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メッセージ - 1コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきの災いと、そこからの救い(1コリント10:10):右クリックで保存
韓国語通訳有

私達が気を付ける戒めの第4回目は、つぶやきについてです。
出エジプトの民がつぶやいた事によって滅ぼす者に滅ぼされた箇所が、民数記16:41-50にあります。
その時、一万四千七百人もの民が、つぶやいた事によって滅ぼす者に滅ぼされてしまいました。
つぶやきの結果、刈り取る実は、滅ぼす者に滅ぼされてしまう事です。

この時、共同体がつぶやいて言った言葉は「あなたたち(モーセとアロン)は主の民を殺してしまったではないか」ですが、果たしてその通りでしょうか。
ここで彼らが言っている「主の民」とは、コラと彼につく有力者250名です。

コラと250名の有力者達は、見た目もよく、あたかも民の民意をくみ取っているかのような、耳ざわりの良い言葉を言っておりました。
しかし、彼らがモーセに逆らって立った時、モーセ達こそ神様が認めた預言者だと知らしめるために、地面は口を開け、逆らった者達は、生きたまま陰府に落とされてしまったのです。
モーセとアロンに逆らった「主の民」が滅んだのは、誰が見ても明らかに神の手によるものであり、コラたちが悪くモーセたちが正しかったと明らかに示されたのです。

ところがその翌日、なんと翌日に、早速イスラエルの共同体全体はモーセとアロンに「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と言ってつぶやいたのです。
この民は、よほどモーセとアロンが上に立つのが気に食わないか、あるいはよほどコラ達に幻想を抱いていたようですね。
しかし、心頑なにしてつぶやく者に待っているのは、滅ぼすものによって滅ぼされてしまうという結果です。
神の立てた指導者に逆らう者が、いかに多くとも、また、いかに彼らが有名人で有力者然としていようとも、神の立てた権威に反逆すれば、必ず災いが下されてしまうのです。

私達が「つぶやき」から身を守る方法は、何でしょうか。
それは、くちびるを見張る、という事です。(箴言13:2-3)
ヤコブ書にも、自分の唇を制御できる者は、完全な者であると書いてあり、心のうちに何かあっても、自分の唇をしっかり見張って悪い言葉を唇に登らせない者は、命を救うのです。
しかし、どうしても自分の唇で言いたくて言いたくてつらい、ということもあるかもしれません。

詩編の39編において、ダビデは、自分の唇で罪を犯さないように、ことさら、悪者が自分の前にいる間は唇を閉ざそうと、努力した事を書いております。
しかしダビデは、悪口を抑えたばかりでなく、その人に言うべき「良い事」さえ黙っておりました。
そうすると彼の呻きは熱くなり、火が燃え上がるような感覚を覚えるようになりました。

そこでダビデは唇を開きますが、その唇を開いた相手は、人にではなく、主にでした。(4、7節冒頭)
唇を抑えていると苦しくなってくる事もありますが、そのような時は、主に何でも申し上げれば良いのです。

さて、唇でつぶやきを犯してしまい、滅ぼす者に追われるような状況になってしまった時、そこからの脱出の道は、何でしょうか。

先ほどの民数記の箇所を読みますと、この神罰が止んだのは、大祭司アロンの執り成しによってでした。
即ち、つぶやきによる災いからの脱出の道とは、大祭司のとりなしの内に入ることです。

執り成したアロンは、執り成されたイスラエルの民から、槍玉にあげられ、つぶやきの対象とされていた、にもかかわらず、また、もしかしたら自分も神罰に巻き込まれ死んでしまうかもしれないというリスクがあるにもかかわらず、アロンは執り成すために、走っていきました。
そうして神罰は止んだのです。

まことの大祭司イエス様は、人々から槍玉にあげられ、つぶやきを一身に受けたにもかかわらず、イエス様は自らの命を投げ出して、死と生との間に立って、私達のために執り成して下さいました。
もし、私達が神様に対して、あるいは、神の定められた預言者に対して、つぶやいたがゆえに、災いに遭うのであれば、大祭司イエスの所に行って、執り成していただくべきです。

つぶやくことのないように、唇をしっかりと見張り、有用なことばを語りだす唇として、平和に過ごす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:神を試みる(1コリント10:9):右クリックで保存
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今日は、主を試みる事についてです。
パウロは、コリントの人たちに主を試みてはならない事を教えるために、民数記における、主を試みた者は蛇によって滅ぼされた箇所を引用しております。
民数記の21章にそのことが記されています。

この箇所を読まれた時、試みた、というより、呟いた、ではないかと思われるかもしれません。
試みるといえば、むしろマサの箇所を思い起こされるかと思います。
マサという言葉は、そのまま試みるという意味で、出エジプト17章にあります。

その箇所では、民が「飲み物がない、今にも本当に死にそうだ」と言って、モーセと争いました。
それに対して主は、蛇を送るということはせずに、そのまま、民に必要な水を与えられました。
そこでその場所は、マサ、またはメリバと名付けられました。
それは、イスラエル人が試みた、つまり、マサをしたためであり、また、争った、即ち、メリバをしたからです。

主はなぜ、この時民を打つことはせず、そのまま水を与えたのでしょうか。
この、民数記の箇所と、出エジプト記の箇所では、民が言った言葉に、大きな違いがあります。
出エジプト記の箇所では、民が言ったのは、水がなく、今にも死にそうだ、ということです。
水は、確かに民に必要だと、神様は分かっておられました。

