メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:ペテロの報告(使徒11:1-18):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
異邦人も神の言葉を受け入れたという事がエルサレムの教会の耳に入り、ペテロはそこに帰って報告した。
ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりする事は、律法で禁じられているため、使徒ペテロといえども、当然その事を追求された。
ペテロとしても同胞達からの非難は予測したろうし、行動する前の段階から彼自身に躊躇があった。
だからこそ、事前に再三の幻が示されたわけである。
ペテロは教会にて、事の次第を順序正しく説明した。
まず、ヨッパの家で見た、あらゆる動物が入った入れ物が下りて来て、屠って食べなさいと言われる幻。
この幻で命じられた事も、ペテロ自身に多くの躊躇があったはずだが、ここで神が示されたのは、「神が清めたものを、あなたが不浄なものとしてはならない」という事。
そして幻を見た直後、カイサリヤから3人が来て、霊がすぐに「ためらわずに行きなさい」と指示をした。
このように、主があまりにリアルに、ヨッパという「現場」で働かれていたからこそ、ペテロも、彼に同行した6人の兄弟達も、ためらわずに異邦人の家に向かったのだ。
「ヨッパに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」(13節)
「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」(14節)
ペテロの説明中、上記13節は確かにコルネリウスへ御使いから示されていたが、14節の内容はその時示されていなかったはずである。
その時点では、コルネリオスは14節の内容、すなわち、神の意図は分からなかったし、ペテロにしても自分が異邦人の家で救いの言葉を語るなど思っても見なかった事だろう。
その時は分からなくても、後になって、神の意図していた事が、関係者全員に分かったのである。
私達も、神様は何故このように導かれるのか分からなくても、その通り実行すると、神様があの時示されたのはこれこれの意味があったのか、と、後になって主の深遠なご計画が分かる事がある。
17節「私達に与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
あそこまで不思議な導きによってペテロとコルネリウスを引き合わせ、明確に聖霊まで与えてくださったのに、握り締めている自分の価値観に執着して、水のバプテスマを授けないなどというのは、神を妨げる行為なのである。
私たちも、培ってきた価値観や常識を超える道が示される事があるが、主が示して下さった道を行かないと、神を妨げる者となってしまうのである。
「会議室」にいる者達は、「現場」で起きている事を中々理解できないものである。
しかしエルサレムの教会の人達は、ペテロの報告を聞いて、なお自分の価値観に固執したり反抗したりする事はせず「神を褒め称えた」(18節)。
彼らは、主が秩序正しく導いておられる事を素直に受け入れ、神を褒め称えたからこそ、教会はますます発展して行ったのである。
聖霊が与えられ、神の示しが明確に与えられているなら、忠実に従うべきである。
主によく聞き、信頼し、忠実に従う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:隔ての壁を打ち壊すお方(使徒10:44-48):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
異邦人が聖霊を受けると、ユダヤ人たちは非常に驚いた。
聖霊は神の民ユダヤ人にしか与えられないという固定概念があったからである。
しかし神の最終的な御心は、ユダヤ人も異邦人も、人類全体が救いに至る事である。
律法ではユダヤ人は異邦人と一線を画すよう促されている。
しかし異邦人には、主の名を愛し、仕え、教えを守るなばら、神に受け入れられるという預言がある。(イザヤ56:1-7)
コルネリウスに関しては祈りと施しを忠実に為し、まさにイザヤ56章の言葉を守っていたため、主は異邦人という区別をされず、御言葉どおり省みて下さったのである。
ユダヤ人と異邦人という二つの隔ての壁を打ち壊すお方が、イエスキリストである。
異邦人は、割礼を受けている人々からは無割礼の者と呼ばれ、神から遠く離れているとされていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった。(エペソ2:11-13)
そしてキリストは、ユダヤ人と異邦人の敵意の壁を打ち壊し、平和をもたらし、双方を一つの新しい人、すなわちキリストの花嫁として造り上げた。(14-16節)
