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メッセージ - ローマ人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:裁いてはならない理由(ローマ14:1-12):右クリックで保存
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ローマ14章のテーマは、兄弟姉妹を裁いていはならない、である。
兄弟姉妹が自分の価値観とは違った事をしてたとしても、それの動機が「主のため」であれば、裁いたり侮ったりすべきではない。
しかし、兄弟姉妹を裁かなくてはならない時もある。
それは、例えば偶像礼拝や不品行など、主の忌み嫌われる事と知っていながら敢えてそれを為したり、戒めても改善しない場合である。(1コリント5:11-13)

兄弟姉妹の価値観は、各々の信仰によって、それぞれ違う。
「ある人は何を食べてもよいと信じているが、信仰の弱い人は野菜だけを食べている。」(2節)
当時、店に売っている肉は、偶像に備えられたかどうか分からない状況だったため、信仰の弱い人は、肉を食べなかったが、全てのものは感謝する事によって清められると知っている人は、良心の咎め無く感謝して食した。
また、ある人は或る日を主のために特別に守らなくてはならないと考えていたが、別の人はそうではないと考え、諸々の規定から自由にして下さった主にあって、日を守る事に囚われる事がなかった。

このように、それぞれ主にあって色々な価値観を持った兄弟姉妹達がいるが、他が自分と違うからと言って裁いてはならないし、また、信仰が弱いと言って侮ってもならない。
なぜなら、食べる人も食べない人も、ある日を守る人も守らない人も、主に対する信仰によって、そうしているからである。(6節)

もし、その人の主張にイエス様が不在だったり、御言葉や信仰の根拠無く「私は肉をたべない、だからあなたも肉をたべちゃダメ」と押し付けるだけなら、単に裁いているだけであって、彼の姿勢は正すべきである。
私達はイエス様のしもべとなったのであって、誰か人のしもべになったのではないのだ。

もう一つ、兄弟姉妹を裁いてはならない理由は、私達は皆いずれ神の裁きの座の前に立ち、自分のことについて神に申し述べる時が来るからだ。(10-12節)
私達は、兄弟姉妹を裁いている場合ではない。

信仰の弱い人を侮る事無く、また他人が自分と同じ事をしないからと言って裁くのでもなく、愛を持って兄弟姉妹に仕える皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:愛においては豊かに貸せ(ローマ13:8-14):右クリックで保存
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「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8節)
私達は規律ある生活をするためにも、また兄弟姉妹に負担をかけないためにも、与えられているものを、しっかり管理しなくてはならない。
例えば、家賃や光熱費が払えない事が続くようなら、自分の生活を改善するべきである。
しかし、「互いに愛し合うこと」についての貸し借りは別だ、とパウロは言っている。

愛し愛される事については、たっぷり借りがあっても問題無い。
愛は、どんな融資よりも優れた助けであり、それによって助けられた人は、愛において豊かな人となり、愛を流し出す人になるからだ。
そればかりでなく、愛はどんな戒めよりも重要で、人を愛する者は律法を全うしている、と言うのだ。

「どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」(9節)
パウロは他の箇所(ガラテヤ5:13-15)でも、全く同じ事を言っている。
兄弟姉妹と和解する事の方が、捧げ物をする事よりも、優先順位は高い、とイエス様も言っている。(マタイ5:24)
兄弟姉妹同士が互いにかみ合ったり、食い合ったり、といった事は、何も生み出さないどころか害毒しか残らず、サタンの思う壺であり、何より避けなくてはならない。(ガラテヤ5:15)

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(11節)
現代は夜が更け暗闇がますます深まっているような時勢であるが、それだけ光が近いという事である。
この暗闇の時こそ、私達の信仰が試される。

主人の帰りはまだだと言って酔っ払ったり、同じ僕仲間を打ち叩いたりしていると、主人は思いがけない時に帰ってくる。(ルカ12:41-48)
もし、そのような有様を主人に見られたら厳しく罰されるが、もしどんな時でも目を覚まし、忠実にしている所を主人に見られるなら、後に多くを任されるようになる。

今の世の中全体は、酒を飲んで空虚なとんちゃん騒ぎをし、迫っている絶望を忘れようとしているような有様である。
私達はそれらに巻き込まれるのではく、むしろ昼間らしい正しい生き方をしようではないか、とパウロは勧めている。(13節)

