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メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:心地良さの罠(使徒14:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ピシディアのアンティオキアから追い出されたパウロ達は、そこから南東およそ144kmに位置する町イコニオンへ行き、ユダヤの会堂に入ってそこでもイエスを伝えた。
ここでも彼らは大胆に語り、その福音が確かである証拠の徴や奇跡を行い、それによってイエスを信じる者も何人か出た。
にもかかわらず、そこでも反対する者が現れ、陥れられ、別の地方へと出て行かざるを得なくなってしまった。

このイコニオン地方において多くの苦労があり、主の力あるわざがなされ、教会もある程度育ち、これからさらに500人1000人と増えていって欲しかったのが、彼らの気持ちであろう。
それなのに反対され、扇動された民衆に命の危険に遭い、別の地方へと追い出される、と言うのは、人の目からは「失敗」のように見えるかもしれない。
しかし主の御心は、一箇所でキリストの体を肥大化させる事ではなく、各地方に散らばって、キリストの体をぽつぽつと建てていく事である。

福音は、人々を真っ二つに分ける。
「私が地上に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく、剣である。」(マタイ10:34)
イエスを信じる事によって、神との間には和解が訪れるが、人との間には剣が生まれるかもしれない。
父母は敬い、子は愛し、友人達は大切にして然るべきだが、ことに「イエス様から離れなさい」という言葉だけは、別である。
その時、人間的な思いや愛情が、かえってイエスに敵対し福音を阻害するものとなる。

パウロは元々、パリサイ派の中のエリートだった。
会堂においては、それまで何年も培ってきた彼の得意分野である律法や預言者について語ったほうが受けが良かったであろうし、パウロとしても、そういう働きの方が慣れていて心地良かったかもしれない。
しかし彼は、そんなはかない心地良さよりも「イエスの御名」の方が、肉体的命よりも永遠のいのちの方がはるかに重要だったが為に、イエスの御名による福音を語った。
その結果、彼は大いに用いられ、多くの人達を永遠のいのちへと救う結果となった。

私達ももしかしたら、イエス様の故に、慣れた礼拝形式や勝手知ったる心地良さを、捨てなくてはならない時が来るかもしれない。
今までどおりで勝手を知っていて心地良いけれど、主の為には何の新しいものを生み出さない「A」という道と、今までと経験した事が無く予測不能だけれど、主が促されている「B」という道があるのなら、当然、Bの道を選ぶべきである。
主は福音のために、今まで知らなかった道を歩ませる事があるかもしれない。

主の御心を知り、行い、主の用意された道を歩んで豊かに用いられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:恵みに留まる者と罵る者(使徒13:42-52):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロはメッセージを語り終えると、人々はなお残って話は尽きなかった。
主にある兄弟姉妹との別れが名残惜しくて、どこまでも見送り見送られたという経験は、皆さんにもあるだろう。
「二人は彼らと語り合い、神の恵みに留まっているようにと勧めた。」(43節)
救われる者達にとって、聖徒同士の交わりは楽しく、いつまでも尽きないものだが、別れ際は、名残惜しさだけでなく心配も湧いてくるものである。

パウロは色々な地方、色々な人々に「神の恵みに留まっているように」勧め、そして後に多くの手紙を書いたが、ある教会には、成長して恵みが増し加わった事への賞賛の手紙を書き、別の教会には、2度行ってもなお罪を犯し続けるなら3度目に行った時は容赦しないと叱責した手紙もある。
どの伝道者も働き人も、福音が蒔かれた聖徒達に、恵みに留まり続けなさいと言うその願いは切実であるが、残念ながら、恵みに留まらない者も出てくる。

さて、その次の安息日には、ほとんど町中が集まってパウロたちの話を聞きに来た。(44節)
前回来た人達が、普段来ない人達を誘って来たのだが、残念な事に、嫉妬に駆られたユダヤ人達、それも、真っ先に福音に与るべき彼らが、罵りながら邪魔をした。
「このよそ者は俺達より人気を集めてしまった」「俺達の立場はどうなるのか」といった、けちな自己満足を満たすために、聖なる福音を邪魔するのは、憤りを覚える事である。

「ところが、ユダヤ人たちは神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバに対する迫害を起こし、二人をこの地方から追い出した。」(50節)