しかし、民数記21章5節では、民はこう言っています。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
彼らは水も、必要な食物であるマナも、与えられていながら、なおパンを要求して、水もあるのに無いと言って、身勝手な欲望を満足させるために、神様を試みたのです。
それで、神様は燃える蛇を送られたのです。

私達は、神様から頂いている恵みに満足するべです。
悪魔は誘惑してきます。
あなたは、あれもこれもあった方が、もっといいじゃないか、と。
悪魔がそのように、神を試みるように誘惑してきたとき、それを回避する方法は何でしょうか。
そのような誘惑を退ける手段は、御言葉です。

マタイの4章5節から7節を見ますと、悪魔はなんと御言葉まで引用して、神様に余計な奇跡をさせようとイエス様に仕向けます。
言っていることは一見もっともそうで、実際イエス様が飛び降りて、御使いによって支えられるのを見たら、人々はきっとイエス様を主と崇めるでしょう。

ところが、神様は、人々の身勝手な要求に答える義務は、負っておりません。
私達も、神殿から飛び降りてみれば、何か素晴らしいことが起こるのではないか、もっといいのではないかと、名誉欲が出てくるような所があるかもしれません。
しかし、そのような誘惑がきた時は、御言葉にこれこれとも書いてあると、御言葉で対決するのです。

この、民数記における荒野の民は、神様に身勝手な要求をして試みたため、燃える蛇が送られ、それによって、滅びを刈り取りました。
神を試みる者の報いは、燃える蛇によって噛みつかれる、という災いです。

燃える蛇とは、別訳では、激しい蛇とも言います。
このように、欲望にかられるものは、ますます激しい欲望にかられて、のたうちまわりながら、滅びゆくのです。
このような滅びの苦しみの中に入ってしまった場合、そこから救い出される方法は何でしょうか。

再び民数記21章7節から9節には、主の救いの方法が書かれてあります。
主は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と仰せられ、モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。
蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、救われました。

イエス様はニコデモに言いました。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネによる福音書3:14)

ニコデモはこの時、イエス様が何を言っているのか分かりませんでした。
しかし、十字架に掲げられたキリストを見た時、きっとニコデモは思い出したことでしょう。
荒削りの粗末な十字の木の上に、全身燃えるかのように血で赤く染まった裸のイエス様が、もだえ苦しむのを見て、荒野でモーセが掲げた、あの青銅の蛇を連想したことでしょう。

荒野の民は、旗竿にかかったこの青銅の蛇を見て救われたように、すべての人達はこの十字架につけられたキリストを仰ぎ見て、救われるのです。
サタンに噛まれて全ての人達に入ってしまった罪の毒を、この旗竿の上にかかった蛇、即ち、十字架にかかったキリストを仰ぎ見て、人は救われるのです。

私達は神を試みて、この燃える蛇に噛まれたような、苦しみを味わうようなことがあったとしても、十字架につけられたキリストを仰ぎ見れば、救われるのです。
神様から何かを得ようとして、神を試みるのであれば、このような滅びが待っているのですが、しかし、「わたしを試してみよ」と言っている箇所があります。
マラキ書の3章10節です。

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」

神様はどこまで許してくれるかと、罪に罪を重ね、悪い動機で神様を試すようなことをする者には、滅びが待っております。
しかし、神様は本当に真実で正しいお方なのだろうかと、御言葉に書かれてある事を、とりあえずでも試す時、神様は必ず御言葉に書かれてある祝福を、その人に注いでくださいます。

どうか、悪い意味で神様を試みることがないようにし、そして、御言葉の通りにしたら、どのような祝福が待っているのか、という試みは、どんどんしてください。
御言葉の通り実行して、ますます天の窓が開かれて、祝福される皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の罪と脱出方法(1コリント10:8):右クリックで保存
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姦淫とは、本来愛すべき夫あるいは妻がいるのに、別の男あるいは女へと走ってしまう行為です。
神様はよくイスラエルに、お前たちは姦淫の女だと言う箇所がありますが、それは、本来愛すべき夫たる神を捨てて、他の神に走るからであり、それは霊的には姦淫です。
さて、8節の、姦淫をした故に1日2万3千人死んだという記事は、民数記25章の記事です。この箇所を見て行きましょう。

イスラエルの人達の中に、モアブの娘達が入り込んで誘惑したのは、悪い預言者・バラムの仕業によるものです。
民数記24章までに、バラムがバラクに雇われてイスラエルを呪おうとしたものの、神がそれを許さなかった記述があります。

バラムはバラクからお金を受け取ったものの、結局、イスラエルを呪うことはできませんでした。
というのも、イスラエルが神様に従順している以上、イスラエルは神様に祝福されていて、呪いようが全く無いのです。
しかし、このバラムが蛇のようにさとい所は、イスラエルが神に不従順であればイスラエルは呪われる事を知っているため、モアブの娘達を送り込んでイスラエルを姦淫へと導き、このような災いを招いたわけです。
人というものは、外から力で攻めてくる敵にたいしては、立ち向かって抵抗することに難しさを覚えませんが、このように、一見美しく、か弱い女からの誘惑には、抵抗するのが困難なようです。