もはや外国人や寄留者ではなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、かなめ石キリストにおいて聖なる神殿として建て上げられ、聖霊によって神の住まいとなるのである。(19-22節)
それ故、異邦人がペテロの御言葉を信仰を持って聞いた時、聖霊が与えられたのであり、キリストにあって異邦人もユダヤ人も何の隔ても無いのである。
異邦の習慣により男性器が切り取られてしまった宦官であったとしても、そうである。(使徒8:26-40)
「なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:4,5)
例え心や体に、主の嫌われる異邦の習慣による印や、異教的な儀式による印を受けてしまっていたとしても、悔い改めてイエスを主とするなら救われるのだ。
イエスこそ、全ての肉体的・霊的束縛を解き放つ主である。
コルネリウス他、異邦人に聖霊が下ったのは、ペテロがイエスキリストを語り始めたからである。
「イエスのあかしは預言の霊」であると御使いは言う。(黙示録19:10)
預言など聖霊のしるしについてはキリスト教会で色々と議論されているが、異言よりも、預言よりも、その大元である「イエスのあかし」が大切である。
イエスを心で信じて受け入れるなら救われ、義とされ、賜物(贈り物)として聖霊が与えられるのだ。
以前は邪悪な者であった私達は、驚くばかりの恵みによって救われた。
その恵みをいつも感謝し、喜び、聖霊によって守られる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:証人としての当事者(使徒10:34-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
コルネリウスが
「今私たちは皆神の御前に出て、主があなたに命じられたことを一つ残らずうかがおうとしているのです」(33節)
と言ってペテロに託された言葉を待ち望み、ペテロが口を開いて伝えたのは、イエスキリストが救い主である事だった。
神が御使いを通じ、コルネリオスにもペテロにも奇跡的かつ的確な方法で出会わせたのは、イエスへと導くためである。
福音を伝えたい者と、救いを切望している者とは、この二人のように奇跡的な方法で、細やかで的確なお膳立てして下さるのだ。
ペテロが伝えたのは真っ先にイエスの事である。
コルネリオスはこのイエスについて、相反する2つの噂、すなわち良い噂と悪い噂とを聞いていたであろう。
ところが、熱心に神に使えていたコルネリオスに御使いを通して指示されたのは「ペテロと会って話を聞く事」であり、ペテロが伝えたのは、イエスこそメシヤであるという事である。
神は、もろもろの規定や割礼を伝えるためにペテロを召したのではないし、コルネリオスと出会うための細やかなお膳立てをしたのも、祭司長や律法学者の教えを伝えるためではない。
実に、イエスというお方を伝えるためである。
ペテロはイエスの「証人」であると自称している(39〜42節)し、43節では、預言者もそのように証言している、と証している。
事実、旧約聖書すなわちモーセの律法と、預言者たちと、詩篇に書かれてある事とは、イエスについて証している。(ルカ24:44〜49)
イエスがペテロなど弟子達に解き明かされたのは、天使からの新しい徴ではなく、御言葉であった。
神はなぜ、私たち一人ひとりを召されたか。
それは、御言葉と聖霊を元に、イエスの証人とするためである。
御使いがコルネリオスに使わされた時、御使いは一言も「イエス」「キリスト」の言葉を出さず、単に、海沿いの皮なめしシモンの家を訪ね、シモンペテロから話を聞くようにと、指導しただけだった。
神はなぜ、御使いの口から直接イエスを伝えないのだろう。
御使いを通じてダイレクトにキリストを宣教するほうが誤解や間違いもなく伝わるだろうし、人々は恐れて確かに信じる、と思われるかもしれない。
しかし神は、イエスと出会った私たちに、イエスが主である事の証言者としての役割をお委ねになったのである。
他の誰でもない。御使いでもない。私たち一人ひとりが、当事者である。
あの人に福音を示すために、御使いを遣わして下さい、不思議な夢や幻をあの人に見させてください、では、ない。
今日の箇所からすれば、たといその人の夢に御使いが現れるにしても、**の所に行って話を聞け、と示すのではなかろうか。
だから私たち自身、いつでもイエスを伝える準備をしているべきである。
準備が出来ているなら、主はいつでもお膳立てし、福音を必要としている人の所に遣わして下さるだろう。
主からお膳立てされるほど豊かに用いられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:謙虚に聞く姿勢(使徒10:17-29):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はコルネリウスとペテロを取り巻く周辺で起きている出来事を中心に話すはずだったが、図らずも、創世記から黙示録までを通して主がご計画された、人類全体の贖いの計画を話す事となった。