滅びが定められている者達のする事は、古今東西同じで、陰で動き回って根回しし、有力者や有名人を唆して味方につけ、神の立てた権威に反抗する。
そしてひとたび彼らが攻め立てると、群集の側からは、神の立てた権威さえも弱くていじめ放題のうっぷん晴らしキャラに見えてしまう。
モーセやアロンも、パウロも、そして、イエスがそうだったように。
しかし、そのように逆らう者達の側につく群衆の最後は、モーセの時代もイエスの時代も、実に悲惨なものであった。

世から流れてくる群集心理に扇動される事無く、いのちの御言葉に留まり続け、神の立てた権威すなわちイエスに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の立てたメシヤ(使徒13:26-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロは旧約聖書の色々な箇所を引用し、イエスがメシヤである事をメッセージした。(使徒13:26-41)

イスラエル民族の多くは、御言葉を日ごと週ごとに朗読していたにもかかわらず、その御言葉が示しているメシヤなるイエスキリストを十字架へつけてしまった。
しかし神は、イエスを蘇らせる事によって、彼こそ全世界の救い主であると認定し(33節)、このお方にあって確かな祝福を与えると約束され(34節)、そして朽ち果てなる事が決して無いと定められた。(35節)
主イエスキリストを信じ、彼に繋がる私達にも確かな祝福と朽ちる事の無い永遠の命が約束されている。
そしてメッセージの最後は、福音を聞き続けてもなお頑なになって信じない者への警告として、ハバクク書1章5節からの引用で終わる。(使徒13:41)

ハバククはバビロン捕囚前の預言者で、エレミヤ同様、神に立ち返るようにと人々に促したが、人々は心頑なにし、堕落から立ち返る事無く、かえって預言者達を迫害した。
ハバククは少し特殊な預言者で、他の預言書は神からの示しを一方的に示すのに対し、ハバククは、彼がまず主に訴え、それに対して主が応答するという形式で、主の御心を示していく。

彼は繰り返し、民衆達が続ける不当について「いつまで訴えを聞いてくださらないのですか」と主に叫んでいる。
私達もハバククのように、正しい裁きがなされるよう日々主に叫んでいるかもしれない。
しかし主は憐れみ深いお方であるので、一人でも多くを救おうと、忍耐を持って猶予の期間を定めておられるのである。

定められた猶予期間の内に頑なな心を悔い改め、主を受け入れる者は幸いを得る。
しかし、いつまでも裁きは為されないと思って悔い改めず、神が聞くようにと定めた預言者を認めず、頑なに自分の考えに固執し続けるなら、ある日突然カルデヤ人に攻め滅ぼされたように、ある日突然、容赦の無い災いが襲う事になる。

主から与えられた憐れみの時、恵みの時に、しっかりと主に繋がって、もはや心かたくなになる事の無いようにしたい。
そして終わりの時代の聖徒達である皆さんは、ハバククのように神と親しく対話しつつ世に御心を示し、またパウロのように大胆に福音を告げ知らせる者達でありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:全てはイエスに集約される(使徒13:13-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロはピシディアのアンティオキヤ(新改訳:アンテオケ)に着くと、安息日に会堂に入った。
パウロ達が色々な地方へ回って福音を伝える時は、まずその地方の会堂、あるいはユダヤ人達が集まりそうな場所を見つけ、そこでイエスを伝えるのが、主なやり方である。

彼らはイエスが主である事を真っ先には話さず、まず切り出したのは、イスラエルの歴史からであった。
かつてペテロやステファノがメッセージした時と同様、イエスを伝える上では、イスラエルの歴史は決して外す事は出来ない。
なぜなら律法と預言者は、全てイエスを指し示しているからである。

ステファノ(新改訳:ステパノ)を迫害したユダヤ人達の歴史観は、あくまで自分中心、自民族の栄光が中心であった。
しかしステファノは、神が主体の歴史観、すなわち、神に反逆しっぱなしのイスラエルの恥の歴史を語ったが故に、彼は殺されてしまった。
しかし神こそが世界を支配する主であり、人類の救いの一環として、アブラハムひいてはイスラエル民族を一方的に選んだのである。
神が彼らを祝福し、増やしたのは、アブラハムや先祖達が偉かったからでないし、彼らだけを救うためでもない。
全人類を救うために、アブラハムを選び、イスラエル民族として増やし、彼らに神の言葉を委ねたのである。