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(14節)

私達のからだは、肉の欲望を満足させるために在るのではなく、イエスキリストを着て昼間らしい生活をするよう、召されている。
この終わりの時代においてしっかりと目を覚まし、愛において豊かに貸し、一人でも多くの囚われている魂をキリストの元に救い出す皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:立てられた権威に従いなさい(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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キリスト者が社会生活を送る際、当然ながら、法を尊守し、上に立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は全て、一切の権威の頭なるキリストから来たものだからである。
「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」(4、6節)
という事は、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、おろそかにする者は、自分の身に裁きを招く事になる。

定められた法律に限らず、時間を守るとか、借りたものは返すといった、定めと言うには及ばないような、常識的な事も守るべきである。
なぜなら、もしそういった小さな事にさえ不忠実なら、どうして神の働きという大きな事を任されるだろうか。
「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7節)

もしかしたら、会社の上司がどうしようもなかったり、上に立つ者達が権威を正しく行使せず、明らかに悪い、といった場合があるかもしれない。
しかしパウロがこの手紙を書いた当時のローマ帝国も、現代に負けず劣らず、腐敗と汚職に満ちていた。
それでも彼は、敢えて、立てられた権威に従いなさい、と書いたのだ。

ダビデはどうしようもない上司であるサウル王に、直接仕返ししたり滅ぼしたりする事をせず、ただ裁きを神様に委ねたように、そのような時は自ら何かする事をせず、上に立てられた権威のために祈るだけである。
そうすれば、神がダビデとサウル王にしてくださったように、神の義が必ず成る。

では、もし神の御言葉に反逆するような法が制定されてしまった場合は、どうするか。
エジプトのパロが、イスラエルに男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てるようにという法律を定めた時、助産婦たちはそれに逆らって、主から与えられた命を守ったため祝福され、エジプトは衰退し、神の栄光が大いに輝いた。
また、ダニエルの友人達が、王の建てた偶像を拝まなければ死刑だ、という法に公然と背き、炎の燃え盛る炉に投げ込まれたが、全く害を受けず、逆に神の栄光が大いに輝いた。
このように、明らかに悪者が上に立つ時や、神の御言葉に反逆するような法が制定されたりする時でも、真の権威なる神様の定めた御言葉に踏みとどまるなら、かえって主が大いに栄光をお受けになるのである。

全ての権威の源はイエス様であり、そのイエス様に使えるつもりで権威に従い、平和と尊厳に満ちた人生を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:悪をたくらむ者への対処方法(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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私たちを攻撃したり、悪をたくらむ者への対処は、どのようにしたら良いのだろうか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(17節)

私達キリスト者は、平和のために召されたのだから、悪に染まるというのは、キリスト者らしからぬ事で(18節)、私達の心が、いつも平和で満たされている事が大切だ。
捧げものをしようとしている時、もし兄弟姉妹から恨みを買っている事を思い出したのなら、供え物はそこに置いて、和解するよう、主は勧めている。(マタイ5:23-26)
つまり、兄弟姉妹の諍いは、かなりの優先度で解決すべきである。

もし、悪い事をたくらむのが、兄弟姉妹ではなく、外部の人であるなら、マタイ5:39の対応を取れば良い。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
仕返しを自分でする事無く、左の頬を向ける事によって、神様にさばきを委ねる事になる。
ただし、それは「悪人に」対する対処であって、もし兄弟姉妹が訳も無く打つようであれば、御言葉に従って戒めるべきである。
外部の人を裁いてくださるのは主であるが、内部の人を裁くのは、私達であるのだから。(1コリント5:12)

私達は、唇の実を刈り取る。
もし相手が悪をたくらんだり、呪いの言葉を吐いたりする時、私たちも同じように悪をたくらんだり、のろいの言葉を吐いたりするというのは、実は損である。
私達に悪をたくらむ者を祝福するのは、二つのメリットがある。
一つは、燃える炭火を彼の頭に積むことになる事、もう一つは、もし相手が祝福に相応しくない者なら、その祝福は自分に帰ってくる事である。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(20,21節)

私達は祝福を受け継ぐために召された者達である。
唇を押さえて悪を言わない人は、いのちを愛し、幸いな日々を送る人であり、そして主は、そのような人たちの祈りに耳を傾け、悪事を働く者に対抗して下さる。(1ペテロ3:9-12)

