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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)

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【概要】

イエス様が山から降りてこられると、弟子たちが悪霊を追い出せず律法学者と議論していた。イエス様は不信仰を嘆かれ、「信じる者にはどんなことでもできる」と宣言され、父親の「不信仰な私をお助けください」という祈りに応えて子どもを癒された。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せないと教えられた。

【聖書箇所】

マルコ9:14-29(特に9:23-24を宣言)

【励ましの言葉】

  • イエス様は今も生きて働かれており、私たちの髪の毛の数まで数えておられる

  • イエス様には全ての権威が与えられており、どんなことでもできる

  • からし種ほどの信仰があれば、山も移る

  • イエス様に話すならば、すべての問題が解決される

【戒めの言葉】

  • 不信仰はイエス様を我慢させてしまう

  • 問題が起きた時に議論するのではなく、すぐに祈るべき

  • 「できるものなら」という不信仰な祈りではなく、信仰を混ぜた祈りをすべき

  • いらない言葉を口から出さず、口を覆うべき(断食の意味)

【勧めの言葉】

  • 何か困ったことが起きたら、すぐにイエス様の御名を呼ぶべき

  • 「イエス様、助けてください」と祈る習慣を身につける

  • 思案せずに何事もイエス様に話す

  • 祈りと断食によって霊的な戦いに臨む

【***詳細***】

今朝、私たちが恵みをいただく御言葉はマルコ9:14-29です。まず初めに皆さんと共に9:23-24を宣言します。

「するとイエスは言われた。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。するとすぐにその子の父は叫んで言った。信じます。不信仰な私をお助けください。」

私たちこそ助けが必要な者です。不信仰な私たちを助けてください。主の御業を阻害しているものは何でしょうか。主の奇跡が起こらないことはなぜでしょうか。不信仰な私たちのゆえです。どうか私たちを助けてください。

素晴らしい主の御名をほめたたえ、賛美いたします。主は今も生きて働かれておられる主です。生きているんです。今、皆さんのことを見ておられます。知っておられます。皆さんの髪の毛の数も数えられておられます。それほど皆さんのことをよくご存知なのが主イエス様です。

この福音書の時代に生きておられたイエス様、そのイエス様が十字架の死を通して復活して、今や全世界、この日本の地においても、全世界どこにおいても、主を呼び求める者には助けを与えてくださる主です。本当にここ最近の私たちにとってのキーワードは、「イエス様、助けてください」ですね。

今まで私たちが何かとあれこれと何でもかんでもして、そして何か困ったことが起きても、なかなかイエス様を呼ばないで、それで自分であれこれしたり、あるいは時には誰が悪い、彼が悪いと問題をほったらかしといて、困った人がそこにいるにもかかわらず、そういう議論に陥って、結局問題がこじらされて、悪魔サタンが背後で高笑いしているような、そういう状況が多々あるんです。

今日開いた御言葉の箇所が、まさにそういう場面から始まります。イエス様はその前、高い山に登って、シモンペトロとヨハネとヤコブを連れて、そこでエリヤとモーセと会合しておりました。そこから降りてきた場面から始まります。

イエス様が降りてきたら、何か他の12弟子と律法学者たちが何か論じ合っていました。そこに周りに大勢の群衆が取り巻いている状況でした。イエス様が「一体何を議論しているのですか」と聞くと、その中の一人が答えます。

「先生、口をきけなくする霊に憑かれた私の息子を、先生のお弟子さんのところに連れてきたんですけども、けれども、このお弟子さんたちには、この霊を追い出すことができませんでした。」

イエス様はそれを聞いて、「ああ、不信仰な世代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないでしょう。いつまであなた方に我慢していなければならないのでしょう。その子、私のところに連れてきなさい」と言われました。

もし皆さんがイエス様から「いつまであなた方に我慢しなければならないのでしょうか」と言われるとするならば、それは不信仰なんです。皆さん、イエス様を我慢させてはならないんです。信じることによってイエス様を喜ばせることができる。イエス様が「ああ、不信仰な世代だ」と嘆くとするならば、皆さんが不信仰な状態になってしまう。イエス様を我慢させてしまうことになります。

ここにおいて、この弟子たちの有様、本当に問題がそこにあるのに、子どもが悪霊に取りつかれて、そして困っている父親が弟子たちのところに連れてきたけど、弟子たちに追い出すことができなかった。この問題が起こって、それで解決できなくて、それで議論が沸き起こって、ああだこうだして、そして大勢の群衆がそれを見つめて、「ああ、イエス様の弟子たち、大したことないんだな」そういうふうにして、イエス様の御名が貶められてしまっている。そういう状況です。

私たちはどうするべきであるのか、何をするべきであるのか。この当時、イエス様はまだ十字架を経験しておりません。昇天しておりませんでしたから、一人の肉体を持った人間として、イエス様はこの当時おりましたから、どこにでもいるというわけではありませんでした。

けれども、今この時代において、何か困ったことが起きたとするならば、すぐにイエス様の御名を呼んで、イエス様に来ていただくということが、今この時代はもうそれができる時代になりました。この当時は、すぐにイエス様を呼ぶということはできなかったかもしれませんけれども、少なくともイエス様の御名を預かった弟子たちです。このイエス様の御名によって、本当に祈りを持って、この対処できたはずなんですけど、しかし、祈ることをしないで論じ合うということをしてしまいました。

相手が議論を吹きかけてきたから、相手が悪いからという言い訳をしがちではあるんですけど、しかし、私たちは本当にすぐに祈る、すぐにイエス様を呼ぶということをするべきなんです。

この子どもがイエス様のところに連れてこられて、イエス様のところに来たその子ども、悪霊につかれております。その霊はすぐにその子どもを引きつけさせて、地面に倒れさせて泡をふかせ、転げ回らされました。イエス様はそれを見てすぐに癒すかと思いきや、イエス様はその子から目を離して、父親の方に向き直ります。

「この子がこんなになってからどのくらいになりますか」

イエス様はなぜすぐに癒さないんでしょう。イエス様はこの子どもから父親の方に向き直りました。子どもがもう悪霊に憑かれてひどい有様。すぐに癒すのではなく、なぜ父親の方に向いたのか。これはイエス様は見抜いていたんです。この子どもがこういう風になった、その問題は父親の方にあったんです。

父親は答えます。「幼い時からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」

父親はこのイエス様の質問に対して、このように答えました。「ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」ここにこの父親の問題が浮き彫りにされたんです。「もしおできになるものなら」なんです。

イエス様、それに対して答えます。「できるものならというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」

皆さん、「どんなことでもできる」と書いてありました。どういう者に対して?信じる者にはどんなことでもできるのです。イエス様を信じる者に対しては、イエス様がすべての、どんなことでもイエス様がしてくださるんです。

私たちは何もすることができない。唯一できること、それはイエス様に話す、イエス様を呼び求めることです。イエス様、助けてください。イエス様に祈るするならば、どんなことでもできるようになるんです。信じるならば。信じるならばです。

からし種ほどの信仰があるならば、この山に向かって「あそこに移れ」、あの木に向かって「海の中に入れ」と言えば移るというふうにイエス様はおっしゃいましたね。信じるならば、それもからし種ほど。どのくらいの大きさがからし種の大きさか。ボールペンでこの紙の先をチョンってついた、そんなチョンぐらいの大きさがからし種です。それぐらいの信仰がでもあれば、あの問題の山は「海に移れ」と言えば移るんです。

この不信仰、イエス様が本当に「ああ」って叫ばれたのは不信仰な世代だということでした。皆さんは信仰、これを持つべきです。イエス様にならどんなことでもできる。イエス様に話すならば、どんなことも取り除かれる。

先ほど484番賛美しましたね。「心に悶えあらばイエスに話せ。イエスに話せ。悲しみ、憂いあらばイエスに話せよ。イエスに話せ。良き友なるイエスに話せよ。思案せずに何事をもイエスに話せよ。」

どんなことでもイエスに話せって書いてあります。思案せずにイエスに話せと書いてあります。何か不安な物事、何か問題の物事起きたら、あれこれあれこれ、ああなんです、こうなんですって、人に話すよりもイエスに話すということをするべきなんです。そしてイエスに話して、イエス様が何か言われたらそれに聞く。こちらは黙ってそれに聞く。それをすればいいんです。

私たちはこのイエス様に話すということ、これをするべきです。イエス様にこの父親は話しました。問題が浮き彫りにされました。信じていなかったんです、この父親は。「もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください」。この言葉の中には信仰がありません。

もしあなたにできるんだったら、できない弟子たち、つまらないよね、役に立たない。イエス様、あなたにおできになるだったら、もしおできになるものなら、そういった感じがあって、信仰も何もないんです。イエスには何でもできるというこの信仰があるんでしたら、もっと、あの百人隊長のようにね、「あなたはお言葉をくださいすれば、しもべは治ります」って、そういった信仰を混ぜた言葉で、イエス様を信頼したその前提でイエス様に話しかけるんですけども、しかし、この父親は「できるものなら」ということでした。

皆さんのお祈りは、こういう「できるものなら」祈りになっていないでしょうか。イエス様には何でもできるという信仰を混ぜ込まないで、あれしてください、これしてください。その背後に「できるものなら」という不信仰が隠されていないでしょうか。