バラムはバラクに教えてイスラエルの人々に躓きの石を与えて、不品行を行わせました。(黙示録2:14)
結局の所バラムはイスラエルの民に剣で刺し殺されることになり、イスラエルへの罰は祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスの行動によって止みましたが、この神罰で死んだ者が2万4千人あったと9節にあります。
ちなみに、第一コリントでは「一日で」死んだ者の数が2万3千人とありますので、一日2万3千人が死に、後日死んだ者がもう1千人いた、という事でしょう。

姦淫の結果待っているのは、滅びです。
姦淫の誘いが向こうから来た時は、誘惑に勝てると思ってはなりません。
逃げるに限ります!
ヤコブの子ヨセフはそのような時、逃げて、姦淫をすることから逃れられました。
彼はその逃げられた女の讒言によって、一見、災いがふりかかったように見えますが、その事からも神様は導きによって救い出し、後にはエジプトとなる栄誉を与えて下さいました。

箴言5:1-4にあります通り、そのような女についていくと、最終的に行き着く先は、陰府です。
異国の女を大量に召抱えてしまったソロモンは、つくづく言っています。
あなたの道を彼女から遠ざけよ、その家の門に近づくな、と。
姦淫の誘いには逃げる、近づかない。これが、一番の事前防止策です。

さて、姦淫に陥ってしまい、災いが起きてしまった場合の、脱出の道は何でしょうか。
ホセア書にそのヒントがあります。

ホセア書では、ホセアは姦淫の女を妻としなさいと神様から語られ、ホセアはその通りにして、3人の子供を産んだのですが、それにもかかわらず、この女はホセアの元を去って行ってしまいました。
神がホセアに姦淫の女をめとりなさいと言った理由は、イスラエルのやっていることが、どんなにひどい姦淫であるかを、示すためでした。

神様の目から見れば、私達キリスト者は、キリストの花嫁です。
そんな私達も、まことの夫であるキリストを離れて、別のものを神として慕って行って、結果、ひどい目に遭ったり散々な目に遭ったりという事があるかもしれません。

この女は、ホセアに愛されていながら、別の男の所に走り、そして、どうなってしまったか。
ホセアは再び彼女を買ったと書かれてある事から、彼女は市場で売られる程、落ちぶれてしまったようです。
しかしホセアは、再び彼女を買い取り「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア3:3)と言ってくれます。
主はこれと同じ言葉を、私達にも言っておられます。

姦淫は、するべきものではないです。
そのような誘惑に陥りそうな時は、まず逃げるべきです。
もし陥ってしまって、ひどい目に遭ったり、災いに遭ったのであれば、真の夫であるキリストのもとに帰り、そこから離れないようにしましょう。
迷い出て姦淫したりすることなく、いつまでもこの、真の夫キリストに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:偶像崇拝(1コリント10:7-13):右クリックで保存
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出エジプトの記述は、今の私達への戒めです。
私達が気を付けるべきことが4つあります。偶像崇拝、姦淫、主を試みる事、呟く事です。
私達への試みに対しては、しっかりと脱出の道も備えられております。
いずれも大切な戒めですので、今日は偶像崇拝について、詳しくお話しします。
偶像崇拝については、出エジプト記の32章1節から6節に記されています。

1節で民が言っている言葉に注目してください。
まず、民達はエジプトから自分達を連れ出したのは、モーセだと言っており、神が連れ出したとは言っていないことに注目してください。

偶像崇拝の定義をご存じでしょうか、いわゆる仏像全般を拝むことだけが偶像崇拝ではありません。
偶像崇拝とは、真の神以外を第一とすることです。
神様よりも、自分、お金、あるいは旦那さん、会社などを優先して、信仰の対象としているなら、それは立派な偶像崇拝です。

民は、あのモーセがどうなったかは分からない、だから、神を作ってくれと言いました。
つまり、神は我々が作るもの、という認識があったようです。

おそらく、民衆がアロンのもとに押し寄せ、暴動が起こりそうだったので、アロンは民衆に従ったのでしょう。
アロンは、人々から耳輪を集め、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造りました。
鋳像というのは簡単に作ることができます。
アロンは急ごしらえの鋳像の子牛を、みんなの前にお披露目したとき、民衆は「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言いました。
この鋳像はかなりお粗末なものであったと思われますが、それでも民衆は満足したのです。

要は、目に見える信仰の対象さえあれば、なんでも神になるのです。
ここまで来たら民衆をコントロールすることは不可能でした。
アロンは「明日、主の祭りを行う」と、さらに民衆を満足させる方向へと、言葉を進めてしまいます。

一見彼らは、神の名を口にして、祭りを行っているようですが、それは、座って飲み食いし、立っては戯れる行為にすぎないのです。
大声を出していればいいというものではありません。
ヨシュアは遠くからそれを聞いて戦の声だと勘違いしたのですが、モーセは、それは、勝利の声でも敗北の声でもなく、歌を歌う声だと聞き分けます。
このように、人を恐れると罠にかかります。

人間というのは目に見えるものに、信仰の対象を置きやすいものです。
偶像崇拝をする者に定められているのは、滅びです。
この時、民は滅ぼされなかったのですが、それは、モーセのとりなしのおかげです。
モーセは神様の御言葉を盾にとって、執り成しました。