悪に負けず、かえって善をもって悪に打ち勝ち、豊かな祝福を得る皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:愛によって一つとなる(ローマ12:9-16):右クリックで保存
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前回は御霊の賜物の現われについて学んだが、それら賜物よりも大切で優れているものは、愛である。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(9,10節)
ここで使われている愛は、アガペーの愛、すなわち自己を省みない、捧げつくす愛である。
兄弟姉妹の間で愛し合う事においては、取り繕う仮面や打算を入れてはならない。

また、ここの「偽り」には「仮面」や「芝居」の意味がある。
サスペンスドラマでは、外面を「仮面」で取り繕い、いかに高度に、かつ非情に騙しあうか、というような、おどろおどろしい展開を良く見る事が出来る。
ドラマでは悪役あるいは主人公が、善人そうな仮面をつけて騙し、出し抜きながら登りつめ、最後にはさらに上手な騙しテクニックを持った者に滅ぼされるが、仮面をつけて騙しだまされる者達の最後は、滅びである。

そして、人を自分より勝っていると思うよう勧められている理由は、各々の賜物は同じ御霊を源としているし、それが与えられたのは、同じ目的(キリストを立て上げる)の為だからである。
そして愛をもって主に仕える事の原動力は、喜びと希望であり、そして失望しないために、たゆまず祈る事である。(12節)

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14節)
なぜなら、私達は唇の結ぶ実によって刈り取りをする(箴言18:20)ものであり、もし呪いの言葉を唇に登らせるなら、かえって良くない結果を招くからだ。
敵のために祝福を祈るなら、相手の頭に炭火を置く事になる(ローマ12:12)ばかりでなく、自分の身に祝福を招くという、2重のメリットがある。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(15節)
聖徒が一人泣いているのに、周りが省みもせず喜んでいるというのは、望ましくない。
教会はキリストのからだで、一人ひとりは各器官だから、一部分が痛ければ全体が痛いし、からだの一部分が栄誉を受ければ、全体が喜ぶものである。

このように私達は、キリストにあって一つとなって、愛をもってキリストの体を建て上げてゆくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:与えられた恵みに応じて(ローマ12:3-8):右クリックで保存
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私達一人一人に与えられている賜物や、務め、働きには色々ある。
しかしその全ては、同じ御霊が源であり、その目的は、キリストの体を立て上げるためである。(1コリント12:4-6)
聖徒には、色々な国籍や立場などはあるものの、皆が一つの御霊を飲む者とされ(1コリ12:12-13)、そこには上下関係も優劣も無く、各々が与えられた計りに応じ、謙虚に福音の仕事を為す事が求められている。

今日の箇所では、御霊の現われは7種類出てくる。

その第一が預言(6節)であるが、預言とは、将来の事を予知するだけではなく、神様の思いや意思を、そのまま伝える者である。
「信仰に応じて預言し」ここの「応じて」は数学用語で「比例」の事である。
預言者に求められている事は、数学的正確さで、神から与えられた事は与えられた分量に比例してそのまま伝える事である。

また「奉仕」(7節)とはディアコニアというギリシア語で、ディアは「通る」、コニアとは「汚い」を意味する。
つまり、奉仕をする者とは、文字通りだと、率先して汚れの中にさえ入って、主の務めを為す者、という意味だ。
ちなみに、執事は「ディアコノス」で、この職は誰もがなれるようなものではなく、本当に御霊に促された者こそなれるのであり、そしてこの職は、預言の次に重要である。

「教える人」(7節後半)とは、御言葉に関する知識が与えられている者で、その知識を教える事により、人を救う奉仕者である。
「勧めをする人」(8節前半)は、信仰の弱い人たちに勧め励ます人であり、情操豊かな人に向いている。

また、物質的に恵まれているという事も、御霊の現われの一つであり「分け与える人」に求められている事は「惜しまずに」すなわち「単純」な考えで、分け与え、キリストの体の不足を助けるよう、勧められている。
また、「指導する人」とは、人の上に立って物事を処理する人で、この人に求められているのは、それを「熱心に」(元々の原語は「迅速に」「たゆまずに」)する事である。
そして「慈善を行う人」とは、憐れみの心を持つ人で、病んでいる人、悩んでいる人、罪に陥っている人を、憐れむ人である。
この人に求められているのは「喜んで」その憐れみのわざをする事である。