しかし彼らは増え広がったとたん、何度も反逆をしていく事になり、神はおよそ四十年の間、荒野で彼らの行ないに「耐え」た。(18節)
その後、神は時代時代において導く者を立てたが、そのうち民衆は目に見えない神ではなく、目に見える王を求めるようになり、
そこでキシュの子サウルを王として立てたが、彼は従順でなかったため退け、神はダビデを選んだ。
イスラエル民族は幾たびかの不従順をしつつも、神は救いのご計画を立て、成就して行ったのである。

そもそも律法と預言者はなぜあるのか、という、基本過ぎて誰も疑問に思う事さえ無くなってしまったような疑問を、イエスという御方を答えとして、パウロは説明したのである。

パウロは洗礼者ヨハネについても説明した。
人々からもしやこれがメシヤ?と期待しされていたヨハネも、明確に「私がメシヤではない」「私はメシヤのサンダル紐さえ解く価値が無い」と明言したのである。
以上のように、全ての律法、預言者、ヨハネも、イエスこそ主であると証言しているわけである。

この天声教会の名前の由来も、そのような私達でありたいという理由でつけられ、
天から声が下って来た声は、モーセでもエリヤでもなく、イエスに聞くように御言葉は明言している。(マタイ17:4,5)
礼拝メッセージの中には色々な奨励もあるが、最も大切な事は、イエスこそ主であり、皆が聞くべき御方はイエスキリスト、という事である。

あの人この人ではなく、イエスに聞く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:御言葉を曲げる者(使徒13:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「彼らが主に礼拝をし、断食していると、聖霊が、「さあ、バルナバとサウロとを選び出し、私が二人に任命しておいた仕事に当たらせなさい」と告げた。
そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置き、出発させた。」(使徒13:2,3)

神がこの二人にあらかじめ任命しておいた仕事とは、福音を各地へ伝え歩く事である。
サウロはこの時からパウロと名乗るようになり、バルナバやペテロより、パウロの方が使徒行伝の前面に出て来る。

彼らはユダヤ人の諸会堂に入ってはイエスがキリストであると伝えて行ったが、パポスという所でユダヤ人の魔術師バルイエスという偽預言者に出会った。
バルイエスとは「イエスの子」という意味であるものの、キリスト・イエスとは真逆の存在で、福音を遠ざけ、いのちを塞いでいた。

「この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物のもとにいた。」(7節)

総督が「賢明」と評されているのは、彼が頭が良いからではなく、福音に積極的に聞こうとしたからである。
この総督はバルナバとパウロを招いて神の言葉を聴こうとしたが、かの魔術師はそれを邪魔した。

正面から言葉の論理で対抗したのか、それとも、何か派手な魔術的パフォーマンスを行って福音よりもそちらへ引き込もうとしたのか、
あるいは、現代教会にもよく居るように、御言葉を語っている最中に大いびきをかいたり、派手な貧乏ゆすりをしたりして、御言葉を語る者よりも注目を集めたのか、具体的にどのように邪魔をしたのか、書かれていない。
とにかく、神に敵対する霊が入っている者に共通している事は、あらゆる方法を用いて礼拝や御言葉を邪魔し、そして、罰と思えるような災いに必ず遭う事である。

神の道は元々まっすぐである。(10節)
しかしそれを「曲がったもの」へとしてしまうのは、魔術はもちろん、パリサイ派の教えも、神学的主張も、人間中心のヒューマニズムも皆そうであり、それに捕らわれると、バルイエスのように、霞と闇が覆い霊的な目をふさがれてしまう。

総督は、実際にこの魔術師の身に起きた事を目撃して、主の教えとその実際に持っている力に驚き、信仰へと入った。
このように、主の敵に降りかかる災いも、周りの人間にとっては救いに入るきっかけとなる。
この魔術師の名は「あのバルイエスのようになりたくなければ・・・。」など、呪いの代名詞として広まった事だろう。
私達もバルイエスのようになりたくなければ、御言葉を曲げたり礼拝を邪魔したりしない事である。