しかし、イスラエルの民は結局、この自分でまいた偶像崇拝の種を刈り取ることになります。
モーセは、偶像を焼いた灰を川に投げたため、民はその水を飲まなくてはなりませんでした。
民がほしいままに振る舞っていくのを留めもせず、秩序が乱れたまま放っておくと、敵の物笑いになってしまい、後には、兄弟が兄弟を、肉親が肉親を殺さなくてはならなくなってしまいます。
それは人の目には厳しく見えるかもしれないのですが、自分の中で悪が芽をだして、それが根をおろして、実を結んでしまうと、それを刈るのは非常に困難になってしまうのです。
そして、自分の感情よりも御言葉を優先させた人達が、後の祭司となりました。

この偶像崇拝からの脱出の道は、どうしたら良いでしょうか。

コロサイ書3章5節に、貪りがそのまま偶像崇拝であると書いてあり、貪りの元の意味は、より多くの物を持とうとする所有欲です。
偶像崇拝とは、神以外のものを信仰の対象とする行為でした。

つまり、真の神を第一とせず、お金や持ち物などのほうを信頼しているから、偶像崇拝なのです。
私達が、この貪りから解放される方法は、死です。

ローマの6章6節、7節に。「 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。」とあります。
死んだ、つまり過去形です。
イエス様を信じたものは、死んでしまったのです。
私達は、一見古い人に対して生きているようですが、キリストを信じた時点で、神の視点においては、死んでしまったのです。

では、全く生まれ変わっていないかのような自分があるのは、なぜかといいますと、それは信仰によって切り分けをしていないからなのです。
11節に、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と、あります。
ここで、考えなさい、とありますが、より忠実に訳しますと、仕訳をしなさい、ということです。
つまり、罪に対しては死に、神に対して生きているのだと、信仰によって仕訳がなされるべきです。

借金を返したからには、借金地獄の嫌な気持ちからは解放されて然るべきですが、古い借金地獄だった頃の、行動パターンや思いの恐れが焼きついてるために、借金を返した後も、借金地獄だった頃の夢を見るようなものなのです。
もはや全て借金を返した、罪に対しては死んだと、皆さんの中で仕訳をしてください。

12節に、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とあります。
ここで、罪の支配に委ねるか、真の神に従うかの決定権は、誰にあるのでしょうか。
明らかに皆さんの側にあります。

どうか、皆さんの意志をもって罪の体に支配を委ねず、御霊に委ねる皆さんでありますように。
そして偶像礼拝ではなく、真の神を礼拝する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の恵み(1コリント10:1-6):右クリックで保存
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今日の箇所は、第一コリント10章1節から6節です。

第一コリント10章のキーワードは、偶像礼拝に気を付けなさいということです。
パウロはまず、彼らの先祖、モーセと共にエジプトから出た民の話をします。

モーセと共に歩んだ荒野の民は、キリスト者とよく似ているところがあります。
彼らは、エジプトにおいて奴隷状態でした。そこから、モーセによって引き出され、荒野を通り、約束の地へと至ります。
エジプトとは、この世を表しており、彼らはその時、奴隷状態でした。
そして我々も以前はこの世において、奴隷状態であり、そこからイエス様によって召し出されて、この世から引き出されました。

引き出されるとき、まず通るのが雲と海、即ち水のバプテスマです。
3節、4節に「 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」とあります。
これは、後の聖餐を意味しているのですが、荒野の民はこのように、超自然的な方法によって、日々養われることになりました。

皆さんもこの人生という荒野を旅するときに、今に至るまで生き延びてきたのは、間違いなく神様の憐みだったのではないでしょうか。
人生において、もう先が見えないかのような危機の時も、しっかりと主が養いを与え、助けを与えておられた事かと思います。
荒野の民は、マナを食べたのですが、皆さんは日々、御霊の食べ物として、御言葉を頂いております。
御言葉は朝ごとに新しく、日々の養いを与えてくださいます。

また、4節を見ますと、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」このようにある通り、彼らに岩がついてきて、その岩こそキリストだというのです。
このように日々、私たちも、御言葉と、真の飲み物であり、命の水の源であるキリストによって、荒野でいつでも死にそうであるかのような状況においても、養われています。

出エジプトの民は、神様からの養いを頂いていたにもかかわらず、大部分が滅ぼされてしまいました。
それらの事が起こったのは、私たちへの戒めのためなのです。
荒野の民が滅びたのを見て、私たちと関係ないと思ってはなりません。
彼らがマナと岩からの水を侮ったら滅ぼされたように、私たちも、御言葉の養いとキリストを侮るなら、このように滅ぼされてしまうのです。

イスラエル人に加わっていた雑多な他国人が、飢えと渇きを訴え、彼らにつられて、イスラエル人もつぶやいたのです。
彼らがどのように貪ったかは、民数記の11章に記されています。

彼らはエジプトから脱出してきたにもかかわらず、エジプトを再び懐かしんで、マナを軽んじてしまいました。
キリスト者もこのように、巧妙に混じりこんでくる者に対しては、気をつけなくてはなりません。
彼らがつぶやいても、私たちがそれに倣ってつぶやくことが、ないようにするべきです。