このように、御霊の現われは多くあるが、それぞれの賜物がぶつかって、反発するような事も、起こりうる。
例えば、パウロとバルナバは、マルコという一人の人物を巡って、激しく反目した事があった。(使徒15:36-41)
パウロは正しい事をはっきりと正確に伝える預言の賜物があり、バルナバは信仰の弱い者を憐れむ賜物があったが、それらが対立しあって反目し、二人は別行動を取って行ってしまった。
結局神様は、その反目さえ用いられたものの、彼らはとても痛い思いをして後、仲直りした。( http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=348

パウロがその痛い思いを通して出した結論が、3節である。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
与えられた賜物に従って忠実に働く事は確かに大事だが、思い上がって反目したり分裂したりすると、私達も、キリストご自身も、痛い思いをするのである。

私達はそれぞれ、一方的な恵みによって、それぞれが違う賜物が与えられた。
それらを、キリストを立て上げるという、一つの目的のために、思い上がる事無く、慎み深く、忠実に働く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:造りかえていただくには(ローマ12:1-2):右クリックで保存
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昨日までイスラエルの救いと神様のご計画だったが、12章より、クリスチャンの実践的な生活の勧めに入る。
まず真っ先に勧められている事は、自分の体を「神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして献げる事」(1節)で、それこそ霊的な礼拝だと言うのである。

礼拝は、一定の時間と場所で区切られる可視的な礼拝もあるが、霊的な礼拝は、そのように区切られるものではない。
むしろ、私達の霊と真理によって、全人格的に捧げるものである。

イエス様はサマリヤの女に言われた。
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)
神は霊であり、形を取られないお方だから、礼拝を人間の考えうる形に限定し、その中に束縛して満足してはならない。
霊的な礼拝とは、アブラハムがイサクをささげたように、私達をすべてにおいて、生きた供え物として、捧げ尽す事である。

では、そのような霊的な礼拝を捧げるにはどうすれば良いか?

2節の「この世と調子を合わせてはなりません」は、より原文に近く訳すと「この世と同じ姿形にさせられてはなりません」である。
つまり、私達はこの世の者として振舞うのではなく、天国人として自らを自覚するマインドセットから始まる。

「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(2節)
ここは、人の側の責任と、神の側の責任に分かれる。

まず人の側の責任は「心を新たに」する事。
「心」の原文「nous」は、「思い(理解の仕方、物事の考え方)」、すなわち物事の考え方の方向性の事である。
それまで自分向きだった「思い」を、キリスト向きに変える事が、思いを一新する、という事である。

そうすれば、神によって「(自分を)変えていただく」事ができる。
つまり、私達のからだを新たに造り変えるのは、自分の力や努力ではなく、神であり、私達はただ「思い」を地上向きから天国向きへと変える事が、求められている。
そうする事によって、神様が、私達のからだを、よりきよくして行って下さるのだ。

日々、思いを天に向け、神によって整えられ、ますます神に受け入れられる器とされて行く皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルを通した神の遠大なご計画(ローマ11:25-36):右クリックで保存
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イスラエルはイエスを十字架に突き刺したが、しかし先祖アブラハムのゆえに愛されている。(28節)
神は、全ての人を不真実としても、真実なお方である。
だから、人がいかに頑なに罪に留まり続けようとも、神の賜物と招きとは、決して取り消されない。(29節)

現在、イスラエルはパレスチナ周辺諸国に、人道的に酷い事をしており、イスラエルを担ごうとする国にとって重荷となり、周辺諸国はイスラエルを中心に混迷を深めている。
イスラエルは世界の重荷とされ、敵意の対象とされているが、実は、そうなる事はゼカリヤ書で既に預言されている。(ゼカリヤ12:1-3)
そしてやがて、イスラエルが突き刺したイエスを、彼らはメシヤとして受け入れて救いが成就し、その時彼らは、あたかも初子を失ってなくがごとく、激しく泣く。(ゼカリヤ12:10)
私達もかつては不従順であったけれど、イエスを信じて救われたように、イスラエルも今は不従順だけれど、やがて救われる日が来るのだ。

イスラエルといえど、私達といえど、共通しているのは、イエスこそメシヤであり、救い主である事である。
神はイスラエルを必ず救い、憐れまれ、イスラエルに救いが戻って来て、そして異邦人を含め全世界が救われる日が来る。