異邦人の救いとは、ユダヤ人のそれまでの考えをひっくり返すほど、天的に重要な転換点である。
ペトロは、見た幻はいったい何を意味するのだろうかと、一人で思い惑っていたその時、3人の異邦人が訪ねて来た。
「三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って下に降り、ためらわずにその者たちと共に行きなさい。彼らを遣わしたのは私なのだから」。
国際社会を生きる私たちには、その言葉だけでためらわずに行って然るべき、と思われるかもしれない。
しかし、事前にあれだけ印象的な幻を見せられなければ、ためらってしまう程、敬虔なユダヤ人にとって、異邦人に同行したり家を訪問する事は異色な事なのである。
カイサリアはヨッパから海沿い50kmほど北に位置する重要な港町で、多くのローマ兵が駐屯している。
異邦の穢れた民とされていたローマ人に、支配されている側のユダヤ人からすれば、支配する側であるローマ人が大手を振っているそのような町は、嫌悪する所だろう。
それでもペテロは、数名の聖徒達を連れて行った。
迎えたコルネリオスはなんと、ペテロにひれ伏した。
「支配する側」であるローマの百人隊長が、部下も含め大勢いる列席一堂の前で、
「支配される側」であるユダヤの、名も無い一漁師にひざまづくのは、いかに驚くべき光景であろうか。
ペトロは「立ちなさい。私も同じ人間です。」と言った。
黙示録の場面でも、ヨハネは御言葉を伝えた御使いにひれ伏した所、同じ事を言われた。
『わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。
「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(黙示録19:10)』
御言葉を語る者は尊敬されても、礼拝の対象となるの確かに行き過ぎである。
しかしコルネリウスにとっては、列席の前でひれ伏す程、ペテロの事を御言葉を語る者、神の使わした者として尊敬したのである。
「今私たちは皆神の御前に出て、主があなたに命じられたことを一つ残らずうかがおうとしているのです」。(33節)
たとい身分が低く見下されるような者であろうと、神の使わされた者、御言葉を語る者であるというのであれば、このように謙虚に聞くべきである。
この一連の出会いの出来事は、ペテロにとってもコルネリオスにとっても、多くのチャレンジを必要とした事であろう。
しかし主の御言葉に忠実に従うならば、主の大いなる御技を見ることが出来る。
もし皆さんが、主からの導きを求めつつも中々示されていないのであれば、今一度、自分の中に謙虚に聞く姿勢のあるかないかを、見直したほうがいいかもしれない。
常に謙虚に聞く姿勢を持ちつつ、御言葉を語る者に耳を傾け、主の御言葉を待ち望むみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神が清めたものを不浄としてはならない(使徒10:9-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はコルネリオスへの幻だったが、今回は彼が出会うべき、シモン・ペテロに示された幻である。
コルネリオスから使わされた三人がヨッパに近づいた時、ペテロには天から敷布のような物が4隅を吊るされて下りて来る幻を示された。
敷布には清い・清くないを含めたあらゆる動物が入っていて、それを食べなさい、というのが幻の内容である。
それは「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」とペテロに示すためだったが、それにしても実にユニークな幻である。
その事を知らせるためには、もっと別の幻も見せられるのでは、と思われるかもしれないが、何故そのような内容が示されたのか。
主が「食べなさい」といわれた時、ペテロが嫌がったのはなぜかというと、食べて良い動物と食べてはならない穢れた動物が律法(レビ記11章)に細かく規定されており、主から食べるよう促されたものの中には、汚れているとされる「地を這う動物」も含まれていたからである。
ところが聖書のもっと前のほうでは、地を這う動物も含め、地上の全ての動物は全て食べて良い、と言われている箇所があり、それはノアの洪水直後に定められた契約で、創世記9:1-4にある。
しかし、さらに以前に定められた契約があり、それは創世記1章の終りに出てくる契約で、「全地に生える種を持つ草と種を持つ実をつける木」が食物として定められている。
動物は人間にとっての食物ですらなく、また、全ての動物にとっての食物は、あらゆる青草である。