イエス様、あなたにはこれがおできになります。この問題を解決することがイエス様、あなたにおできになります。イエス様、あなたはこの病を癒すことがおできになります。そうです。イエス様は癒し主だから。そして福音書にもういくらでも病の癒しの事例は書いてありますので、イエス様にはおできになる。このイエス様、あなたにおできになりますから、私はあなたに願い求めます。イエス様、癒し主であり、イエス様、どうか私を癒してください。どうかこの問題を解決してください。イエスに話すんです。イエスに話す。思案せずに何事をもです。

イエス様は「できるものだというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」と言いますと、その父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

信じますと答えました。信じる。イエス様にはどんなことでもおできになるということを信じます。イエス様にはこの子を癒すことがおできになると信じます。イエス様、この悪霊を追い出すことができる。どんな霊的な問題をもイエス様には解決できるということを信じます。

イエス様はそうです。そういうお方です。イエス様は今や天においても地においても一切の権威が与えられました。この全権威が与えられたイエス様にお願いするならば、イエス様がすべて物事を動いてくださり、すべて最善な道へと導いてくださいます。

イエス様、ここにおいて群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊を叱って言われます。もう群衆が駆けつけてきて、どんなことだろうかと野次馬的に駆けつけてきて、そして物事をもっと混乱させてしまう。その前にイエス様、この汚れた霊を叱って言われます。

「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。私がお前に命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」

父親は、この子どもに悪霊が入ってる、どんな霊かと言って、マルコ9:17を見ますと、父親は「口をきけなくする霊」というふうに言っております。父親は単に口をきけなくする霊、この子ども、口をきけなくさせている霊だっていうふうに言うんですけど、しかし25節でイエス様が言われたのは、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」というふうに言われました。見抜きました。この子、耳が聞こえないということを。父親は見抜いていなかったんです。

けれども、イエス様はこの子、耳を聞こえなくさせる霊によって、耳が聞こえなくさせられていた。だから、父親がどんなことを言っても、周りがどんなことを言っても、この子には通じないで、そしてこの火の中、水の中へとこの子を投げ込んでいってしまったんです。けれども、イエス様はそれを見抜きました。

さあ、皆さん、耳を聞こえない人に対して何か言っても耳は聞こえないですね。耳が。でもイエス様が言われた対象は、この耳を聞こえなくさせられた子どもに対して言ったんじゃなく、耳を聞こえなくさせる霊に対して言いました。霊に対しては有効なんです。耳を聞こえない人に対しては手書きでなんか書かなければ通じないですけども、しかし皆さんは霊に対しては宣言しております。

毎回祈祷会においては、この霊に対する、悪霊に対する「出て行け、地獄へ行け」という祈りをしております。人に対してしてるんじゃないんですよ。よくこの教会は怖いと、なんかそんな祈祷会を見た方から言われるんですけど、しかし私たちが叱りつけてるのは誰か人間ではなくて、霊に対してです。この時代をおかしくさせる霊、人をおかしくさせ、不幸に陥れる霊、そのような霊に向かって私たちもこの叱り祈り、そしてこのイエス様の業を、悪霊追い出しの業をしております。

けれども、私たちもただ単に口で宣言しただけでは霊は出て行かないということ、この事例のようにあります。私たちもまた祈りと断食を持ってでなくては、この種のものは出て行かないという、そういった種の霊もまたいるわけです。

イエス様はこの霊に向かって「この子から出て行け。二度とこの子に入るな」そういうふうに言うと、霊は叫び声をあげて、その子を激しく引きつけさせて出て行きました。人々は子どもが倒れて動かなくなったのを見て、この子は死んでしまったと多くの人々がそういうふうに言いました。

本当に人々というものは現象だけを見て、そして悪い方向に考えてということにありがちですけど、しかし、イエス様がその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。正常な子どもになりました。

イエス様はすべての問題を解決してくださる方です。人々がどんなマイナスなことを言ったとしても、現象がどんなに何か解決できなさそうになったとしても、このようなすべての問題を解決してくださるイエス様に話すのであるならば、イエス様が動いてくださいます。イエス様がすべての物事を良しとしてくださいます。

イエス様がその後、家に入られると、弟子たちが集まってくるんです。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」。するとイエス様は言われます。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

この種のものは祈りによらなければ。日本語では祈りとしか書いてないんですけども、聖書の原典の方では、祈りと断食なんです。キングジェームズのバージョンでは、Prayer and Fastingって書いてあります。祈りと断食。祈り、本当に熱心に祈り求めるということ。イエスに話すということ。祈りはイエス様に話すことです。祈りはイエス様との会話です。このイエス様との会話なしにはその種の霊は出ていきません。

またそればかりじゃなく、断食。ヘブライ語の原典では、ツームって言うんですけども、ツームのもともとの意味は、口を覆うということです。口を覆う。そこから、食べる口、これを覆って食べない、そこから断食なんです。

それのみならずです。皆さん、本当にいらない言葉、本当にこの最初の場面はその群衆たちや弟子たちは本当に全く口で、もういらないことががわあわあ、「この子は死んでしまった」とか、「どうでしょうか」とか、「できるものなら」とか、そういういらない口を叩く者ですけど、本当にそうしたいらない口を覆うべきなんです。いらない口を語らす口。この私たちはですから、この唇はどのように用いるべきか。

まずイエスに話す祈り。祈り。二番目は断食、口を覆う。このいらない言葉を口から出さない。そしてなおかつ「イエス様、助けてください。イエス様、助けてください」祈るべきです。

今この時代はもうイエス様が十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られた時代。いつでも、どこでも、どんな時でも、どんな案件でも、イエスに話して、イエス様に祈ったら、生きておられるイエス様が生きて働かれ、そして皆さんの代わりに動いてくださる、そのような時代です。どこでもいつでもそれができます。イエス様に話しましょう。あの問題、この問題、イエス様に話しましょう。

心に問題がありましたら、イエス様に話して、そしてすべてイエス様に取り扱っていただいて、すっきりして、そして本当にこの時代において、どんな時においても、どんなことにおいても、イエスに話し、幸いを得ていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

イエス様、あなたが今のこの時代も生きて働かれる主であらゆることを感謝いたします。イエス様にあの問題、この問題を話します。イエス様、今この時代、特に幼子、子どもたちが本当に育ちづらい、健全に育ちづらい時代です。会堂の中において、子どもたちが本当に母親の腕の中において息も絶え絶えに「パンとぶどう酒はどこにありますか」とそのように叫んでいる時代。パンとぶどう酒、それは礼拝において主に捧げるべきもの。本当にこの時代、主に捧げるべき礼拝は一体どこですかと幼子たちが息も絶え絶えに叫んでいる、そういう時代です。

主よ、あなたが動いてください。イエス様、助けてください。イエス様、私たちがなすべき務め、教えてください。本当にこの時代において、子どもたちをあなたのもとに引き寄せる、その働きをしている働き人たち、お一人お一人に力を与えてください。どうか今、私たち自身も本当に「イエス様、助けてください」と祈るたしなみをしっかりと身につけて、からし種ほどの信仰でもあなたに助けることができますように。どうか助けてください。

あなたが本当に私たちの呼び声に応えてください。祈りに応え、助けてくださるお方であることを感謝いたします。

【結論】

信じる者にはどんなことでもできる。イエス様には全ての権威が与えられており、どんな問題も解決できる方である。私たちは「イエス様、助けてください」とすぐに祈り、イエス様に話すことを習慣にすべきである。「できるものなら」という不信仰ではなく、「イエス様にはおできになります」という信仰を持って祈る時、イエス様が動いてくださる。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せない。いらない言葉を口から出さず(断食=口を覆う)、ただイエス様に話し続けることで、すべての問題が解決される。今の時代、いつでもどこでもイエス様を呼び求めることができる恵みの時代に生きていることを感謝し、どんな時もイエス様に話して幸いを得ていく者となろう。

諦めない「巨大な信仰」(マタイ15:21-28) 早天祈祷会 2026年3月26日(Thu)

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 【概要】

真の神であるイエス様を救い主として信頼し、どんなに厳しい状況でも諦めずに「助けてください」と叫び求め続ける「巨大な信仰」を持つことの重要性を説いたメッセージです。

【聖書箇所】

マタイ15:21-28

ルカ18:1-8

創世記25:21

【慰めの言葉】

【励ましの言葉】

【勧めの言葉】

【悔い改めの促しの言葉】

【***詳細***】

2026年3月26日の礼拝において、私たちが恵みをいただく聖書の言葉は、マタイによる福音書15章21節から28節です。はじめに、27節と28節を確認しましょう。

「しかし、女は言った。『主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:27-28)

ハレルヤ、愛するイエス様。今も生きて働かれるイエス様が、かつての時代にこの娘を治してくださったように、今、私たちをも癒やし、私たちの家族や事業をも治してくださいます。イエス様が救い主であり、助けを求めるなら必ず答えてくださる方であることを私たちが深く知り、実際に助けをいただいて問題を解決していただく力を引き出すことができますように。

イエス様は今も生きておられる主です。この世には神々と呼ばれるものや、木や銅でできた偶像がたくさんありますが、それらは命を持たない物体にすぎません。しかし、真の神様は生きて働かれる方であり、私たちと人格的な関わりを持ちたいと願っておられます。天地を創造し、私たち一人ひとりの成り立ちや髪の毛の数さえもご存知である神様は、私たちがご自身に信頼し、助けを求めて祈ることを待っておられるのです。

