メッセージ - マルコによる福音書カテゴリのエントリ
最も偉い者(マルコ9:30-37) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-21 6:16
最も偉い者(マルコ9:30-37) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
イエスは、万人の筆頭者になりたい者は、万人の最後になれと言われ、心を入れ替えて、子供のようにならなければ天の御国に入れないとまで言われた。
子供には、自分は誰々より偉い・劣っているという意識が無く、そうした意識がある者は、先ずそれを十字架につけるべきであり、「私が」ではなく「イエス様が」主人公になる者こそ天の御国に入る事が出来、「自分」が小さい者ほど偉大、というのが、天における価値観である。
主イエスが怒る程嫌いな事(マルコ9:14-29) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 執筆 :
- pastor 2010-10-20 6:40
礼拝メッセージ音声: 主イエスが怒る程嫌いな事(マルコ9:14-29) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
今日の箇所からは、イエスは「信仰が無い事」をとても嫌われる事が分かる。
信仰が無ければ主は御技を為す事ができない。信仰とは、人の神に対する信頼と、神の人に対する応答という、双方向の関係である。
信仰が無く人を癒す事ができない場合、その人をイエスの元にお連れすれば良いのだが、本来、人にはからしだねほどの信仰があれば、できない事は何もない、というのがイエスの言葉である。
本人も気付いていない召し(マルコ9:9-13) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-10-19 6:18
礼拝メッセージ音声: 本人も気付いていない召し(マルコ9:9-13) 한국어예배 礼拝メッセージ音声
変貌山での出来事の後、弟子達はエリヤについて尋ね、イエスはエリヤは既に来て、そして人々は彼に好き勝手な事をした、と示し、弟子達はバプテスマのヨハネの事を言っているのだと気付いた。
当のバプテスマのヨハネはエリヤとしての役割に気付かず、自分はエリヤではないと告白した。
私達の召しは、人の評価でも自分の意識でもなく、イエス様から任命されるものであり、それを正確に認識し、自覚し、その召しによって歩むべきである。
主からの召しに応じ、預言者として受け入れる者には預言者の受ける報いを、義人として受け入れる者は、義人の受ける報いを得られる。
モーセでもなくエリヤでもなく(マルコ9:2-8) 한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-10-11 6:21
礼拝メッセージ音声: モーセでもなくエリヤでもなく(マルコ9:2-8) 한국어예배
ペテロは、自分達の師であるイエスがモーセやエリヤと話している様を「素晴らしい」とし、記念の幕屋を建てようと言ったが、天からの声は「わたしの愛する子に聞け」だった。
モーセもエリヤも水を分けて渡ったが、イエス様は私達の越える事のできない、死の川の中を通って復活の領域へと渡った。
私達はイエス様を信じる事によって、私達も主の中に入り、死の向こう側へと渡ることができるのだ。
私達が求めるべきは、素晴らしい体験や素晴らしい先生ではなく、御子イエス様だけである。
イエス様は、私達の罪にまみれた衣を、世のさらし職人では決してできないほどに白く清め、栄光の光をはなたたせて下さる事がおできになる。
モーセもエリヤも用事を済ませたらすぐいなくなったが、イエス様は決していなくならず、いつも共にいて下さる。
私達はモーセやエリヤでもなく、イエス様に聞くべきであり、用事を済ませたらすぐにいなくなるべきである。
礼拝メッセージ音声: 失う者は得る(マルコ8:34-9:1) 한국어예배
「自分を捨てなさい」「自分の命を救いたいと思う者は失い、わたしのためまた福音のために命を失う者はそれを救う」これらの言葉は、福音や教会のため滅私奉公せよと解釈されがちだが、そうではない。
この箇所に出てくる「命」は全て原語ではプシュケー(心理作用)、それを捨てるというのは、
すなわち、自分の判断・選択・感情よりも、キリストなる御言葉を優先させよ、という事である。
主にあって自分の判断・選択・感情を捨てる時、絶対できないと思っていた事は主にあってできるようになり、どうしても得られなかった物もキリストにあって豊かに得ることができるようになるのである。
礼拝メッセージ音声: 下がれサタン(マルコ8:31) 한국어예배
なぜペテロはサタン呼ばわりされたのか。「サタナス」とは「敵」の意味で、神のことがらよりも人のことがらを優先したいと願い、「イエス様それでは困るのです、そんな事があってはならないのです、どうかお考え直し下さい」とイエスを自分の所に引き寄せて諌める時、例え直前に素晴らしい信仰告白したとしても「敵」となってしまうのである。
イエスが誘惑を受けた時に「下がれサタン」と言った時に引用した御言葉は「あなたの神である主を第一とせよ」で、サタンが退いた後には御使い達がイエスに仕えた。
人間のことがらを退け、サタンを追い出した時、私達にも御使いが仕えてくれるのである。
あなたはイエスを何者と言うのか(マタイ16:13-20) 한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-10-6 16:50
礼拝メッセージ音声: あなたはイエスを何者と言うのか(マタイ16:13-20) 한국어예배
イエスについて、ある者は誰々だと言い、別の者は何々だと言うが、ペテロは「生ける神の御子、キリスト」であると告白した。
この幸いな告白をする事ができたのは人間によるものでなく天の父なる神からであり、聖霊によるのでなければ誰もイエスを主と告白できない。
私達もキリストを主とした以上、揺るぐことの無い岩の上に建てられたエクレシアとされ、紛れの無い神の子とされ、ハデスの門も私達に打ち勝つ事はできず、天の鍵を持つ者とされているのである。
礼拝メッセージ音声: 人が木のようだ(マルコ8:22-26) 한국어예배
盲人ははじめにイエスに手を置いていただいた時、人を「木のようだ」と言った。そして再び手を置いてもらうと、はっきり見えるようになった。
全ての人は元々、霊的に盲目であり、人が木のように見えて、人にたいして対応してはならない事をしてしまい、それは特に、インターネットの画面の向こうの人達のような、自分の身近でない者に対して、そのようにしてしまいがちである。
もし人が木に見えるような霊的盲目であったら、イエスに手を置いて癒していただきますように。
パン種の議論とパンの議論(マルコ8:14-21) 한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-10-4 6:09
礼拝メッセージ音声: パン種の議論とパンの議論(マルコ8:14-21) 한국어예배
イエスはパリサイ人のパン種に気をつけなさいと言われたが、パンを持っていないという事で議論を始め、しるしを間近で見ながら何も悟らないというパリサイ人のパン種に陥っている弟子達に戒めている。
ヘロデのパン種とは人の目を気にするという事と思われる。彼はそのわずかなパン種によって洗礼者ヨハネを殺してしまった。
皆様はパン種の入っていない純粋なパンでもって主を祝う者達でありますように。
天のしるしよりも時代のしるし(マルコ8:11-13) 한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-10-1 6:15
礼拝メッセージ音声: 天のしるしよりも時代のしるし(マルコ8:11-13) 한국어예배
ファリサイ派の人々が天からのしるしを求めて来たがイエスは「ヨナのしるしの他は与えられない」(マタイ16:4)と言い、彼らをそのままにして舟に乗って向こうへ行かれた。
こういう者達はしるしを行っても決して信じず、我々も無理に論破したり何かを行ったりせず、放っておけば良いのである。
イエスは天からのしるしよりも時代のしるし、すなわち非日常ではなく日常のしるしを見るように言われた。
今の終わりの時代は、御子によって既に御言葉が語られており、我々が注目すべきしるしは、御言葉なるキリストのヨナのしるしである。