このエデンにおいて与えられた人類最初の契約は、人類によって破られてしまった。
人は罪ある者として増えていき、罪が地に増し加わったため、ノアの時代に一度滅ぼされてしまった。
しかし神はなお憐れみ、全人類と全被造物を救うために、第2、第3と段階を追って契約を定められたわけである。
律法が入る以前、動物達は清い汚れているという区別が無く、そうした区別は律法が来た時に導入されたものだが、穢れた動物がなぜ洪水後もこうして生き残っているかというと、ノアの箱舟によって救われたからである。
いくら「汚れている」と見なされている動物であっても、救い、すなわちノアの箱舟の中を通ってくれば、生きるのである。
穢れているとされている異邦人達も、まことの箱舟、すなわちイエスによって救われ、永遠の命を得る事が出来るのである。
神は、ご自身を示すために、その証人となる人々を用意しなくてはならなかった。
そしてその証人を通して、神は何を是とし、何を非とするのかを、示さなくてはならない。
その、ご自身を世に対して示す証人として、アブラハムすなわちユダヤ民族を選ばれた。
なぜユダヤ人が選ばれたかというのも、彼等のような言わば選民のみを救おうとするためではなく、その民族を用いて、人類全体を救おうという遠大な計画の一部として、ユダヤ民族を選ばれたわけで、彼らを通して、神は何を喜び何を嫌われるかという意図を世に示そうとされたのである。
それ故、律法の中で何が清い、何が汚れているという区別は、救いのご計画のうちの一つの段階として示したものであり、最終的には、人類全体をキリストへと導くためである。
ユダヤ人は結局、神様の約束を守り切ることは出来なかった。
神の「是非」から見れば、人類全ては「非」であり、人類は自らの力でどうしようもない、救いようがないと徹底的に知らされた時、神の憐み、救いの希望が示された。
すなわち、イエスを信じる信仰による救いである。
その救いの道は最初、ユダヤ人に示され、続いて異邦人に知らされた。(使徒10:41)
幻の中で動物達が降りて来た元は天であり、それらは元々、神様の所にあったわけである。
人類が罪を犯す以前、創世記1章の生き物は全て、清いも穢れも無く、皆同じように草や木の実を食べていた。
神が望んでおられる究極の完成形は、黙示録の最後に記述されている、天から降りてくる花嫁衣裳を纏ったかのようなエルサレムである。
その最初の示しが、この使徒10章における幻である。
ペテロが嫌がったのを「神が清めたものを、あなたが不浄な物としてはならない。」とたしなめられたのは、そういうわけである。
当然、誰も彼もが無条件に清められ聖とされる訳ではない。
イエスキリストを受け入れた者達が、その義と聖に預かる事が出来る。
一人でも多くの者達を、例え獣のような者であっても、イエスキリストへと導く事によって清め、聖とする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
あなたの祈りと施しは覚えられている(使徒10:1-8)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 使徒の働き
- 執筆 :
- tenseikawai 2011-4-11 22:23
礼拝説教メッセージ音声:あなたの祈りと施しは覚えられている(使徒10:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒10章は、コルネリオスというローマ人と、彼に関連する親しい異邦人達の救いの話である。
彼はローマ軍イタリヤ隊という部隊の百人隊長で、神を恐れる人だった。
百人の隊長として任命された者であるからには、能力的にも人格的にも優れた者であった事だろう。
後にペテロを自分の家に招き入れた時、大勢の親類や友人達を呼び集めているし、また家族や部下の中にも敬虔な者がいたという事は、彼は人々に神様の事を伝え、何人かは敬虔な者として立ち返らせるほど、御言葉を伝える人だったのだろう。
彼に御使いが使わされたのは、神様を人に伝える人であり、また絶えず祈っており、ユダヤの民に数々の施しを為していたためである。
異邦人の救いはこのコルネリウス達が最初だと思われ勝ちだが、その前にエチオピアの高官の救いがあった。(8:26-)
フィリッポスが伝道した宦官は、誰よりも熱心に礼拝し、深く御言葉を愛する者だった。
対してコルネリウスは、人と人との関わりの中で賜物を発揮するタイプのようである。
これらの事から、神様は全地をあまねく見渡し、異邦人であろうと誰であろうと、どのような形であれ、主に対して真実な者はしっかり覚えておられ、きちんと報いてくださるお方だと分かる。
コルネリウスに現れた御使いがまず言った言葉は「あなたの祈りと施しは神のみ前に覚えられている」である。
私たちが日々捧げる「祈り」はしっかり神のみ前に立ち上っている。(黙示録8:1-5)