2026年3月25日の夜の祈り会で、私たちに示された悔い改めがあります。それは、私たちがこれまで「イエス様に助けを求める」ということを、本当の意味でしてこなかったということです。私たちは聖書の言葉を宣言したり、綺麗な言葉で祈りを繕ったり、教会で奉仕をしたりして、神様との関わりを持っているつもりでした。しかし、「イエス様は実際に私を助けてくださる方である」ということを、心の底から認めて頼ることは少なかったのです。「イエス」というお名前には「神は救い」という意味があります。イエス様は私たちを救い、助けてくださる救い主です。それなのに、私たちがその力を信じず、頼りも求めてもこなかったことは、本当に悔い改めるべきことです。

聖書には、イエス様が助けを求める人に豊かに力を現してくださった記録がたくさんあります。その一つが、今日お話しするツロとシドンの地方に住んでいたカナンの女の信仰です。

イエス様はユダヤの地を離れ、異邦人の住む田舎であるツロとシドンの地方に行かれました。救いはまずユダヤ人から始まり、やがて全世界へと広がる計画でしたが、この時はまだ全世界へ福音が届けられる前の段階でした。そこに、一人のカナンの女が叫びながらイエス様のところにやって来ました。

「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」(マタイ15:22)

彼女は異邦人であり、ユダヤ人からは偶像礼拝をする罪深い者として忌み嫌われる存在でした。それでも彼女は、自分の立場を気にすることなくイエス様を頼ってきました。彼女が「ダビデの子よ」と呼んだのは、イエス様こそが聖書に預言されたメシア(救い主)であると認めていたからです。

彼女の抱えていた問題は、娘が悪霊に取り憑かれていることでした。偶像礼拝が蔓延する場所では、悪霊が働きやすくなります。彼女はこの問題を解決できるのはイエス様しかいないと信じて近づきましたが、イエス様は彼女に一言もお答えになりませんでした。彼女が叫び続けても無言のままで、ついには弟子たちまでが「あのように叫びながら後からついて来るのですから、彼女を帰らせてやってください」(マタイ15:23)と冷たく言い放ちました。

彼女の目には、この状況がどのように映ったでしょうか。頼りにしていたイエス様は何も答えてくれず、周りの弟子たちも冷たい。まさに完全に孤立した「アウェイ」な状況です。「やっぱり罪深い私の言うことなんて聞いてくれないのだ」と諦めて立ち去ってもおかしくない場面でした。しかし彼女は、娘の問題を何としてもイエス様に解決していただきたいという強い執念を持っていました。皆さんは、自分の抱える問題を「何としてもイエス様に解決していただきたい」と本気で求めているでしょうか。「イエス様に迷惑だから自分で解決しよう」などと諦めてはいないでしょうか。

沈黙を続けるイエス様は、ついに彼女にこう言われました。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)

この言葉を聞いて、彼女は帰ってしまったでしょうか。いいえ、違います。

「しかし、女は来てイエスの前にひれ伏し、『主よ、私をお助けください』と言った。」(マタイ15:25)

どんなに突き放されたように感じても、彼女は「主よ、助けてください」と食い下がりました。あれこれと思案せず、ただひたすらにイエス様に助けを求める。この信仰がとても大切なのです。

すると、イエス様はさらに厳しい言葉を口にされました。

「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(マタイ15:26)

子どもたちとはイスラエルの民のことであり、小犬とは異邦人である彼女のことを指しています。イエス様の使命はまずイスラエルの民を養うことであり、その恵みを異邦人に与えるのは良くないと、彼女を小犬呼ばわりしたのです。普通なら、ここで傷ついて怒り、引き下がってしまうでしょう。しかし彼女は違いました。

「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)

彼女はイエス様の言葉を逆手に取りました。「おっしゃる通り、私は小犬です。でも、小犬には小犬としての権利があります。主人の食卓から落ちるパンくずをいただく権利です」と言ってのけたのです。彼女は自分のプライドを捨て、イエス様を「主人」と認め、その主人から与えられる恵みを決して諦めませんでした。

私たちは今、十字架の後の時代に生きています。イエス様の救いは異邦人である私たちにも大きく開かれています。私たちがイエス様のお名前によって祈り求めることを、イエス様は決して咎めたりはなさいません。ただ、「助けてください」と素直に求めるべきなのです。

彼女のこの祈りに対し、イエス様はこう答えられました。

「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように。」(マタイ15:28)

イエス様は彼女から豊かな信仰を引き出されました。ここでの「立派」という言葉は、ギリシャ語で「メガス(巨大な)」という意味です。イエス様は感嘆の声を上げて、「ああ、あなたの信仰は巨大ですね!」と彼女を褒め称えたのです。周りにいたどの弟子たちよりも、この女性の信仰が最も巨大でした。

私たちも、この巨大な信仰を持つべきです。巨大な信仰とは、たとえ答えが遅くても、周りから冷たくされても、自分のプライドが傷ついても、イエス様を決して手放さず、「主よ、助けてください」と呼び求め続けることです。

イエス様は、ルカの福音書で「不正な裁判官のたとえ」を語られました。ある町に、神を恐れず人を人とも思わない不正な裁判官がいました。そこに一人のやもめが来て、「私の訴えを取り上げて、裁判をしてください」と何度も頼みました。裁判官は最初は取り合いませんでしたが、彼女があまりにも何度もやって来てうるさく頼むので、「このやもめはうるさくてたまらないから、願いを聞いてやろう」と言いました。

イエス様はこのたとえを通して、こう教えられました。

「神は、昼も夜もご自分に向かって叫ぶ、選ばれた者たちのために、さばきを行わないでいつまでも放っておかれるでしょうか。」(ルカ18:7)

神様とは真逆の性質を持つ不正な裁判官でさえ、求め続ければ願いを聞き入れるのです。ましてや、天の父なる神様が、昼も夜も叫び求める子どもたちの祈りに答えてくださらないはずがありません。もし、物事が思うように進まなかったり、願いが叶えられていないと感じるなら、私たちも何度も何度もイエス様に「どうか助けてください」と訴え続けるべきなのです。神様は、私たちがご自身に関わり、求め続けることを望んでおられます。

旧約聖書に登場するアブラハムと、約束の子であるイサクの例を考えてみましょう。アブラハムの子孫が星の数ほど増え広がるという約束がありましたが、イサクが結婚してから子どもができるまで、なんと20年もの歳月がかかりました。約束の民であるということにあぐらをかいて、「神様がそのうち与えてくれるだろう」と中途半端な気持ちで過ごしていたのかもしれません。しかし、ついにイサクは「主にお願いした」(創世記25:21)とあります。彼が真剣に神様に助けを求めて祈ったとき、ようやく子どもが与えられたのです。約束の民でさえ祈り求める必要があったのですから、ましてや私たちはなおさら祈り求めるべきです。

今日のメッセージはとてもシンプルです。「求め続けるべき」ということです。「イエス様、助けてください」と、ただその祈りを求め続けてください。病の癒やし、問題の解決、次世代の救いなど、どんなことでも諦めずに求め続けるなら、主は必ず答えてくださいます。

イエス様は不正な裁判官のたとえの最後に、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と言われました。今の時代、私たちが求め続けることをやめてしまえば、敵の罠に陥ってしまいます。まるで答えがないように見えても、昼も夜も求め続けるなら、皆さんの信仰は巨大になっていき、主は必ず祈りに答えてくださいます。イエス様が生きて働かれることを、皆さん一人ひとりが豊かに体験できますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

(続いて、礼拝での応答の祈り)

ハレルヤ。天のお父様、感謝いたします。愛するイエス様、あなたは生ける神の御子であり、私たちの救い主です。これまで、私たちが綺麗な言葉を並べるだけで、本気で「イエス様、助けてください」と頼ってこなかったことをお赦しください。どうか私たちの問題を解決し、あなたが確かに生きて働かれる方であることを体験させてください。

今、牧師のメッセージを通して、魂がわななき震えるような思いです。イエス様が再び来られる時、私たちは賢い乙女たちのように油の備えをしているでしょうか。助けを呼び求めない中途半端な信仰ではなく、本気で悔い改めて、主の御名を呼び求める信仰を与えてください。2026年3月25日の夜遅くまで、皆で祈り悔い改めたように、これからも「助けてください」というシンプルな信仰を握りしめて歩みます。

スロ・フェニキヤの女のように、イエス様の言葉を盾に取り、決して諦めない「メガス(巨大)なる信仰」を働かせていきたいと願います。「ああ、あなたの信仰は巨大です。願い通りになるように」という主の御言葉を引き出すまで、私たちは祈り続けます。イエス様、どうか助けてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【結論】

イエス様は、私たちがご自身を真の「救い主」「主人」として頼り、諦めずに「助けてください」と叫び求めることを待っておられます。たとえ答えが遅く感じられても、プライドを捨てて食い下がる「巨大な信仰」を持ち、絶えず祈り求め続けることで、私たちは主の生きた御業と解決を体験することができます。

残り物を主に捧げていないだろうか?(ローマ12:1-2)

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【概要】

あなたがたが盲目のものをいけにえとして捧げる。それは悪い事ではないのか? 足なえや病気のものを捧げるとき、それは悪くないのか? さあ、それをあなたの総督に差し出してみよ。 彼はあなたを喜び、あなたを受け入れるだろうか? 万軍の主は言われる。 (マラキ1:8直訳)