結局の所、信じる者には権威が与えられ、ますます道が開けてゆくが、御言葉を塞ぐ敵の道は、ますますふさがっていくのである。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:18)
信じる者となり、これらのしるしを沢山経験していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神と呼ばれるものは多くとも(使徒12:20-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ティルスとシドンの住民は、ヘロデ王から糧食を得ていたが王の怒りを買っていた。
そこで住民らはヘロデを神と呼んで褒め称えたが、彼は御使いに打たれ、蛆に食われて死んだ。

日々の食料をもらうために、神でないものを「神」呼ばわりしつつ、機嫌を取らなくてはならないのが、呪われた人間世界である。
神と呼ばれるものは世に多いが、それの大体は身勝手で多くの犠牲を要求するものだ。
ヘロデの場合、わずかの間食料を与えてくれる神になったかもしれないが、彼はあえなく蛆に食われて息絶えた。
神ではないのに神と呼ばれる人間や物など、そんなものである。

ヘロデは教会を迫害したためその罰を受けた意味もあったかもしれない。
しかし決定的理由は「神に栄光を返さなかった」からだ。(23節)
力や権力のある自分を、神、あるいはそれに近い者とし、まことの神に栄光を帰さない事は、重大な罪なのである。

使徒12章全体を見ると、教会は広がるどころか縮小するのではないかという脅威にさらされていた。
同胞達から排斥され、国家権力からも攻撃され、主だったメンバーも殺され、頭とされていてたペテロも捕らえたれた
しかし結局、教会は存続したどころかますます栄え、教会を攻撃したヘロデも、ペテロを捕らえていた兵士達も、滅びることになった。

「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」(使徒12:24)

12章の最後を見て分かるとおり、いのちの言葉はさらに広がり、神を信頼する者達は最後には勝つのである。
教会がやっていたと言えば、ただ祈っていただけであった。
デモをしたとか、刺客を送って王を暗殺させたとかではない。
教会は、ただ神を畏れ、祈るのである。
神を畏れる者は、御使いに命じて足が石に打ち当たる事の無いよう守り、御使いに陣を張らせ守らせてくださる。(詩篇91篇、34編)

刹那的に強力に見えたヘロデについた者も一人や二人はいたかもしれないが、そういう者達は、恥を見たであろう。
この終わりの時代にも守られる者とは、イエスの御名を否まず、忍耐して御言葉を守る者である。(黙示録3:8-10)
そのような皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:おっちょこちょい集団が出し抜く時(使徒12:12-19):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

御使いによるペテロの奇跡的な救出劇に対して、教会の応対はどうだったか。
それは、記録さえしないでおれば格好が良いまま終わっていたのに、と思える程、おっちょこちょいな対応だった。

教会はペテロが助かる為に祈っていたはずなのに、いざ、その張本人が本当に助かって目の前に現れてみると、にわかには信じられなかったようだ。
彼らは「さあ祈るぞ」「ねえ聞いて聞いて」「気が変になったのだ」「守護天使だろう」など等、おしゃべりしたり盛り上がったりする事が、好きだったようである。
私達も本来の祈りの目的を忘れ、仲間内でおしゃべりしたり盛り上がる事を第一にしているなら、ロデのように、おっちょこちょいな者として永遠に記されてしまうかもしれない。

しかし主は、これは叶えられないだろうと人に思えるような祈りでも、あざやかに応えてくださる御方である。
当初、ヘロデ王も兵士達も、こんな弱くまとまりの無い集団を潰すなど朝飯前、と思っていたかもしれない。
ヘロデ王は国家権力を用い、二重の衛所に鉄の門、16人体制という抜かり無さでやっていたのに対し、
教会は、集って祈っていただけで、ペテロに至っては、単に寝ていただけである。

ところがその教会というおっちょこちょいで抜かり有りな集団のほうが、ヘロデ王達を出し抜いたのだ!
彼らには、キリスト者達に手を出すと痛い目に遭うぞ、と大いに印象付けられたに違いない。
私達の主イエスにより頼み、十字架の死に明け渡しているなら、このように、主が実に痛快な救いを与えて下さるのである。

「12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。」

天使は鉄の門をやすやすと開いたが、教会の門までは開かなかった。
確かに主は、私達を縛る鎖を断ち切り、行く手を阻む鉄の門も開く。
しかし、教会の門も、天の門も、天使にではなく私達教会に委ねられているのである。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)
為す術も無く滅んでいく者達や、主を知らない者達のために大いに祈り、教会の門を開き、そして呪いや悪しき者達に対しては、門を閉じるべきである。

「夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。
ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ」(使徒12:18)

当時の衛兵達は、囚人を逃がしてしまうと、その囚人の刑が科せられてしまうという決まりがあった。
聖徒達の痛快で朗らかな様子に対し、ヘロデの部下達は、何と悲惨な事だろう。
トップが呪われているなら、例え強く有用な者達が集まっていてもその組織は呪われている。
しかし、主イエスの名の下にある集まりであるなら、どんなに要領悪く弱い集団であっても、そこは祝福されているのだ。

主にしっかり繋がって痛快な救いを体験し、天の門をしっかり管理する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:殺されるにしても生かされるにしても(使徒12:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

教会は勢いを持って発展して行ったが、それを妬み歯軋りする者、サタンの攻撃もあり、ヨハネの兄弟ヤコブが殺された。
ペテロやヨハネと共に初期の段階から主イエスに仕え、主の近くで特別な場面も通ってきたかの弟子は、ヘロデ王が民に取り入るためのネタとして、剣で殺された。

この時ヤコブはなぜこのような殺され方で殺され、ペテロは奇跡的に生かされたのか、と思うかもしれない。
主は当然、ヤコブをも剣から救い出そうとするなら、救い出せた。
しかし、亡くなる側と生き残る側のどちらになるのか、また、どちらにつくのが良いのか、結局人には分からない。
それに、人が生きたいと願おうと召されたいと願おうと、生死の事は人に委ねられていない。
主だけが力ある御方であり、最善を知る御方であり、いのちは主のものである。
とにかく彼の死の結果、主に敵対する者達の邪悪さが明らかにされ、聖徒達の真剣な祈りが起こされ、
遂には、主につく側と敵対する側に対する神からの絶対的な格差、すなわち祝福と呪いが明らかにされた。

ヤコブを殺した事がユダヤ人たちの気に入ったのを見たヘロデは、ペテロをも捕らえた。
ペテロが連行された場所は、鉄の門と2つの衛所の奥という堅固な獄屋で、しかも四人一組の兵士四組体制で監視された。
たかだか一人の一般人を拘束するには厳重すぎるほど厳重に思えるが、過ぎ越し祭という民衆の盛り上がりが高みに達している時にペテロを引き渡す、いわば扇動イベントの重要なネタとしたかったのかもしれない。

当のペテロは、2本の鎖に両手を繋がれ、二人の兵士の間で眠っていた。
時は過越祭の夜、十字架に架かっているような有様で二人の人の真ん中に立ち、眠っている所を、脇腹を叩かれた。
この有様は、イエス様の十字架の場面と大いに重なる。
彼はこの時、死も同然の状態だったが、死といえば復活であり、十字架といえば救いである。
教会では彼のために熱心な祈りが捧げられていたが、主はその祈りに応えて下さった。

祈っている者達は、兵士のように力も無いし、社会的に弱く貧しいし、要領も良くない。
しかし神により頼んでいるなら、いかに大勢の権力者達から狙われようとも、王から狙われようとも、主は救い出す事が出来るのだ。

今の私達にも諸々の攻撃や困難があるが、主にあって守られ、誇り高く歩んで行ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:死をいのちに、災いを勝利に飲み込む主 2(使徒11:27-30):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

時に、ユダヤ地方に大飢饉が訪れた。
アンティオキヤの聖徒達は、ユダヤの兄弟姉妹に援助を送る事を決め、バルナバとサウロに援助の物資を託し、エルサレムの長老達に届けさせた。

アンティオキアの教会元々、数人のキュプロス人とキュレネ人がアンティオキアに入って福音を伝えた事から起こり、全くの外国人から始まった。
それを聞いたエルサレムの聖徒達は、バルナバを派遣する事で、霊的な養いをアンティオキヤへ送ったわけだが、
大飢饉の時には逆に、物質的な養いをアンティオキアからユダヤの兄弟姉妹達へと送られたわけである。

ユダヤ人達による異邦人への蔑みや偏見は、この援助によって、できなくなった事だろう。
元々ユダヤ教に熱心な者は、異邦人から援助をもらう事は気が引ける事かも知れないが、キリスト者に与えられている啓示は、神が清めた者(異邦人キリスト者)を「穢れている」としてはならないという事である。
ユダヤに住んでいる人々がこの援助をいただく事によって、神様の意図している事が実行に移されたのである。