神様は恵み深いお方で、すぐに滅ぼすことをせず、まず、モーセに重荷が負わされ過ぎないようにされました。
神様は、イスラエルの長老70人に、モーセに授けた霊の一部を取って、彼らに授けるというのです。
私たち一人に重荷が負わされないように、主は重荷を分担させてくださいました。

そして、うずらを与えて、民の不満を解消しました。
しかし彼らは、肉が歯の間にあるうちに、激しい疫病によって死にました。
このように、御言葉や、真の命の泉であるキリストを、ないがしろにする者は、肉を口の中に入れはするのですが、それは自分のものとなる前に、このように打たれてしまうのです。

そのことが起きた、キブロト・ハタアワという地名は、貪欲の墓という意味です。
私たちの中でも、欲望にかられて貪る者は、荒野に埋められ、そして主の民は彼らを置いて前進して行ってしまいます。
この出エジプトの記述は、私たちに対する戒めです。
戒めとしてこう書いてある以上、私たちもこの戒めに真剣になって取り組んで、主をないがしろにしないようにするべきです。

御霊の食べ物である御言葉を、しっかりといただいて、また、命の水の泉であるキリストから飲んで、祝福を受ける皆さんでありますように。
そして、いまもし試練の荒野を通っておられるなら、これらの霊的な食べ物によって養われ、約束の土地へと至る皆さんでありますように。

イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

 

 


 

礼拝説教メッセージ音声:義の栄冠をめざして(1コリント9:24-27):右クリックで保存
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競技場で走るもの、競技をする者にキリスト者がたとえられていますが、当時もオリンピックのようなものが、2年に1度、コリントの郊外で開催されておりました。
パウロも信仰者を、よく競技者にたとえて話しております。
スポーツ競技というものは非常に単純明快で、賞を受けるのは一番高い数字を出した者です。

優れた能力を発揮する者が参加するものの、その競技者は当然、自由が与えられていて、その競技について練習する自由も、しない自由もあります。

キリスト者には、全てのことが許されてる自由はあります、しかしすべてのことが益であるとは限らないのです。

競技する日が、何月何日と決まっているのに、自分の好き勝手に飲み食いして、練習も怠る自由もあるのですが、そんなことをしている者が競技で賞をもらえるわけがありません。
競技をする者は、あらゆることについて自制します。
自分のベストを尽くしますし、なおかつ、自分自身のコンディションを最善に保つように、自ら管理します。

みんなで手をつないで、同時にゴールしてみんながそれぞれ一等賞だということは、来たる世においてはありえないことです。
そんな幻想を抱いて日々不摂生している者は当然、賞を受けるべきではありません。
また、競技をするとき、ルールに従って競技をしなければ、栄冠を得ることはできません。
自分流を押し通そうとすれば、退場させられます。
サッカーでゴールにボールを入れると得点をもらえるからといって、ボールを手でつかんで、ラグビーのように走っていくような者は退場させられてしまいます。

ただ主よ、主よ、と言うものが、天の御国に入れるものではないということが、マタイ7章に書いてあります。
大勢の人が主よ、主よ、あなたの御名を使って、預言をし、しるしを成したではありませんか、と言う者は大勢いるのですが、しかし、その日主は、私はあなた方を全然知らない、不法を成すもの、出ていけ、と言われます。
不法を成すものというのは、法に則らない者という事です。
主が与えてくださっているルールがあります。御心を行うということです。
自分に則るのではなく、イエス・キリストに則る者だけが、その賞を得ることができるようになるのです。

26節に、
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とあります。
決勝点がどこか分からない、それほど無駄な走りはありません。
私たちは何を目指して走るべきでしょうか。
私たちが目指すゴールはイエスです。信仰の創始者また、完成者なるイエスを目指して私たちは重荷と、まとわりつく罪とを捨てて、走るべきです。

また、皆さんはローマの8章28節には、何が書いてあるかきっとご存じかと思います。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この御言葉を、そらんじることができる人はたくさんいます。
しかし、その次の節をそらんじる事が出来る人は、少なくなってしまいます。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」

神が全てのことを働かせて、万事益としてくださるのは、この29節にかかってきます。
キリスト者にとって益というのはどのようなことでしょうか。
今は苦しいけれど、後で思い通りになるとか、後で楽ができる、とかいったように、28節を受け取っていなかったでしょうか。
肝心なのは29節です。御子の姿に似たものとするために、神様は全てのことを働かせてくださるわけです。
つまり、自分にとっての益ではなく、キリストにとっての益ということですので、皆さんの望み通りでないという可能性も大いにありえます。
むしろ、みなさんの内にキリストが形作られるまで、大いに苦しむ可能性もあります。
ですから、私たちは決勝点を見誤ってはなりません。

ゴールというのは皆さん自身が望むあの自分、この自分ではなく、ゴールというのはキリストであって、私たちがますますキリストが形作られること、それがゴールに近づくということです。
私たちは、空を打つような拳闘を、してはいけません。
打つべきは空中ではなく、自分の体を打ちたたいて従わせるべきです。

どうも私たちは、空中を打ちたたいて、満足しているようなことが多いかもしれません。
例えば、祈りの中で、あの人が癒されますようにとか、教会がますます発展しますように、という祈りをしますが、わたしのこの罪あの罪を許してください、という悔い改めの祈りを全くしない者は、空を打つような者です。