【聖書箇所】

ローマ12:1-2

創世記2:3

マラキ1:6-13

ヨハネ4:21-24

ルカ6:38

マタイ13:8

詩篇37:1-2

【戒めの言葉】

自分の好きなことで疲れ切った状態や上の空の状態で礼拝の場に臨むなど、余り物や不完全なものを神様に捧げるような形だけの礼拝をしてはいけません。

【勧めの言葉】

この世の価値観という鋳型にはめ込まれるのではなく、御言葉によって心を一新し、自らを神様に喜ばれる生きた供え物として捧げましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神様よりも自分の用事や世の中のことを優先し、足のなえた動物を捧げるような怠けた態度で礼拝に出ていなかったか、今一度自分の心を点検し、悔い改めましょう。

【***詳細***】

礼拝の初めに、皆でローマ12:1-2の御言葉を宣言しました。

「そういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

そして、礼拝の時間を最高のものとして過ごせるよう、私たちの思いや心、体を主にお捧げし、神様からの恵みをいただけるよう祈りから始まりました。

私たちは神様のものになりました。私たちが受け継ぐ財産、つまり私たちにとっての最高のご褒美は、お金や土地のようなものではなく、神様ご自身です。このことを深く知り、実感していくべきです。何億円というお金や不動産を得ることよりも、神様ご自身を受け継いでいることのほうが、どれほど幸せなことでしょうか。このことを実感すればするほど、お金や老後の安心などをはるかに超えた平安と安息を得て、「今ここにいていいんだ」という確信に満たされるはずです。神様がいない人は、実績やお金の残高がないと不安になり、右往左往してしまいます。そして、頑張らなくてもいいところに力を注いで、結果的に無駄遣いをしてしまうのです。ですから、私たちは何が本質なのかをしっかりと捉え、イエス様を中心とする生活を送るべきです。

イエス様を礼拝することが、私たちの生活の中心にならなければなりません。神様は天地を創造された時、7日目を安息日として聖なる日と定められました(創世記2:3)。この世のあらゆるゴタゴタやトラブルは横に置いて、神様との完全な交わりと平安を守る日です。現代の私たちにとっては、日曜日が主を礼拝すべき主日です。この日には、世の中のさまざまな事情を置き去りにして、神様を第一に覚え、神様と交わるべきです。そうすれば必ず祝福されます。

しかし、日曜日に世の中の仕事を持ち込み、「6日働いて1日休むより、7日全部働いた方が稼げる」と考えた人たちは、どんどん衰退していきました。アメリカがかつて右肩上がりで発展したのは、日曜日に行う礼拝を忠実に守ったからです。しかし、その礼拝をおろそかにし始めた時から、国に影が見え始めました。私たちも、神様を第一にして礼拝を捧げることを、何よりも優先しなければなりません。

ローマ12:1-2には「霊的な礼拝」という言葉が出てきます。これは原文の意味からすると「理にかなった礼拝」「筋の通った礼拝」という意味です。では、何が筋の通った礼拝なのでしょうか。それは、私たちの体を神様に受け入れられる、清く生きた供え物として捧げることです。ここで言う「体」とは、肉体だけでなく、魂も心も霊も含めた全身全霊のことです。ですから、ただ体が礼拝の場にいるだけでは不完全です。思いも心もすべて神様に向け、神様への愛をお捧げすることが重要なのです。

また、「この世と調子を合わせてはいけません」と言われています。これは、世の中の鋳型にはめ込まれてはいけないということです。溶けた金属を鋳型に流し込むと、その形の像が出来上がります。世の中は、「子どもはこうあるべき」「社会人はこうあるべき」といった鋳型に私たちをはめ込もうとします。もしそれが神様に敵対するような鋳型であるなら、決してはめ込まれてはいけません。私たちは、キリストに似た姿へと作り変えられることを求めるべきであって、この世の鋳型を優先してはならないのです。

何が完全であり、何が神様に喜ばれることなのかをわきまえ知るために、心を一新して自分を変えなさいと言われています。世の中の考え方を一新し、御言葉を中心とした新しい志を持ちましょう。

「自分を変えなさい」という言葉は、原文では受動態で書かれており、「変えられ続けていきなさい」という意味です。つまり、心を一新させれば、あとは受動的に変えられ続けていくのです。私たちの責任は、世の中の邪悪な考え方を捨て、御言葉を中心とした考え方に自分を当てはめ続けることです。自分の力で自分を変えることはできません。御言葉に自分を当てはめていくことで、変えられ続けることが可能になるのです。「自分で変わらなきゃ」と努力するよりも、「御言葉にこう書いてあるから、それに自分を当てはめよう」と考える方が、何百倍も効果的です。真の礼拝者とは、自分のやりたいことではなく、御言葉に何と書いてあるか、神様が喜ばれることは何かを求め、そこに自分を当てはめていく人のことです。

一方で、神様が「このような礼拝はダメだ」と指摘された例が、マラキ書の1章(マラキ1:6-13)に書かれています。神様は、「もし私を父とし、主人としているなら、私への尊敬はどこにあるのか」と問いかけられました。当時の人々は「ちゃんと礼拝を捧げています」と言い訳しましたが、神様はこう言われました。「あなた方は祭壇に汚れたパンを捧げている。目が見えない動物や、足のなえた動物を捧げているではないか。そんな不完全なものを総督にプレゼントして、喜ばれるだろうか」。人間でさえ喜ばないような不完全なものを、神様の御前に捧げていることを咎められたのです。

神様はそのような形だけの捧げ物を喜ばれません。「誰か、祭壇の火を消してくれる者はいないのか。そんな捧げ物は私の祭壇に持ってくるな」とまで怒られました。心の中では「良い動物は自分のために取っておいて、価値のないものを捧げよう」と考えていることを、神様は見抜いておられたのです。マラキ1には、余り物や盲目のものを神様の御前に捧げてはならない、それは喜ばれないと明確に記されています。

私たちも同じようなことをしていないでしょうか。自分の好きな動画やスマートフォンを見続けて目が疲れ切り、霊的にも盲目になったような状態で礼拝に来ていないでしょうか。自分の好きなことには体力を使い果たし、いざ礼拝の時間になると上の空になったり、忙しいからと礼拝から離れてしまったりしていないでしょうか。それは、余り物を神様に捧げているのと同じです。

イエス様は、真の礼拝についてヨハネ4:23-24でこう言われました。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

また、ローマ12:1-2にあるように、全身全霊を清い供え物として捧げるのが理にかなった礼拝です。自分の好きなことを散々やって、その残りカスのような状態で、うつらうつらと居眠りしながら捧げる礼拝を、神様は喜ばれません。生きておられる神様に対して、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛を捧げることこそ、求められている真の礼拝なのです。

マラキ書の時代には、自分の方が清くて礼拝の場が汚れているかのように振る舞ったり、戒められると「なんとうるさいことか」と心の中で軽蔑したりする人々がいました。彼らは盗んだものや足のなえたものを捧げていましたが、神様がそれを喜んで受け取られるはずがありません。

皆さんが今、礼拝の場にいる態度は、果たして神様の御前に届くものでしょうか。もし世の中の偉い総理大臣などと対面する時の態度のほうが、神様と向き合う時の態度よりも立派であるなら、それは神様よりも世の中を優先していることになります。神様の御前では、心を尽くして愛する礼拝を捧げるべきです。

イエス様は、サマリヤの女からの質問に対して「この山でもなく、エルサレムでもない」と答えられました。形式や場所ではなく、四六時中いつでも「霊とまこと」をもって神様を敬っているかどうかが問われているのです。神様は私たちの心の内をご覧になり、神様と一つになっている人に目を留め、その人をこの時代の立役者にしてくださいます。ふさわしい心を持つ人には、多くのことが任されるようになり、忠実に果たすことでさらに多くの働きが委ねられていきます。

「この程度でいいや」「適当にやって他の人に任せよう」という怠け心は一切捨て去りましょう。

神様が求めておられるのは、私たちの思い、心、体、感情のすべてを委ねる礼拝です。すべてを捧げたら自分のものがなくなって損をする、などと考えてはいけません。ルカ6:38にあるように、神様は「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」して与えてくださるお方です。マタイ13:8にあるように、私たちが1を捧げれば、神様は30倍、60倍、100倍にして返してくださいます。

心から神様にすべてを捧げ、神様からさらなる祝福を与えられ、尊い働きに用いられる喜びに満たされますように。そして多くの富や人々が託され、神様の働きを進めていく者となれますように祝福します。

【結論】

私たちの全存在(霊・魂・心・体)を神様に喜ばれる生きた供え物として捧げることこそが、真の礼拝です。世の中の価値観という鋳型にはめられることなく、常に御言葉に自らを当てはめて心の一新を図りましょう。疲弊した状態の余り物や不完全なものを捧げるのではなく、「霊とまこと」をもって最上の礼拝を捧げる時、神様は私たちに豊かな祝福と大いなる使命を委ねてくださいます。

キリストにあって圧倒的な勝利者である私達(ローマ8:28-39) 早天祈祷会 2026年3月25日(Wed)

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【概要】

神様は私たちを深く愛し、御子イエス・キリストを惜しみなく与えてくださいました。いかなる困難や被造物も、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできず、私たちは主にあって圧倒的な勝利者となることができます。

