間がわずか3週間であっても、「多くの患難の中で、聖霊のもたらす喜びをもって福音の言葉を受け容れることによって、私たちと主とに倣う者になった」(1テサロニケ1:6)ため、多くの実を結ぶ事となったのである。
テサロニケの人達の、目を見張るような成長の秘訣は何だろうか。
「あなたがたは私たちから聞くことによって神の言葉を伝えられた時、それを人間の言葉としてではなく、むしろ ――真実にそうであるのだが ――神の言葉として受け容れたからである。その神は、あなたがた信ずる者たちのうちにあって、まさに働いておられる。」(1テサロニケ2:13)
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人と同じ報いを受ける。(マタイ10:41)
御言葉を語る者の口から出た言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として受けるなら、御言葉がその人の信仰どおりになって生きて働き、このテサロニケ人のように他の聖徒達の模範となり、兄弟愛に満ち溢れるのである。
御言葉を伝える者の御言葉を、そのまま神の言葉として信じ、テサロニケの聖徒達のように、御言葉からの報いと実を沢山いただく皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:もし生きるならキリストのため(使徒16:35-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」」(16:37)
パウロ達が鞭打たれ投獄されたのは、女奴隷から占いの霊を追い出し、その主人達が金儲けの望みが無くなった事で逆恨みされ、濡れ衣を着せられたためだ。
訴えた者達も政務官も、自分達はピリピのローマ市民で彼らはユダヤの野蛮人、だから何しても良い、といった考え方だったかもしれない。
パウロ達もローマ市民であったのに、その事を確かめずにさっさと鞭打って牢に入れてしまったのは、明らかに政務官の怠慢だった。
パウロは「ローマ市民権都市」であるタルソスに生まれ、生まれながらのローマ市民だった。
ローマ市民には諸々の特権があり、例えば被支配民とは違って裁判無しにいきなり鞭打ちにされる事は許されていないし、訴訟事件の際には皇帝にまで上訴する事も出来る。
もしパウロ達が、解放されてそのまま何も言わず去って行っていたなら、パウロ達の側に何らかの非があった、という疑念が、福音を伝えた看守長や牢の中の人達、紫布商人のリディア達など兄弟姉妹に残ったままになってしまい、せっかく伝えたキリストの名が廃ってしまう。
人からの虐げを無条件に受け入れてニコニコするのがキリスト者の態度だと思ったら間違いで、人間の薄汚い欲望によって不当がまかり通って、そのままではキリストの名が潰れるといった場合は、看過してはならない。
パウロのように毅然とした態度で不当な扱いには不当だと主張すべきである。
しかしパウロにとって、キリストの名の故に苦難を受ける、という場合なら話は別だったようである。
彼は後に、エルサレムに行けばユダヤ人達に捕まる事が明らかに示されていたのに、敢えて行って縛られ、牢に入れられる事を甘んじた。
それは、彼が法廷で弁明する事によって、キリストの名をローマの総督や王達、最終的には皇帝にまで、広くあかしするためであった。
パウロは自分の立場、すなわちパリサイ人でありローマ市民である立場を、キリストのために最大限に利用した。
生きるにしても死ぬにしても、全てはイエス様のため(ピリピ1:20,21)であり、たとえ、ピリピの兄弟姉妹が捧げる礼拝で自分の血が供え物となってもそれを喜ぶ、とまで言っている。(ピリピ2:17)
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
ピリピ書簡も牢の中から書かれたものだが、投獄されてなお喜んだり賛美したりできるのは、キリストの名が前進するのであれば大きな喜びとなるからで(ピリピ1:17)、その喜びば自分が投獄された事さえネタと思える程小さな事になってしまうものだ。
全ての事の動機はキリストのためと、パウロのように喜んで言う事の出来る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:獄中の賛美(使徒16:25-34):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
本日の箇所は、普通に読んで行けば「あれ?どうして?」と思える所が沢山ある。