聖徒達のいのちを救うため、そして兄弟姉妹の結束を固くするために、敢えて飢饉という「災い」を用いられた事例は旧約にもある。
ヨセフは兄弟達に売られたが、売られた先エジプトで苦労の後、かの地で大臣となり、全世界に飢饉が起こった時、70人の身内を救った。(創世記37章ー50章)
ヨセフは兄弟達に会った時、自分を売ったことを悔やまないようにという事と、自分がどのような意図や仕方であったにせよエジプトへ行ったのは、身内全員のいのちを救うために、神が意図したのだ、と告白している。(創世記45:4-8)

ヨセフには、自分が大臣になったのは、彼が苦労に苦労を重ねたからそのごほうびに、ではなく、神がヤコブの子達全てのいのちを救うためと分かっていた。
エジプトの地位も、富も、ヨセフの心には無く、彼が心に留めていたのは神のご計画であり、神の民のいのちを救う事だった。
その時、ヨセフの兄弟達の憎悪を一身に受け、呪いに落とされたかのようだったかもしれないが、それさえもいのちに飲み込むために神様が用いて下さったと知っていたのである。

初代エルサレム教会に及んだ飢饉も、いのちのために、また、主にある兄弟姉妹の結束を堅くするために用いられた。
今、私達にも諸々の災いが起こり、先の事は分からないかもしれない。
しかし主は、飢饉や戦争、地震や病といった、呪いを連想させるものさえも、いのちで飲み込む御方であり、全ての事を益として用いてくださる御方である。

今、災いのように思える事が起きていたとしても、主はそれさえもいのちに飲み込んで下さるお方だと信じる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:死をいのちに、災いを勝利に飲み込む主(使徒11:19-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

福音はヨッパやカイサリヤ地方ばかりでなく、地中海東側の沿岸地方の広い地域にも広がり、アンティオキアにまで広まった事がエルサレム教会に伝えられ、バルナバがそこに派遣された。
ステファノの殉教は、その時は悲しむべき事、あって欲しくない事として受け止められたかもしれないが、それが元となって聖徒達は各地に散らばり、結果、このように広い地域の多数の人々がいのちを得る事となった。
主は御名を呼ぶ者を責任を持って支え、災いの中を生かし、思いもしない祝福の道へと導いてくださるのである。

バルナバは到着した時、神の恵みを見て喜んだ。
人が動植物の成長に手を加え過ぎると逆にいのちが育たないように、人間の作った神学や宗教的勧め等を前面に押し出すなら、いのちは育たない。
アンティオキヤにおいて聖徒達は初めて「キリスト者(christianoi)」と呼ばれるようになったのは、彼らは何でもかんでも「キリスト」に持っていったからである。
種を蒔けば自然に芽が出、葉をつけ、実りをもたらすように、キリストの御言葉が蒔かれるならいのちは自動的に育ち、恵みは広がっていくものである。

バルナバはさらにサウロをタルソスから連れ帰り、アンティオキヤはますます熱く成長し、伝道の最前基地となって行った。

さて土曜、教会のある姉妹の容態が急変し、救急車で運んで診ていただいたが、芳しい状況ではなかった。
日曜礼拝後に訪問した時、死は勝利に飲み込まれたという御言葉が与えられ、この事は呪いや災いで終るものではなく、逆にいのちに飲み込まれて行くものだと語った所、彼女は苦しくか細い声であっても「アーメン」を繰り返していた。
結局手術する事になったのだが、状況はかなり悪く進行していたにもかかわらず、執刀した医者もびっくりする程奇跡的に守られていた事が分かった。
当初、先行きが見えず悲しみや落胆もあったにはあったものの、結局この一連の事によって、主はいのちと勝利で飲み込む御方だとますます知ることが出来た。

「あなたの信仰があなたを救った」と主は言われた。
確かに聖徒達は手を置いて祈ったが、誰か聖徒の按手が癒しの決定要因ではない。
自身のイエスを信じる信仰ほど、癒しの薬になるものは無いのである。

主イエスに信頼し、死をいのちに、災いを勝利に飲み込んで頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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