【聖書箇所】

ローマ8:28-39

創世記15:1

【***詳細***】

本日は、ローマ8:31-39の聖書箇所から神様の恵みを受け取っていきます。はじめに、皆さんと共にローマ8:31-32の言葉を確認します。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

愛するイエス様が、いつも私たちと共にいてくださり、私たちをじっと見つめ、愛し、そして常に私たちのために祈り、とりなしてくださっていることを心から感謝します。私たちは今、神様の御前に出て、御言葉をいただくためにここにいます。神様が直接語りかけてくださり、私たちがしもべとしてしっかりと耳を傾けることができるように、そしてその言葉が私たちの耳から心へ、そして体全体へと豊かに蓄えられていくようにと祈ります。

皆さんは、イエス様を自分自身の主として受け入れているでしょうか。もしそうであるならば、この地上に存在するいかなるものも、皆さんをイエス様から引き離すことはできません。神様の愛と導きから離れてしまうことは決してないのです。

ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。神様は、私たちの人生に起こるすべての出来事を、まるでひっくり返すようにして「益」へと変えてくださいます。たとえ皆さんの過去やこれまでの人生が真っ黒に思えたとしても、イエス・キリストという存在が皆さんの心の中に投げ込まれるなら、すべては雪のように真っ白になります。

オセロゲームを想像してみてください。盤面がすべて真っ黒な石で埋め尽くされていたとしても、キリストという白い石が隅にしっかりと置かれるなら、オセロのルール以上に強力なイエス様の力によって、盤面は次々と白く塗り替えられていきます。皆さんがイエス様を信じ、キリストが皆さんの内におられるなら、過去のどんな暗闇や罪も、キリストによってすべて白く変えられるのです。神様は、世界の初めに暗闇があった時、「光、あれ」と宣言され、その光を見て「良し」と言われたお方です。神様の御心は、皆さんの人生が黒や闇のままであることではなく、白く光り輝くことです。

その神様が皆さんを愛し、ご自身の御子であるイエス様をさえ惜しむことなく、私たちのために十字架の死へと渡してくださいました。このキリストの愛が皆さんの心の中に満ちあふれ、とどまり続けているならば、その愛から皆さんを引き離すことができるものは何一つありません。もちろん、皆さん自身がその愛を拒絶してしまうなら話は別です。しかし、皆さんがしっかりとキリストにつながっている限り、キリスト・イエスにある神の愛から引き離されることは絶対にないのです。

神様は、あらかじめご自身の計画に従って人々を召し出してくださいました。ローマ8:29-30にはこのように書かれています。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

神様は、あらかじめ皆さんを知り、あらかじめ皆さんをご自分の子どもとなるように、そして雪のように白く清らかな存在となるように定めておられました。それは、御子であるイエス様が、多くの兄弟姉妹たちの中で長男のような存在となるためです。ですから、皆さんはキリストの弟や妹であり、私たちは皆、主にある兄弟姉妹なのです。

神様はあらかじめ定めた人々を召し、義と認め、さらに栄光をお与えになりました。これらはすべて、過去にすでに完了していることであり、決して変わることのない真理です。神様の側ではもうすでに確定しているのです。皆さんがこの約束の言葉を信じ、しっかりと握って手放さないでいる限り、この恵みは皆さんの人生において有効であり続けます。

しかし、神様は私たちに自由な意志を与えておられます。そのため、神様を掴み続ける自由もあれば、手放してしまう自由もあります。もし皆さん自身が「そんなことはない」「自分はダメだ」とこの真理を手放してしまうなら、それは皆さんが宣言した通りの結果になってしまいます。皆さんは、決して神様を手放してはいけません。神様によって召され、義とされ、神の子どもとされたという事実を、しっかりと信じ続けてください。

神様は、私たちが時として弱くなる存在であることをよくご存知です。だからこそ、今日の御言葉が与えられています。神様は御言葉を通して、「大丈夫だよ、私はこんなにもあなたを愛しているよ、しっかりとあなたを掴んでいるよ」と私たちに語りかけてくださっているのです。

ローマ8:32には、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあります。神様は私たちすべてを愛するがゆえに、御子イエス・キリストを惜しむことなく十字架の死へと渡されました。そして、イエス様は死んで終わったのではなく、私たちのために復活されました。私たちもまた、キリストと共に復活の命にあずかり、御子の光の中で生きていくようにと、神様は定めておられるのです。

今年の初めに、私たちは「主ご自身が私たちの報酬である」という言葉を確認しました。創世記15:1には、「これらのことの後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい』」と記されています。この言葉の本当の意味は、主を信じたらこの世の報酬がたくさんもらえるということではなく、「主ご自身が私たちにとって最大の報酬である」ということです。イエス様が皆さんのご褒美であり、皆さん自身の内にすでにおられるのですから、皆さんはこの地上で必要な助け、癒し、経済的な支えなど、すべてのものをすでに得ていることになります。イエス様を通して、すべての問題は解決され、必要なものが与えられていくのです。

私たちが生きていく中で、悪魔やサタン、あるいは自分自身の弱い心が、「お前は罪深い」「お前には価値がない」と囁き、訴えかけてくることがあるかもしれません。しかし、ローマ8:33-34にはこうあります。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

もし心が暗闇の声に引き寄せられそうになったら、この御言葉の真理を宣言してください。神様が私たちを義と認めてくださっています。そして、天の右の座におられるイエス様が、私たちのことをじっと見守り、私たちが打ちひしがれている時も、喜んでいる時も、常に私たちのためにとりなしてくださっているのです。イエス様が私たちの味方となり、「これが歩むべき道だよ」と導いてくださっています。

ローマ8:35には、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」とあります。使徒パウロの時代には、命に関わる現実的な迫害がありました。今の日本にはそのような直接的な迫害は少ないかもしれませんが、この時代特有の患難があります。それは、人々の心がキリストの愛を知らず、霊的な飢え渇きの中にあり、御言葉を伝えても無関心であったり、拒絶されたりすることです。時には、家族から反対されることもあるかもしれません。

しかし、どのような患難や苦しみ、迫害があったとしても、ローマ8:37が教えるように、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」という真理は変わりません。たとえ目の前に危険が迫り、困難が取り囲もうとも、かろうじて勝つのではなく、イエス様にあって「圧倒的な勝利者」となるのです。野球で言えばゼロ対十以上のコールドゲームのような、比べ物にならないほどの完全な勝利を、イエス様と共にいる皆さんはすでに手にしているのです。

最後に、ローマ8:38-39の確信の言葉を見ましょう。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

死であろうと命であろうと、目に見えない霊的な存在であろうと、皆さんの報酬としてイエス様がともにおられるなら、皆さんを神の愛から引き離すことは絶対にできません。イエス様が味方であるなら、私たちは圧倒的な勝利者であり、この世のどのような恐ろしい存在であっても、私たちに勝つことはできないのです。

ですから、私たちはいつもイエス様をしっかりと捉え続け、とどまり続けなければなりません。教会から一歩外に出た途端に、世の中の荒波や厳しい現実に目を奪われ、イエス様を呼ばなくなってしまえば、波に飲み込まれてしまいます。弟子であったペテロは、水の上を歩く際、イエス様を見つめている間は沈みませんでしたが、波や風を見た途端に沈み始めました。私たちも同じです。世の中の荒波を見るのではなく、イエス様だけをしっかりと見つめ続け、イエス様と共に歩み続ける者でありたいと願います。

ハレルヤ。神様が私たちの友として、いつも共にいてくださることを感謝します。過去のどんな罪も、私たちが犯してきた過ちも、神様の愛から私たちを引き離すことはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださり、私たちを贖い、雪よりも白く清めてくださったからです。この地上に存在するいかなる悩みも、苦しみも、剣も飢えも、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。

私たちが世の荒波に目を向けて沈んでしまうのではなく、イエス様から決して目を逸らさず、どんな困難な状況であっても安定した歩みを続けることができますように。あなたご自身が私たちの盾となってくださり、イエス様を甚だ大いなる報酬として与えてくださっていることを覚えて、心から感謝いたします。

【結論】

神様は私たちに御子イエス・キリストを惜しみなく与えてくださるほど、私たちを深く愛しておられます。この世のいかなる患難も苦しみも、目に見えない力も、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。私たちは自らの弱さや世の荒波に目を向けるのではなく、常に私たちをとりなしてくださるイエス様を見つめ続けることで、すべてのことにおいて圧倒的な勝利者として歩むことができるのです。

主にあってひとつも無駄な事は無いこの人生(ローマ8:28-30)

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【概要】

神様のご計画に従って召された人々にとっては、人生のどんな苦難や一見無駄に思えることもすべてが益となり、御子イエス様の姿へと作り変えられるための大切な過程であるというメッセージです。

【聖書箇所】

ローマ8:28-30

ローマ8:31

ローマ8:38-39

【慰めの言葉】

自分自身の過ちや、他人の悪意によって人生が台無しになったように思える時でも、神様を愛しているならば、神様がすべてのことを働かせて益に変えてくださいます。

【励ましの言葉】

私たちの人生に無駄なことは一つもありません。今の苦しみや困難は、やがてより大きな神様の働きをするためのトレーニングであり、私たちが御子の姿に作り変えられるための大切なプロセスです。