神様が義と認めた祈りは、私は十分の一を捧げてますとか、自分が隣にいる取税人のようでない事を感謝します、といった祈りではなく、自分の胸を打ちたたいて、こんな罪人の私をお許しくださいと、言った取税人の祈りのほうを、神様は受け入れられました。

空を打つような拳闘をするのではなく、むしろ自分を打ちたたいて、決して朽ちることのない冠を受けるために、そのようにするべきです。
競技をする者は、朽ちる冠を得るために競技するのですが、しかし、私たちには朽ちない冠が待っています。
その称賛は、単にテレビで30分ほど放映されるようなものではなく、主から永遠に頂き続ける栄誉です。

あらゆることに自制し、そして自らを打ちたたいて義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
 


 

礼拝説教メッセージ音声:本当の自由(1コリント9:19-23):右クリックで保存
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キリストを伝える者達が報酬を受け取る権利を、パウロも持っていたのですが、彼はその権利を行使しませんでした。
今日の箇所は、そのキリスト者が持っている自由についてです。
パウロ自身は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。

自由であるはずのキリスト者が奴隷になる、とは、どういうことでしょうか、それは、世に対しては自由ですが、キリストには奴隷となることです。

ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のようになる。
一見、人に縛られてるようですが、それはユダヤ人を獲得するために、あえて、自らを束縛のもとに置いていくのです。

パウロ自身は、キリストを信じる信仰の故に、律法から自由とされた者になっていると自覚していたのですが、しかし、ユダヤ人を一人でも多く獲得するために、例えばテモテに割礼を施したり、あるいはユダヤ人達に躓きを与えないために、ユダヤ人の祭りをしっかりと守り行いました。
こんな祭りに意味がないと思いながら、しぶしぶ行っていたのでしょうか。
そうではなく、このユダヤ人の幾人かでも、キリストへ導くために、という心持があれば、それは苦痛でも束縛でもなかったはずです。

さて、律法を持たない人々に対しては、パウロもあたかも、律法を持たない者のようになりました。
例えば、パウロは幾度も、異邦人達と食事を共にしたのですが、もし、パウロが異邦人と食卓を共にするのは、律法にかなわないと言って、食事を共にしなければ、異邦人を一人も獲得できなかったでしょう。
異邦人と食事を共にしたからには、律法で禁じられている食物、例えば豚やイカなども出されたことでしょう。
律法に厳格に育てられた、パリサイ派のパウロのようなバックグラウンドを持つ人にとっては、最初にそのような物を食べるのは嫌だったと思いますし、屈辱的だったかもしれませんが、彼はそれを、異邦人と一緒に食べたのです。
それは、一人でも律法の下にない者を獲得するためです。

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
「もし肉を食べることが信仰の弱い人たちの躓きになるのであれば、私は今後一切肉を食べません。」と、パウロはかつて言っており、神は唯一で、偶像の神々というものは存在しない、ということをパウロは知っていたのです。
そのような行動が、信仰の弱い人々の躓きになるのであれば、そういった物は食べない、ということを彼は選択したのです。

このように、キリスト者というのは全てのことを許されているのですが、しかし、全てのことが益ではありません。
もし私は肉が好き、ということで、肉を食べれば躓くような人の前で、肉を食べるようであれば、自分のプライド、自分の自我の奴隷だということです。
そうしてパウロは23節、「私は全ての事を福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなるためだ。」と言っております。

ある人の前では肉を食べ、他の人の前では食べないというのは、カメレオンのように、自分のアイデンティティーを持っていない者と思われる方もいるでしょうか。
そもそも、人の前で態度をコロコロを変える根本的な原因は、人目を気にしたり、人に嫌われたくないという、思いからであります。

対して、パウロがしている事の動機は、全ての人を獲得するため、福音のためであり、決して人目を気にするとかいった動機ではないのです。
いわゆるカメレオンとは、自分の名声を救うためにそうするのに対して、パウロは他人の永遠の命を救うために、そうしているのです。
パウロは律法の下にあるのではなく、むしろキリストイエスにある自由の律法の下にあるものです。

ガラテア2章の11節から16節までを読みますと、年上の先輩のケパに対しても公然と叱るほど、芯のしっかりした人でした。
そのパウロが異邦人の前では、異邦人のように振る舞い、ユダヤ人の前ではユダヤ人として振る舞うような自由は、いったいどれほどの自由だったでしょうか。
この自由は、人目を気にしていては、決して得ることのできないものです。
パウロの人間的な誇りは、キリストにあって、もはや捨て去っており、彼のアイデンティティーは自分にではなく、もはや天にありました。

どうか、パウロのように、人目を気にするのではなく、御国を気にする者として、真に自由なものとなる皆さんでありますように。
そして、一人でも多くの魂を救う皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

 

礼拝説教メッセージ音声:天に富を積む:(1コリント9:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

コリント9章を見ると、コリント人のある者達は、教会設立の大きな功労者であるパウロに向かって、言葉使いが弱々しく、なっていないと批評したり、使徒として認めなかったり、また、彼自ら世の仕事をして、生活費や伝道のための資金を稼いでいるというのに、彼を物質・経済の面で援助する、という発想すら沸かなかったようである事を、垣間見る事が出来ます。
コリントの人達は、パウロに福音のための報酬は与えなかったのですが、しかし12節を見ると、どうやらコリントの人達は、他のいわゆる「働き人たち」には、報酬を与えたようです。
しかしその「働き人たち」は、どうもコリントの人達に良くない影響を与えていったようです。