祈りは、聖徒達一人ひとりが捧げる薫り高いいけにえである。
また「施し」も「芳しい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえである。」(ピリピ4:18)
昨日の主日は、高松の兄弟から送っていただいた讃岐うどんを、皆で頂いた。
彼としては、まだ見ぬ天声の聖徒達の喜びを思いつつ送って下さったのだが、それは、聖徒達を満たしたばかりでなく、同時に、神様に覚えられる芳しい香りとして捧げていたのである。
パウロは続けてこう書いている。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
この御言葉からも、施しは神様に喜ばれる供え物であると同時に、非常に祝福に満ちたものである事が分かる。
そのように祈りと施しを欠かさなかったコルネリオスに、御使いが使わされたわけである。
御使いは「ヤッファへ人を送り、ペテロと呼ばれるシモンを海辺の家に訪ね、彼を招きなさい」と、かなり具体的な指示を与えるが、「何のために」「その結果何が起こるか」という事は伝えていない。
もし御使いが「あなたがたも聖霊を受け、バプテスマを受ける」「異邦人にも救いの道が開く」などと、これから起こる事が予め知らせれていたら、彼はもっと違う行動を取っていたかもしれない。
しかし、人はその後の事は知らなくて良い。
神は異邦人をも省みてくださる憐れみ深いお方だ、と信頼しながら昨日も今日も同じように祈る日々は、味気なく写るかもしれないし、人目を惹くものではないかもしれないが、神の御前にはそれで十分である!
人は知らなくても、信頼して行動するからこそ信仰が実体として現れるのであるし、順次祈り求めて順次示されるからこそ、私たちは一瞬一瞬、日々、主に求め、より頼んで行くのである。
私たちは将来どうなるかは分からないけれど、主は私たちの祈りと施しを覚えておられる事と、当面為すべき御言葉が知らされていれば、それで十分である。
たゆまず主に信頼し、かぐわしい香りを捧げるみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:いのちの積立金とは(使徒9:36-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はペテロによる中風の癒しについてだったが、今回は、死んだタビタを生き返らせる奇跡である。
昔も今も、病の癒しや蘇りの奇跡は、聖徒なら誰もが一度は切実に求め願う事であろう。
聖書に死人を蘇らせる奇跡は幾つか出てくるが、今回のように、ある人の死が多くの人達に悼まれ、蘇らせていただきたいと祈られた事は、他にも多くあったころだろう。
例えばステファノの死は、多くの人達に悼まれ、多くの聖徒達が彼の死体を囲んで生き返って欲しいと願ったであろうし、後に学ぶヤコブが殺害された時も、多くの人達に悼まれ、蘇らせて欲しいという願いが起きただろう。
彼らは蘇らなかったが、もし、彼ら程の働き人が蘇っていたのなら、今回のタビタ以上に、ユダヤ社会とクリスチャン達に大きな衝撃を与えただろう。
誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こりなぜこの人には起こらないか、とった議論は、我々のする事ではない。
いのちは主のもの、人がいつまで生きいつ死ぬかは、いのちの主イエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。
病で死んで多くの人に悼まれ、蘇らせていただいたケースとして、ベタニヤのラザロがいる。
彼が病だと知らされた時、イエス様はこう言われた。
「この病は死に向かうものではない。神の栄光の為に、神の子がそれを通して栄光を受けるためのものである。」
しかもイエス様はそれを聞いて、よりによって2日もその場所に留まり、ラザロの所に到着した時、既に彼は亡くなっていた。
なぜイエス様はすぐに行かなかったのか。
生きている内に癒されたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか。
それは、イエス様が私達に死ぬほど大事な事を教えるためであり、もしインスタントな癒しをしていたなら、人々はその大事な言葉を心に刻む事は無かっただろう。
皆さんにぜひ覚えて置いていただきたい事は、病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事があって、それはすなわち「イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる」事だ。
タビタの場合、彼女を慕う者が多かったため、ペテロは呼び出された。
ペテロはその時、主に蘇えらせて頂けるかどうかは、知らなかった。
ここでもし蘇らせて頂けなかったら、ペテロからはもう聖霊が去った等と見なされ、評判は地に落ちるのだろうか?