【勧めの言葉】

今任されている仕事や、目の前にある困難な状況から逃げることなく、将来の大きな希望を見据えて、イエス・キリストにあって忠実に走り抜けましょう。

【***詳細***】

2026年3月24日の朝に与えられた恵みの御言葉は、ローマ8:28-30です。まず、神様を愛する人々、すなわち神様のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべてのことを働かせて益としてくださることを確認し、祈りから始まります。神様に連なっている人々にとっては、身の回りに起こるすべての物事、そして私たち自身が神様の姿に作り変えられていくためのあらゆる経験が、すべて益であることを感謝します。この礼拝に参加する一人ひとりが豊かな恵みを受け取り、御言葉を取り次ぐ者の口を通して、神様の御座から流れる命の御言葉を豊かにいただき、神様を心に蓄えて共に歩むことができるようにと祈ります。

私たちキリストを信じる者の人生は、間違ったまま、あるいは不幸なままで終わるということは決してありません。「自分の人生は暗く、どん底だった」と振り返るような時期があったとしても、人生の途中の段階で「自分の人生はこういうものだ」と決めつけてはいけません。なぜなら、その先には必ず神様が用意された続きがあるからです。神様の御心は、私たちの人生が不幸せなままで終わることではありません。神様は私たちを、ご自身の姿形に似せて作ってくださいました。私たちは神様に深く愛されており、私たちが母親の胎内に宿るはるか前から、神様はすでに私たちの人生が幸せで有意義なものになるように設計しておられたのです。エペソ人への手紙にも書かれているように、世界の基が置かれる前から、私たちは神様の御前でしみやしわのない、きよいものとして選ばれて作られていました。ですから、私たちの人生には確かな意味があります。

今、私たちはそれぞれの人生の途中にいます。神様は完全なご計画を持って、私たちの人生を導き進めておられます。私たちは神様の壮大な計画の全体を知らないため、人生の途中で起こる出来事だけを見て「自分の人生は不幸だ」「失敗だった」と決めつけてしまいがちです。しかし、神様に愛されている私たちは、すべてのことが働かせて益となるという事実を知るべきです。「これまでの人生は無駄だった」と思えるような時期も確かに存在しますが、決してそれだけで終わるわけではないということを、今日の聖書箇所は明確に示しています。

ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」と記されています。ここに、すべてのことが益となるための重要な条件が書かれています。それは「神様を愛する人々である」ということです。私たちが神様を愛しているならば、この御言葉の約束の範囲内に入っています。それは例えるならば、手厚い保険に入っているようなものです。保険の適用範囲内であれば、たとえ自分が何かミスをしてしまったとしても、保険によって守られます。たとえば、ある人がアパートの自分の部屋でうっかり水漏れを起こし、下の階の部屋に被害を与えてしまったとします。しかし、保険に入っていたおかげで、自分のお金で全額を賠償して生活が立ち行かなくなるような事態は避けられました。神様を愛する人々は、このような神様の確かな守りの範囲内にいるのです。

そもそも、なぜ私たちが神様を愛することができるのでしょうか。それは、私たちが自発的に神様を愛したからではなく、神様がご自身の計画に従って私たちをあらかじめ召してくださったからです。2026年3月24日の今日、こうして早天礼拝に参加しているのも、御言葉を聞きたい、神様を賛美したい、礼拝を捧げたいという思いがあるからです。あるいは、たまたま動画配信を見てこのメッセージに出会った人もいるかもしれません。どのような形であれ、神様のご計画に従って召された人々のために、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます。勝手に、あるいは自然に状況が良くなっていくわけではありません。私たちが神様を愛しているなら、神様ご自身が背後で働いて、すべての出来事を益へと作り変えてくださるのです。

たとえ自分自身の罪や無知、愚かさのせいで人生を台無しにしてしまったと感じたとしても、それでも神様を愛するなら、神様はそれを益へと作り変えてくださいます。先ほどの水漏れの話のように、自分に落ち度があったとしても、神様の守りの範囲内にいるなら致命的な損害にはなりません。同じように、自分の罪によって人生に損害が出た場合でも、あるいは自分には何の落ち度もないのに他人の悪意や意地悪によって人生が壊されてしまった場合でも、神様の愛の手の中にあるならば、それはすべて益へと変えられていくのです。

旧約聖書に登場するヨセフの人生がまさにそうでした。ヨセフ自身には何の落ち度もなかったにもかかわらず、兄たちの嫉妬と悪巧みによって、エジプトへ奴隷として売られてしまいました。その状況だけを見れば、絶望しかありません。「私の人生は真っ暗だ」と嘆いても仕方のない状況でした。しかし、ヨセフは非常に前向きで誠実な人でした。奴隷として売られた見知らぬエジプトの地でも、任された仕事を忠実にこなしました。すると、彼がすることすべてが成功していきました。エジプト人の主人は、神様がヨセフと共におられるのを見て、彼に家のすべての管理を任せました。私たちの人生においても、どんなに理不尽で、奴隷として売られたような絶望的な思いがする状況であっても、神様が共におられるなら、その置かれた場所ですべてが益へと作り変えられていきます。

神様が共におられるからこそ、その働きは祝福されます。そして、その置かれた場所で私たちは鍛えられていくのです。後に神の国の働きのために大いなる活躍をするために、今受けている苦しみや困難、不本意な状況のすべてを、私たちは自分を成長させるトレーニングとして受け止めるべきです。ヨセフは奴隷として忠実に働いた結果、祝福されました。しかしその後、主人の妻から嘘の告発を受け、今度は無実の罪で犯罪人として牢屋に入れられてしまいます。それでもヨセフは不満や愚痴を漏らしたという記録はありません。牢屋の中でも忠実に働き、そこでも神様が共におられたので、牢屋の番人から多くの責任を任されました。奴隷として、そして囚人として鍛えられ、彼がどんな状況でも忠実さを貫いた結果、やがて時が来たとき、神様はこのヨセフという人物にエジプト国中を任せることになります。そして、神の民であるイスラエルを飢饉から救うためにエジプトに呼び寄せ、一つの家族から一つの国家へと成長するための土台作りをヨセフが担ったのです。これらはすべて、神様の計画に従い、神様の御心が成就するために行われたことでした。

ローマ8:29には、「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とあります。私たちキリストを信じる者の最終的な目標は、御子イエス様と同じ姿になることです。私たちの人生の目的は、単に毎日が楽しくてハッピーになることではありません。イエス様と同じ性質へと成長していくことなのです。ですから、人生の途中で起こる苦しいことや悲しいこと、無駄に思えるような出来事は、決して無駄ではありません。その苦難の中で、私たちは着々と御子の姿へと作り変えられていきます。私たちの中にある不要な性質や不純物が、どんどんと取り除かれていくのです。だからこそ、すべての出来事は益であり、意味があるのです。「あの時期の自分の人生は無駄だった」ということは決してありません。御子の姿に作り変えられるための大切な過程なのです。今、少しでも以前よりイエス様の性質に近づいているのなら、これまでの人生は一切無駄ではありません。

続くローマ8:30には、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と記されています。これらはすべて、すでに過去に完了したこととして書かれています。神様が私たちを召し、義と認め、栄光を与えることは、すでに定まっている確かなことなのです。私たちがこれから何をしようと、この神様の計画が変更されることはありません。神様が私たちを召し出してくださったのは、私たちが義と認められるためです。私たちには罪があり、そのために人生に悲惨なことが起こり、周囲に不幸をもたらすこともあるかもしれません。しかし、キリストにあって私たちは義と認められ、さらに神様の栄光が与えられるようになるのです。今こうして礼拝に参加し、御言葉を聞いているのも、すべて神様の計画によるものです。

ローマ8:31には、「では、これらのことからどう言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」とあります。そして、ローマ8:38-39にはこう書かれています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 この世にあるどんなものも、目に見えない霊的な力も、私たちをキリスト・イエスにある神様の愛から引き離すことは絶対にできません。イエス・キリストこそがすべてなのです。

ですから、私たちの人生に無駄なことは一つもありません。「自分が今やっていることに何の意味があるのだろうか」「全く成果が出ないではないか」と悩むことがあるかもしれません。しかし、私たちは確実に御子イエス様の姿へと作り変えられています。そして、将来さらに大きな栄光の働きをするために、今日なすべきことがあるのです。今日なすべき一つ一つのことが、やがて神の国の働きのために私たち自身を整え、準備するトレーニングとなっています。ヨセフの奴隷としての仕事も、牢屋での仕事も、決して無駄ではありませんでした。それは神様に対する誠実さを育むためのトレーニングの場でした。今、自分が何かをしているなら、それはトレーニングです。やがてより大きな舞台に立ち、より大きな働きをするために、今鍛えられている最中なのです。

神様のご計画に従って召され、今いる場所でトレーニングを受け、やがてより大きな栄光の舞台で魂を救い、福音を伝える働きのために備えられています。どうか希望を持って、今の仕事や目の前の状況から逃げ出さずに、イエス・キリストにあって走り抜けてください。愛する神様、世の始まる前から私たちを選び、御前できずのない者として定めてくださったことを感謝します。今日与えられている務めを、御子イエス様の姿に作り変えられていくという大きな目的のために果たしていきます。私たちが元気を失うことなく、キリストにあって将来に希望を持ち、今日2026年3月24日も、明日2026年3月25日も、そしてこれからも、神様によって幸いを勝ち取っていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