第二コリントの11:18-23節を開きますと、その「彼ら」というのは、肉的なことによって誇り、コリントの人達を奴隷にし、食い尽くし、騙し、威張り放題されている、にもかかわらず、コリントの人たちはそれをこらえていたようです。
また彼らは、ヘブル人であって、アブラハムの子孫だったようです。
そして、その彼らというのは、パウロより、遥かに苦労をしていなければ、迫害も受けていないようでした。
コリントの人達は、そのような人たちに報酬を支払っているというのに、彼らを心遣い、愛し、日夜祈っているあのパウロに、そう、コリント教会設立の張本人であり、最も尽力した、あのパウロに対し、そのように、恩知らずな事をしていたのです。

皆さんにも、日夜祈りに覚えられて祈っている牧者や兄弟姉妹、家族はいるでしょうか。
そのような兄弟姉妹を身勝手に陰口を言ったり、福音の為に実際骨折っているのに、物質的・経済的援助を惜しんではいないでしょうか。
私達は決して、そのような恩知らずになってはなりません。

福音を述べ伝える者がその福音によって生活の基を、支えを得るということは、それは旧約聖書からも明らかなことです。
13節には、神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれる事が書かれてありますし、14節 にも、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されたと書かれてあります。

その通りなのですけれど、しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて用いませんでした。
私たちが見ればパウロこそ、コリントの人達から真っ先にもてなしを頂いて然るべきと思うのですが、パウロが敢えてそうしなかったのは、16節「そうせずにはいられないことだからです。」
もしコリントに福音を述べ伝えなかったなら、私はわざわいだ、とパウロは示されていたからです。
つまり彼からすれば、そうせずにはいられずに行ったのですが、他の人から見たら、もしかしたら彼は気違いのように思われたかもしれません。

そんなパウロに、報いはあるのでしょうか。
彼は、自らの受けた報いは「福音を述べ伝えるときに、報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ、自分の権利を十分に用いないこと」だと言っています。
なんと、これが「報い」だというのです。
しかし実は、それは人には計り知れない報いなのです。
一体、それの、何処が「報い」になるのでしょうか。

マタイ福音書の6章では、偽善者のように人前で善行をしたり、祈ったり、断食したりしないよう、主が命じています。
人に見てもらおうという動機で、それらをする時、彼らは既に、報いを受けているのです。
もし、人目を求めてではなく、主を慕ってそれらの事をするのであれば、隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださるからです。
つまり、福音の働きや祈り、善行などは、人に見られる目的で為し、人から賞賛を受けてしまった時点で、天からはもう何も受け取れないというのです。
私達が神の国の働きをするのであれば、この世の富や名誉といった、そういったことは期待するべきではないのです。

むしろ私達は、盗人やしみ、さびが決して入り込めない、天に、宝を蓄える事に専念すべきです。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。  富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

もし皆さんの宝が、人々からの賞賛であるならば、それは廃れてしまいます。
皆さんの宝が、お金であるならば、それはいずれ無くなります。
もし皆さんの宝がそういった世に属する事にあるのであれば、それが少しでも傷つくと、怒ったり、気がきでなかったり、あるいは、人を傷つけたり、あらぬ噂を流したりと、罪を犯してしまうことさえあります。
皆さんが宝を蓄えるべきは、パウロのように、天に積み上げるべきです。

朽ちない宝を天にいっぱい積み上げて、そして、かの日には天の父なる神様から豊かな富をいただける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:霊的な恩に報いる:(1コリント9:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

コリントの人たちの中には、パウロが使徒であるかないかということをさえ、疑問に思っている者達もおりました。
アポロはとても雄弁な人でした、また、ケパ、すなわちペテロも、主イエス様と共に行動した者で、威厳がありました。
それに対して、「パウロは話し方がなっていない」、などとコリントの人たちが非難しているのです。

「私を批判する人たちには、こう弁明します」と言っているとおり、批判する人がいたわけです。
その疑う者に対して、パウロは言っております。
「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。
あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と。
パウロは、自ら働きながら福音を伝えていたのですが、そんなパウロに、食物やお金を提供するといった考えすら、コリントの人たちにはなかったようです。

パウロは、コリントの人達のため夜昼となく祈り、苦悩し、この霊的に幼稚な聖徒たちのために多大な苦労をしてきました。
そのように霊的に豊かな養いを頂いていたコリントの人たちの中には、パウロに対して、「働きもせず伝道ばかりしているではないか」といった難癖をつける者がいたようです。
ケパは、信者である妻を連れて伝道して、旅費は妻の分も支給されていたようです。
しかし、パウロとバルナバは結婚もせず、ただ主の働きに打ち込んでおりました。
そればかりか、コリントの人達に対して、一人でも躓きを与えまいと、自ら働いて、そのお金で日々の食費や、伝道に必要なお金も出していました。
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
神様は、牛のことを気にかけておられるだけではなく、私たち人間のためにも、働き人に対してその報酬を得るのは当然であると言っておられるわけです。