そのような議論もまた無駄である。
いのちは、ペテロなど特定の信仰深い者にかかっているものではない。
いのちの主イエス様が計っておられるものであるから。
ペテロはとにかく聖徒達に促されるまま行き、ひざまづいて祈った。結果、いのちを吹き返したのだ。
かつてアナニヤとサッピラ夫婦は、サタンに心を満たし、聖霊を試みたため、死への奇跡が起きた。
聖徒達への配当をしぶったその偽りの代金が、死への切符となったのだ。
それに対しタビタは、生前愛を持って聖徒達のために捧げ施したため、いのちへの奇跡が起きた。
やもめ達への愛情と憐れみの篭った記念の品々がペテロに示された時、それがいのちへの切符となったのである。
そして、彼女は蘇らされ、多くの人達を主へと立ち返らせる記念の証となった。
私達も日常生活において、アナニヤ夫婦のように、心をサタンに満たして死への積み立てをするのではなく、タビタのように、聖徒達を愛し、心遣い、いのちを得るための積み立てをしたい。
昨晩、宮城沖で大きな地震が起き、そのために女川原子力発電所の3つある電源系統のうち、2つが止まり、一つの電源だけで稼動しているとの事。(4/8朝5時現在)
私達はその現状に対しても、直るか直らないかは詮索せず、いのちの為に祈るべきである。
現在、多くの苦しみ悲しみがあるが、皆さんについては、どうかいのちのために執り成し、いのちの働き人として生きますように。
そしてペテロのように、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:面倒見られる者から面倒を見る者へ(使徒9:32-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
癒しのわざは、福音書や使徒の働きを見るとさほど珍しくない出来事のように思えるが、現代を生きる我々には、病の癒しは切実ではあっても滅多に起きない事のように思える。
アイネヤの癒しに限っては、それを見聞きしたこの地方の人達が主に立ち返る程に、インパクトのあるものだったようだ。
彼は中風で、8年間体が動かない状態だった。
中風とは半身不随などで体がマヒしてしまう、癒し方い病気である。
この病について聖書の他の箇所で思い出すのは、4人の人が一人の中風患者を担いでイエス様の所に連れて行った場面である。(マルコ2:1-12)
イエス様のいる所は人がいっぱいだったためそのまま連れて行けず、屋上に登って屋根を剥がし、イエス様の所に4隅を吊って降ろした場面だ。
そのマルコの場面と使徒の場面で共通している事は、そこにいた人々に大いなる驚きをもたらした事。
この病が癒され突然立ち上がるなどという事態は、正気を失うほど驚くべき事である。
もう一つの共通している事項として、癒されるときに「起きて寝床を担ぎなさい」という言葉も一緒にかけてもらった事である。
中風患者は体が動かないため人に世話になりっぱなしで、誰かに運んでもらわなくては移動もできない。
人の中には、霊的な中風患者もいる。
その人は肉体的には健常であっても、霊的な感覚や良心がマヒし、霊的に面倒を見られっぱなし、という状態である。
ペテロもイエス様も「自分で自分の寝床を運びなさい」と言ったのは、もはや自分で自分の面倒を見ることができるのだから、以前のように人から面倒を見られっぱなしという習慣から
脱出しなさい、という事である。
イエス様は癒す時に「あなたの諸々の罪は赦される」と言われた。
周りの人達は「神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」と思ったが、イエス様の場合は本当に人の罪を赦す権威があるお方である。
その事を示す為に、敢えて「起きて歩け」ではなく「あなたの諸々の罪は赦される」と言われたのである。
中風の癒しとは「このように、全き回復の他に「罪の赦し」も連想させるものである。
ペテロはこのように声かけた。