まずパウロとシラスはその時、着物を剥がれ、鞭打たれ、ひどく傷を負い、獄屋の一番奥へ入れられ、足枷まではめられているというのに、賛美しつつ祈っているのだ。
その賛美と祈りを、他の囚人達は、真夜中なのに文句も言わず、聞き入っているのだ。
しかもなんと大地震が起きて、獄舎の全ての扉が開いたばかりでなく、鎖も全て解けてしまったという。
監視長は扉が開いているのを見て、自殺しようとするが、パウロは、「皆ここにいるのだから自害してはならない」と言う。
そう、牢の扉が開かれ足枷も全て解けてしまったというのに、囚人達は誰一人逃げなかったのだ。
そして、見張っている側の看守長が、見張られている側の二人にひれ伏し、真っ先に発する言葉が「主よ」「救われるにはどうしたらいいでしょうか」である。
普通に読めば「なんでそうなる?」の連続である。
あたかもこの二人には、神から特別に使わされた聖なる者達であるかのような刷り込みが、真夜中までに為されていたかのようである。
パウロとシラスは、牢屋にぶち込まれた時から真夜中になるまでに、囚人や看守長を問わず、福音を伝えていたのではなかろうか。
囚人達は福音を聞き、罪人であった自分を悔い改め、監視長も、牢の向こうから漂ってくる声から「主」「救われるには」という言葉を何となく聞いていたのだろう。
そうして賛美している内に、なんと地震が起き、扉も鎖も全て解けてしまったわけである。
囚人一同はこれら一連の事を見、この二人を前にして、とても逃げるどころではない、この二人はまことに神に守られ愛されている者達だ、と改めて驚いたのではなかろうか。
当時、牢獄を見張っている者は、見張られている者が逃げたなら、その者と同じ罰を受けなくてはならない事になっていた。
看守長は囚人を見張っているようで、実は、ローマの制度という「牢獄」の囚人だったわけである。
そういうわけで看守長は、囚人全員が逃げていたとしたらどんな恐ろしい罰が待っているだろうと悲観して自殺しようとしたのだが、しかしなんと誰も逃げておらず、パウロは大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫んだ。
牢内で話していたパウロ達の「福音」は決して絵空事ではなく、信じる者は確かに神に愛され、このような不思議を起こし、そればかりでなく牢に入れられている罪人をも造り変えるのだ、と、おののき平伏したのではなかろうか。
看守長はこの二人に「主よ」と呼びかけた。
もしかしたら二人を神の人、あるいは神そのものと思ったのかもしれないが、パウロはまことの主、イエスを紹介した。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
この言葉は、私達が大いに適用すべき事である。
家族がああなればいいのに、こうすればいいのに、と、他人を何とかしようとするのではなく、この看守長のように、まず自分が主イエスを信じる事。その上で家族の所に行って、主イエスを紹介するのである。
看守長はまだ夜であったのに、二人を引き取って打ち傷を洗い、パウロ達は、看守長と家族を水のバプテスマによって罪を洗った。
そして共に食卓で交わり「神様を信じる者となった事を、家族全員で喜んだ。」(34節)
24節までの話だけであれば、パウロ達は何とついていない、運が無いと思えるのだけれど、この一晩だけで劇的な不思議と救いが起こり、人々の解放と喜びが沸き起こったのである。
私達に何か困難が起きる時、それは祝福が備えられているというしるしである。
困難があった時、がまんして無理やり賛美すれば、牢屋が開いて逃げられる、という短絡的なものではない。
主は、牢に繋がれている者、監視している者の双方を縛る肉体的・精神的・制度的な「牢獄」から開放するため、敢えて、私達もその牢獄へと導く事があるのだ。
主のなさる事には何一つ無駄は無く、いかなる事も最善へと導いてくださるお方として信頼する者なら、どのような暗闇の牢獄でも、賛美は止められないのである。
そして信頼して賛美する時、牢は開き、足枷は解けるが、それでも敢えてその中に留まり、縛られている者・縛る者双方を救いへと導くのだ。
私達もこの暗闇のご時勢において、日々、肉体的・精神的・制度的な「牢獄」に縛られている。
それら全ての中にあっても、信頼して賛美し、目を覚まして祈り続ける皆さんでありますように。
そうして皆さん自身の鎖を解いていただくだけでなく、その場で苦しんでいる縛られている者・縛る者の双方を救いへと導く皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!