このように、神はイスラエルを通じて、全世界を救うための、遠大なご計画を、着々と進めておられるのだ。
今、イスラエルの一部が頑なにされているのは、異邦人の救いが完成される時までであり(25節)そして時至った時、その全ての救いは成就する。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(33節)
まさに、私達も、そう叫ばずにはおれない。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(36節)

礼拝説教メッセージ音声:恵みの故に接木された(ローマ11:17-24):右クリックで保存
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人は、野に生えている木の中から実を結ぶものを選んで栽培種とするが、同じように、神もまた実を結ぶ者を選んで栽培種とする。(ローマ11:17)
このローマ11章に登場する栽培種のオリーブとは、アブラハムを筆頭とするイスラエルの事である。
アブラハムも元々、偶像崇拝をする民の中から、神の一方的な選びによって、人類に救いをもたらす台木として選ばれた。

神はイスラエルを甘い実を結ばせるぶどうの木として待ち望んだが、実際には酸っぱい実しか結ばせず、それを嘆かれた。(イザヤ5章)
彼らが選ばれた目的は、神のために甘い実を結ばせるためであり、その実とは、信仰による実である。
イスラエルは、不信仰によって実を結ばせなかったため、折られてしまい、その折られた所に、我々異邦人という野生種の枝が継ぎ合わされた。(ローマ11:17-24)
そういうわけで、私達とイスラエルとは、台木と接木という密接な関係がある。

今日のこの箇所は、私達異邦人に向けて語られているが、それは、私達も高ぶらないように、という戒めである。
私達は信仰の内にとどまっているなら、いつくしみの内に豊かに実を結ぶ事が出来るが、留まっていないのなら、切り落とされてしまう。(22節)
また、いかに頑なさを続けているイスラエルといえども、不信仰を続けなければ、すぐにまた継ぎ合わされるのである。(23節)

私達は元々、救われるに値しない者であったにもかかわらず、神の特別な慈しみの故に、立っていられる、という事を忘れてはならない。
カナン人の女が、娘を悪霊から救って欲しいと、イエス様に願い出た時、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。(マタイ15:21-24)
私達は、イエス様が異邦人の救いのために来られた、と思いがちだが、その元々は、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていないのである。
このカナンの女は元々、イエス様から恵みをいただけないはずだったのに、何故に悪霊を追い出してもらえたのか?
それは、イエス様をダビデの子メシヤと信じ、あくまで彼を救い主として信仰を捨てなかった故である。

私達も元々、子犬のような存在で、食卓から落ちるパンくずをいただいているに過ぎない、という事を忘れてはならない。
日本で客商売をする時、お客様は神様のような立場で、店員は僕のような立場という傾向があり、中には、店員にクレームし放題のような客もいる。
私達は、おこぼれを頂いている子犬の分際で、ステーキが欲しいとか、フォアグラが欲しいとか言える立場ではなく、恵みのおこぼれを頂いている子犬、という立場を忘れてはならない。

「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(22節)

私達は、神の慈しみと憐れみを感謝して覚えつつ、信仰に留まり続け、豊かな実を結ぶ者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの救いのために祈れ(ローマ11:7-16):右クリックで保存
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イスラエルの人達が、メシヤであるイエスにつまずいたため、かえって救いが異邦人に及んだ。(11節)
彼らが頑なになった事によって、確かに救いは全世界に及んだが、しかし、神の願いはイスラエルがイエスをメシヤとして受け入れ、イスラエルの救いが完成される事である。

神はイスラエルがイエスにあって救いにあずかる事を、願っておられる。
救いを受け入れないイスラエルに対して、神が呻いておられる事は、ローマ9:1-12で学んだ通りである。( http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=557&cid=14 )
「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」(12節)

私達とイスラエルは、実は、大いに関係がある。
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(16節)
この「根」とはイスラエルの祖先アブラハムであり、本来、イスラエルが救いの枝葉を張っていくはずだったが、彼らは頑なになって、折られてしまい、その代わり、異邦人である私達がその救いの根に接木され、救われたのだ。

私達もイスラエルの救いのために祈る必要がある。
私達が救われたのは、彼らが頑なにされたからだが、神はイスラエルの完成を、うめきをもって願っておられるからだ。
「エルサレムの平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」(詩篇122:6,7)

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