「アイネヤよ、イエスキリストがあなたを癒される。起き上がりなさい、そして自分で床を整えなさい。」
イエスキリストが癒される時、霊的にも肉的にも回復すると同時に、諸々の罪は赦される。
人に面倒を見られっぱなしだった人生から、自分の面倒を見れる人生となり、ついては中風の人をイエス様の元に運んでいく人生となるのだ。
アイネヤの身動き出来なかった8年の辛い記憶はたちまち主の栄光の記憶へと創り変えられ、それを見た者は主に立ち返るのである。
霊的にしろ肉的にしろ、中風にかかっている人がいればイエス様の元に連れて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:止まる事を知らず広がる福音(使徒9:19b-31):右クリックで保存
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サウロはアナニヤの手引きによって目からうろこのようなものが落ち、悔い改め、人生の方向性を180度転換した。
アナニヤがサウロを弟子達の所に連れて入った時、そこには大きな驚きと恐れがあっただろう。
なにしろ、あの有名な迫害者サウロがダマスコス入りしたと聞いただけで何人もの弟子達が震え上がった、あの噂の張本人が突然連れてこられ、入ってきたのだから。
しかしその驚きは喜びに変わり、主への感謝に変わったからこそ、その後数日間、弟子達との有益な交わりができたのであろう。
22節「サウロはますます力づけられ、イエスがキリストであることを論証し」
サウロは、あの光に打ちのめされた自身の体験よりも、聖書からイエスがキリストであることを論証した。
元々旧約聖書には、イエスがキリスト、すなわち救い主である事の根拠が、至る所にちりばめられているため、聖書に親しんできたサウロには論破する事は難しいことではなかった。
サウロはイエスの事を語る毎に、ますます力づけられていった。
それは御言葉を伝える者なら誰もが経験している所ではないだろうか。
イエスが神の子である事、罪を赦し永遠の命を与える主である事を伝えれば伝える程、力が湧いて来るものだ。
後になって思い返してみると、よくもあそこまで福音を伝えたものだ、と思う事もあるが、主ご自身が守って導いてくださった事も同時に分かるのである。
イエスが主である事を伝える者には御霊の助けがあり、霊が燃やされるため、人の目も危険も気にならなくなって来るのだ。
かなりの日数が経った後、サウロを殺そうとする陰謀が起こるが、主はそのような隠れた陰謀さえ分かるように取り計らってくださり、みすみす殺されるような事が無いように配慮された。
街の門を昼も夜も監視され、サウロは行き来できなくなってしまうが、弟子達は彼をかごに乗せて城壁伝いに吊り降ろし救い出した。
そして彼はエルサレムに着き、弟子達の仲間に入ろうとするのだが、やはり交わりに加わる事に難航する。
しかし「慰めの子」と呼ばれるバルナバが、サウロを執り成し、弟子達の交わりへ加える事に成功した。
31節「こうして教会は、エルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平和を保ち、主〔へ〕の恐れと聖霊の慰めにあって、その基礎が固まり、発展し、その数を増していった。」
いのちの危険がいつも隣り合わせなのに発展して行くとは、一見すると相反しているかのように見えるかもしれない。
しかし福音とは、人の罪が赦され、病や貧しさから解き放たれ、死の門をも打ち破るいのちの道であり、いのちの危険があっても、なおいのちで飲み込んで行くからである。
聖霊によって慰めを受け、いのちを増やしていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:目からうろこ(使徒9:10-19a):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。」(使徒9:18)