パウロはそのように、非常にやんわりと諭しております。
ただ、分かることは、コリントの人たちは非常に霊的恩知らずだという事です。
パウロは散散な目に遭いつつも、コリントにたどり着き、コリントの地で汗水流し、血も流して伝道し続けてきました。
そのコリントの人たちは、パウロを批判する事に始終して、その恩に関しては全く忘れています。

恩知らずといえば、ダビデに良くしてもらったにもかかわらず、その恩を仇で返したナバルを思い出します。(第一サムエル25章)
ダビデは、サウル王から逃亡中であるにもかかわらず、ナバルの羊飼いを助けたり、守ったりしていました。
しかし、ダビデがパンや水が必要になったとき、彼のところに使いを送っても、ナバルは「ダビデとは何者だとか、エッサイの子とは何者だ」とすげなく返事をしました。
ダビデはそれを聞いて、若者たちに剣を帯びさせて、そこを襲いに向かいました。

しかし、その途中、ナバルの賢い妻アビガイルの説得によって、ナバルはダビデに殺されずに済み、またダビデ自身もむやみに血を流す罪から救われ、そして、ダビデはパンと水を得て、お互い別れました。
しかし、その恩知らずのナバルが、アビガイルとずっと一緒に生きたわけではなかったのです。
ナバルは、アビガイルがダビデにしたことを聞いて、石のように硬くなり、10日後に死んだのです。
そして、ナバルの財産も、アビガイルも、みんなダビデのものになったのです。
このように、恩を知らない者が、いかに自分の財産をケチったとしても、それは主に従う者に財産を渡すことになるのです。

私たちは、霊的な恩知らずに、なってはなりません。
特に、日々皆さんのために労したり、祈ったりといった、霊的な養いをしている方に対しては、しっかりと恩を成すべきです。
ナバルは、ダビデから物質的な援助を得ていたにもかかわらず、恩を返すことを惜しんで、その結果、このような有様になったわけです。
ましてや、霊的な恩恵を受けていながら、その恩を忘れるとしたら、どのような事が待っているでしょうか。

もし誰かから恩恵を受けているのでしたら、それが霊的であるか物質的であるかにかかわらず、しっかりと恩を返すようにしましょう。
そのような皆さんでありますように。

イエス様の御名前によって祝福いたします。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:愛は人を造り上げる(1コリント8章1節から13節まで):右クリックで保存
韓国語通訳有

今日は、第一コリントの8章、偶像に捧げた肉についての質問に対するパウロの回答です。

コリントの町には、アフロディテ神殿という非常に大きな偶像の宮があり、そこで何らかの儀式によって捧げられた肉が出回っておりました。
私達キリスト者が知っていることは、世に神々と呼ばれるものがあったとしても、神は唯一であり、主は唯一キリスト・イエスだけです。
偶像というものは神ではなく、意匠が作った物体にすぎません。
ですから、偶像に捧げたその肉についても、食べなくても損にはならないし、食べても益にならないと、パウロは8節で言っております。

以上の知識がある人は、その肉を食べる事に対して何か良心が穢れるといったことはないでしょう。
パウロがここで論じているのは、偶像に捧げた肉そのものが穢れているのかどうかではなく、むしろ、他の兄弟姉妹につまづきを与えていないか、ということです。

1節に、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる、とあります。
私たちも、あのことを知っている、このことを知っているということで、他の兄弟姉妹に何の心遣いなしに行うことが、他の兄弟姉妹のつまづきになっていないか、注意するべきです。
「私には知識がある」と高ぶっている者は、実は、知らなくてはならないことさえ、知っていないのです。
知らなくてはならないこととは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」ということです。

愛は人を造り上げますが、知識は人を造り上げるとは限りません。
パウロは、もしあなたの知識によって、その弱い人を滅びに導くのであれば、あなたは罪を犯していることになるのだ、と言っております。
キリストは、その弱い兄弟のためにも、死んで下さったため、その兄弟たちの弱い良心を傷つけ、躓かせる事は、キリストに対して罪を犯す事なのです。
私達は以下のパウロの態度を見習うべきです。
「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(13節)

知識は人を高ぶらせますが、愛は人を造りあげます。
たとえ、世界の全ての神秘に通じる知識を持っていたとしても、愛がなければ、それはなんの益にも徳にもなりません。
私達が何を基準に行動すべきか。それは、愛を基準に行動するべきです。
いかに人の徳を高めるか、いかに人を清い方向へ導くか、そのような基準であれば、何を言うべきであり、また、何を言わぬべきかも、分かってきます。
「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」、と3節にあります。
私達が愛を基準に行動するのであれば、神に知られた者として扱ってくれるのです。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様はおっしゃいました。(ヨハネ13:35)
たとえ私達があらゆる災いから守られていても、もし高ぶっているのであれば、世の人達は、こんな交わりには加わりたくないと思います。
しかし、私達が知識や力とかではなく、愛を基準にして行動するのであれば、世の人たちは心を開くのです。
世の中の人が、あの人はクリスチャンだ、と、評価するのは、知識に通じているという事や、不思議なことをする、ということよりも、愛に満ちた人だ、という事を見る時ではないでしょうか。
世の人がキリスト者を、さすが神様から愛された人だ、さすがそのような人は違うな、と評価するとき、その人は神様に栄光を捧げているのです。

どうか、知識によるのではなく、力によるのでもなく、愛を基準に行動する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
 

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