【結論】

神様を愛する者にとって、人生に無駄なことは一つもありません。すべての困難や日常の務めは、私たちを御子イエス様の姿へと作り変え、将来のより大きな働きのために備えるためのトレーニングです。神様の愛から私たちを引き離すものは何もないという確信を持ち、今置かれた場所で希望を持って忠実に歩み続けましょう。

子どもたちを来させなさいという主の命令(イザヤ60:4-6)

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【概要】

神様が次世代の子どもたちを招き、必要なすべてを備えてくださるという約束を信じ、私たちが霊的な目を上げて祈り、備えることの重要性を語るメッセージです。

【聖書箇所】

イザヤ60:4-6

マルコ10:14

イザヤ45:14

【慰めの言葉】

現実にはまだその兆候が見えなくても、神様はすでに働いておられ、子どもたちや必要なものをすべて集めてくださるという希望が語られています。

【励ましの言葉】

霊的な目を上げて神様を見上げ、次世代の教育と教会の回復のために、大胆に祈りながら準備を進めていくようにと励ましています。

【戒めの言葉】

大人の常識や不信仰によって、子どもたちが神様の元へ来ることを邪魔してはならないという強い警告がなされています。

【勧めの言葉】

イエス様の「子どもたちを来させなさい」という命令を堅く握り、次世代を招き入れるための具体的な体制づくりと祈りに取り組むことが勧められています。

【悔い改めの促しの言葉】

教会が子どもたちにとって近づきにくい場所になっているのであれば、その現状や、私たち自身の内にある不信仰を悔い改めるべきであると促しています。

【***詳細***】

このメッセージは、イザヤ書60章4節から6節の言葉から始まります。「目を上げてあたりを見よ。彼らは皆集まって、あなたの元に来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちは脇に抱かれてくる。その時、あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだがあなたのところに押し寄せる。シェバから来る者は皆、金と乳香を携えて来て、主のくすしい御業を宣べ伝える。」(イザヤ60:4-6)。

イエス様の御元に子どもたちを遣わすことは、神様の御心であり、明確な命令です。私たちは今、神様の御元に子どもたちを集める働きをしています。神様が一切の邪魔を退けてくださるように、そして私たちが何をするべきなのかを教えてくださるようにと祈り求めています。語られた御言葉が、一人一人の心の中に命の川となって流れ込み、私たち自身を潤し、さらには周りの人々をも潤していくことを期待しています。

深夜の祈祷会の中で、特にこのイザヤ書の箇所が心に示されました。これは今月のカレンダーの聖句でもありますが、子どもたちが遠くからやって来ること、そして脇に抱かれて集まってくるという情景が、深く心に響いたのです。

預言者イザヤは「目を上げてあたりを見よ」と語っています。目を開けて見なさい、ということです。これはただの提案ではなく、命令形です。そしてこれは「希望を持って前向きに見なさい」という程度の意味ではなく、「現実にはまだ何も見えない時であっても、顔を上げなさい」という強いメッセージなのです。もしかしたら、この幻はまだ現実の目には見えないかもしれません。だとしても、目を上げていなさい、目を上げ続けなさいという命令です。

ですから、この預言が実現したり、礼拝が回復したり、子どもたちが実際に集まってくるといった、現実の条件がすべて揃ってから行動を始めようということではありません。まだ現実が動き出す前、何も見えないうちから、信仰の視線を切り替えることが求められています。今まで下を向いてうつむいていたなら、目を上げること。人ばかりを見ていたなら、天におられる神様の方向を見上げることです。「目を上げる」「見る」という二つの命令から、この預言は始まっています。私たちが目を上げたとき、現実が動き出し、やがてその光景が実際に目に入ってくるのです。

聖書には「娘たちは脇に抱かれてくる」とあります。この「脇に抱かれる」という言葉には、世話をされる、あるいは養われるという意味が含まれています。子どもたちがただ抱えられて来るというだけでなく、大切に世話をされ、養われながら運ばれてくるというニュアンスがあるのです。

さらに5節には「その時、あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて喜ぶ」とあります。人は恐れや戸惑い、恐怖を感じる時にも震えますが、圧倒的な感動を覚える時にも震えるものです。神様の素晴らしい御業を前にして、私たちは感動で震えながら喜ぶことになります。

このイザヤ書の熱狂的な箇所においては、息子や娘たちが遠くから集まってくるだけでなく、富や財宝も集まってくると語られています。「海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ」とあるように、海の向こう側から船団が押し寄せ、国々の財宝が運ばれてきます。

彼らはなぜ、わざわざ財宝を集めてくるのでしょうか。それは礼拝をするためです。私たちが住むこの日本という島国においても、国内からだけでなく、海の向こうから財宝が運ばれてくることを祈り求めています。なぜなら、教会の建物を買ったり、土地を買ったり、スタッフを雇ったりするためには、経済的な蓄えが必要だからです。私たちの心を整えるだけでなく、教会の制度や経済的な基盤も整えなければなりません。

しかしそれは、自分たちで一生懸命アルバイトをしてお金を稼ぎ、それを少しずつ積み立てていくというよりも、まずはすべてをもたらしてくださる力ある神様に願い求め、私たちが何をすべきかを教えていただくところから始まるのです。

すべては「目を上げなさい」という命令から出発しています。目に見える現実から判断するのではなく、すべてを行ってくださる天の神様を見上げ、祈り求めます。「子どもたちを集わせてください」と祈るなら、私たちは実際にその光景を目にし、心から感動して喜ぶことになります。そして、子どもたちだけでなく、海外からの富や財宝も集まってくるという約束は、思い描くだけでも心がワクワクするものです。

6節には、ラクダの大群が登場します。ラクダは砂漠の旅に耐え、重い荷物を運ぶことができるとても頑丈な動物です。「ミディアンとエファの若いらくだがあなたのところに押し寄せる」とありますが、彼らは手ぶらで来るわけではありません。「シェバから来る者は皆、金と乳香を携えて来て、主のくすしい御業を宣べ伝える」と記されています。海から陸から財宝が来るだけでなく、彼らは神様の不思議で素晴らしい御業を宣べ伝えるのです。

金と乳香といえば、イエス様がお生まれになった時に博士たちが捧げた贈り物を思い出すことでしょう。彼らは単に富を持ってきたのではなく、礼拝をするために宝物を携えて来ました。今この時代においても、遠くから、また近くから、礼拝者たちが財宝を携えてやって来るというビジョンを私は仰ぎ求めています。

そして彼らは「主のくすしい御業を宣べ伝える」とあります。やって来た彼ら自身が広告塔となって、神様の素晴らしい御業をさらに広めていくことになります。私たちは次世代の教育を目指していますが、それは単に学校の勉強を教えることだけが目的ではありません。御言葉による教育の素晴らしさを体験し、御言葉によって内面から作り変えられた子どもたち自身が、生きた広告塔となるのです。そして、変えられた子どもたちの姿を見て驚き、感動で心を震わせた親たちもまた広告塔となり、神様の御業を宣べ伝えていくようになります。私たちは、そのように具体的に祈り求めるべきです。

単に「子どもたちを来させてください」「親たちを来させてください」と祈るだけでなく、彼らが神様のくすしい御業を宣べ伝えるようになることを祈ります。御言葉の教育によって作り変えられた彼らが、将来の日本を変える器となり、この地域だけでなく、日本全土に神様の栄光を現す子どもたちがどんどん増え広がっていくことを求めていくのです。

子どもたちがやって来ることに関して、マルコによる福音書10章14節のイエス様の言葉が思い出されます。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」(マルコ10:14)。子どもたちが来るのを止めてはならない、来させなさいというのは、イエス様の明確な命令であり、神様の御心です。これは非常に直接的な命令です。

この場面の前後関係を見ると、どうやら弟子たちが、子どもたちがイエス様のところへ行くのを邪魔していたようです。子どもはまだ未熟で、わきまえがありません。そのような不完全な子どもをイエス様の元に連れて行くのはおこがましいと、弟子たちは大人の常識で考えたのかもしれません。「神聖な礼拝の場に子どもはふさわしくない」という思いがあったのでしょう。しかし、その行為はイエス様を喜ばせるどころか、かえってイエス様を憤らせました。

今日においても、もし教会が大人中心の場所になっており、子どもたちを礼拝から遠ざけているような雰囲気があるならば、私たちは悔い改める必要があります。教会という場所は、大人だけが集い、大人向けの催しをするだけの場所ではなく、常に子どもたちを迎えるための準備をしておくべき場所なのです。次世代を招くことにおいて、教会はもっと真剣に祈り求めていかなければなりません。

現在の日本のキリスト教会における礼拝者の平均年齢は60歳前後であり、牧師や教職者の平均年齢は70代だという調査結果もあります。この現状を前に、私たちは本当に悔い改めるべきです。教会をもっと若者や子ども向けに整えなければなりません。

主の命令が「子どもたちを来させなさい、止めてはいけません」である以上、もし教会に子どもたちが近づきにくい空気や言葉遣い、態度、体制があるのなら、教会は悔い改めるべきです。「次世代の教育なんてどうせ無理だ」という不信仰な思いが、皆さんの心のどこかに潜んではいないでしょうか。子どもたちが来ることを妨げている要因があるなら、それをしっかりと悔い改め、イエス様の「来させなさい」というご命令を固く握りしめて祈り、具体的な体制を整えていくべきです。