目からうろこということわざの起源は、聖書のこの箇所あらである。
他にも「笛吹けど踊らず」「豚に真珠」など聖書由来のことわざはあるが「目からうろこ」とはそれまで気付いていなかった意外な事、見えていなかった事が開け、その世界が広がる事である。
それまで目は見えていなかったサウロの目は見えるようになり、霊的な盲目状態もまた開けて真実が見えるようになった。
サウロはそれまで、神様に熱心だと自負して突っ走っていたが、実は盲目の状態でやみくもに走っていたのだ。
彼は主の弟子達を脅迫し殺そうという、間違った方向性で意気込んでいたため、主ご自身からの直接的な介入があったわけである。
古今東西、主の弟子達を迫害して燃えていた者は大勢おり、そのまま変わらず終わった人生もあれば、サウロのように変えられた人生もある。
変えられるには主の直接介入が必要な事もあるが、主からの促しに「応える」という、本人の側の決断と行動も必要である。
サウロは既に有名であったため、身に危険を招かないために、180度方向転換した事を隠してひっそり生活するという選択肢もあったかもしれない。
しかし彼は、主からの促しと与えられた召命に素直に答え、それまでの地位を捨てる道、命の危険を冒しても福音を伝える道を選んだ。
もし彼ほどの器の人物がひっそりと信徒生活を送る選択をしたら、主はきっと別の器を起こされた事だろう。
しかしそれなら、彼が新約聖書の大部分を書く事も、地中海世界を伝道して回り多くの魂を救う事も、朽ちるこのとの無い栄光の冠をいただく事も無かったであろう。
主からの促し、主の召命に応えるなら、大いに用いられ、朽ちない栄光をいただく事になるのだ。
アナニヤは使徒9章にしか出て来ないが、彼について分かる事は、彼はダマスコスに住み、主から特別な任務を頂いてそれに従順に従う良き聖徒だという事である。
彼は事前に、サウロという人物について詳しく知っており、サウロがダマスコスに来た理由も、どんな権威を祭司長から得ていたかも知っていた。
初代教会の情報網の細かさ、伝達の早さが伺える。
ダマスコスはガリラヤ湖の北にある町で異邦人が住み、ユダヤ人は比較的区別しやすく、故にキリスト者も比較的見つかりやすい状況だったと思われる。
キリスト者達は、あのサウロがそちらに向かったぞという事で多くは事前に逃げたと思われるが、それでもアナニヤはダマスコスに残っていた。
アナニヤには主から、サウロに手を置いて癒すという使命を託された。
もしサウロを知らない聖徒にこの使命が託されるなら、もっと楽な気持ちでサウロの所に行ったであろうが、主は敢えて、サウロを良く知っているアナニヤを召命した。
サウロは99.9999%改心は望めないキリスト者にとっての天敵だったかもしれないが、人の見方と主の見方は違うものである。
人の目からは不可能でも主には不可能は無く、改心するハズの無い者をも改心させ、主は栄光を表すのだ。
私達もアナニヤのように、目が見えず頑なな”うろこ”が付いている人の所に行って、うろこを取ってやるように遣わされる事がある。
アナニヤは相当嫌だっただろうし、私達も相当嫌だろう。
今から聖徒達を逮捕したり殺害してきた組織のアジトに行って、目が見えなくさせられているボスに手を置いて癒してやりなさい、と、主から言われるとしたら、私達も「あの人はちょと嫌です」と訴えたいものだ。
しかし、主は「行きなさい」と言われ、アナニヤはその言葉に従い、行って手を置いて癒した。
主に行けと言われるなら行くべきであり、主の言葉に従えば不可能は可能に、サウロはパウロに変わるのである。
主のなさろうとしている事はある時信じられないかもしれないし、私達にはとんでもない危険があるように見えるかもしれない。
しかし、主の促しに従うのであれば、大いなる祝福と恵みをいただくことが出来るのである。
サウロやアナニヤのように、主からの召命に忠実である皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。