今日の御言葉にある神様の約束は、子どもたちや家族がこぞって礼拝に回復され、帰還してくること、そして同時に栄光の富が入ってくるということです。教会開拓の歩みにおいて最も重要なのは、礼拝の回復と、若い次世代、子どもたちの回復です。私たちはこのことにこそ心を留め、準備を進めるべきです。

次世代の若者や子どもたちが来ることを妨げている要因は、私たち自身の不信仰かもしれません。イエス様は「止めてはいけません。子どもたちを来させなさい」と言われました。ですから、私たちは自身の心の内を点検し、悔い改めるべきところを悔い改め、栄光の次世代がイエス様の元へ来るための準備をしっかりと整えるべきです。今一度、自分たちを点検し、悔い改め、具体的な準備を整えましょう。そして、この栄光の次世代を迎え、子どもたちだけでなく、必要な富や財宝ももたらされるように祈り求めます。次世代の養育の働きと、神様のためのあらゆる働きが祝福されることを信じます。

祈りの中でも確認したように、イエス様の御心は、次世代の子どもたちを御元に連れて行くことです。私たちの内にある、子どもたちが教会に来ることを妨げている要因や、怠けている心、また「本当に実現するのだろうか」と信じきれない思いを取り除く必要があります。神様は「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従えよ」と命じられました。その命令を固く握りしめ、歩みを進めていかなければなりません。

海の向こうから富をもたらし、それを用いて礼拝を回復させてくださるよう祈ります。かつてキュロス王の時代に礼拝が回復したように、今の時代に私たちを用いてくださるよう願います。主の宣言の通り、「エジプトの労苦の実、クシュの商い、背の高いセバ人」(イザヤ45:14)がやって来て、確かに神が生きておられることを彼らが知るようになりますように。そして、もたらされた財宝を用いて礼拝が回復されることを信じます。私たちがまだその働きに向けて整えられていない部分があるなら、神様に許しを請い、まずは私たち自身の思いを神様に向け、この次世代を育てる働きのためにしっかりと立ち上がっていくことができるようにと祈ります。

【結論】

教会の未来と礼拝の回復は、次世代の子どもたちを招き入れることにかかっています。大人の常識や不信仰によって子どもたちが神様の元へ来ることを妨げる姿勢を悔い改め、イエス様の「来させなさい」という命令に純粋に従う時、神様は必要な富や人材を集め、素晴らしい御業を見せてくださいます。私たちは目に見える現実にとらわれず霊的な目を上げ、次世代教育と教会の体制づくりに、信仰を持って具体的に取り組んでいくべきです。

主日礼拝 全能者の翼の陰に避け所を求めて来る者に(ルツ記 2:5-12)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

ルツ記に登場するユダヤ人の11のあいさつ

本日の御言葉 ルツ記 2:5-12

 

 若い人が初めて社会へ出た時、人々の冷たさに驚くことがあります。「こんなにも人は急いでいるのか」「こんなにも社会は余裕が無いのか」「こんなにも、弱い者は置いて行かれるのか」と、心が削られるような事があります。人の視線にさらされ、評価され、少しでも出遅れたら取り残されるように感じることがあります。

人は鬼のように接して来る事がありますし、それゆえに、自分も鬼のようにならなければ生きていけないような場面もあります。なぜこの世はそこまで乾いているのでしょうか?それは、全ての人が持つ罪のゆえです。

 そのような世のただ中、全能者なる主を避け所としたルツが入った畑は、はからずも、ボアズの畑でした。

それは、主が導かれたからです。そこで交わされることばは、怒声でも嫌味でもなく、「主があなたがたとともにおられますように。」と主人が挨拶し、労働者は「主があなたを祝福されますように。」と返します。

彼らは、知っていたからです。畑を実らせるのも、導くのも、自分たちの力によるのではなく「主である」と。

 

 その日ボアズは、自分の畑に、一人の若い女が落ち穂を拾い続けているのを見つけました。身なりは質素で、髪は汗で額にはりつき、喉が渇いている様子です。人々は彼女を「モアブの女」、異邦の女と呼びました。彼女に許されているのは、人々がもう刈り取った後に残された、わずかな落ち穂を拾う事だけです。

 人はそういう人を、「かわいそうな人」「 出遅れてしまった人」という程度にしか見ないかもしれませんが、ボアズの目には、彼女は全く違って見えました。 「全能者の翼の陰に助けを求めて来た」。。。

 ボアズは、彼女が何を捨てて故郷を出たのか、何を頼って来たのかを知っており、そこを評価しました。
このボアズの姿に、私達の主イエス・キリストの姿があります。主は、この世で額に汗しながら、渇いて生きる私たちを、招き入れ、罪に売られていた私たちをご自身の血によって買い戻してくださる方です。
 主は、その翼の下に避け所を求めて来る、全ての人たちの、小さな忠実を見落としません。誰にも見られずにしている働きも、流して来た涙も、誰にも気づかれずに祈る祈りをも、「すっかり聞いている」お方です。

 

 ボアズはルツに言います。『主があなたのしたことに報いてくださるように。』 主は、あなたが誰にも知られずにしてきた事、主のためにした、どんなに小さく目立たない事も見ておられ、報いてくださいます。

また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。
 彼がここで言った「豊かな報い」とは、「完全な報い」、未払いが一切無い報いです。 主は、けちではありません。「これだけ働いたから、もったいないけれど、これだけだけ返しておこう」、というお方ではなく、報いを惜しむ方ではありません。完全に、あふれんばかりに、豊かに報いてくださるお方です。

 

 ボアズは、朝から働いている彼女の渇きを見抜いて、言います。「若者たちが汲んだ水を、あなたも自由に飲んでよい」と。 イエス様も同じです。世に疲れ、罪に疲れ、渇いている私達を見て、言われます。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』(ヨハネ7:37

 イエス様に頼って来た私たちは、遠慮しなくてよいのです。むしろ、「イエス様、私は渇いています」「イエス様、助けてください」「イエス様、潤してください」と、大胆に、恵みの御座に、近づいて良いのです。

 ボアズはさらに、ルツに言いました。 「私は若者たちに、あなたの邪魔をしてはならないと、きつく命じておきました」 なんと力強いことでしょう。世では、立場の弱い人は、すぐ押しのけられ、意地悪されます。

弱い人に、出遅れた人に、厳しく容赦がありません。恵みを受けようとすると、妨げるものが起こります。

 けれど、まことのボアズであるイエス様は、私たちがその恵みの中へ入って来る時、周囲の者に「邪魔をしてはならない。」と、きつく命じてくださいます。 全能者なる主に避け所を求めた人が、導かれていく畑には、恵みの落ち穂が、わざと落としてあります。主は私達の小さな忠実を知っておられ、渇きを知っておられ、心の痛みを知っておられ、わたしの元に来て命の水を遠慮せずに飲みなさい、と言って下さいます。

 

 私達は今日も、まことのボアズであるイエス・キリストの翼の下に、避け所を求め、入って行きましょう。

主の御名を呼んで主に目を留めていただきましょう。祝福の挨拶が交わされている聖なる集いへと入ってゆき、そこで身を低くし、ふんだんに落とされている恵みの落ち穂を豊かに拾って自分も家族も満腹になり、豊かに潤され、完全なる報いを得ていく私たちでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

全てを砕き、全ての助けがある救いの岩キリスト(ダニエル2:26-49) 早天祈祷会 2026年3月20日(Fri)

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【概要】

ダニエルによるネブカドネザル王の夢の解き明かしを通して、歴史を支配し永遠の国を築かれる神の主権と、永遠の岩であるイエス・キリストに信頼し避け所とすることの重要性を語るメッセージ。

【聖書箇所】

ダニエル2:26-49

ダニエル2:21

ダニエル2:28

ダニエル2:31

マタイ24:6-7

黙示録6:1-8

【慰めの言葉】

【励ましの言葉】

【勧めの言葉】

【***詳細***】

今朝、私たちが恵みをいただく聖書の言葉は、ダニエル書2章26節から49節です。初めに、ダニエル書2章31節の言葉を皆さんと一緒に宣言したいと思います。「王様、あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ、その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。」

私たちの愛する主イエス様は、昨日も今日も、そしていつまでも同じお方です。ダニエルの時代も、また今日も、私たちの永遠の岩なる主として堅く立っておられることを感謝します。この神様に避け所を置く人は、決して揺るがされることがありません。どうか、この揺るがされない平安と安心を、今朝私たちが得ることができますように。

ダニエル書は、旧約聖書における黙示録とも言える書物です。終わりの時代に起こる出来事が秘められており、それが解き明かされています。ダニエル書には、ダニエルの時代から後に起こる世界の歴史が非常に正確に記されています。実際に、神様がダニエルを通して語られた預言の言葉の通りに、私たちが学校で学ぶ世界史が動いていきました。あまりにも正確に歴史が予言されているため、「ダニエル書は歴史の出来事が起こった後、紀元後200年頃に書かれたのではないか」と疑う人たちが出るほどです。しかし、それはあり得ません。なぜなら、バビロン捕囚の時代に記されたダニエル書の預言に基づき、トーラーやタルムードといった文献が後代に記されていっているからです。神様は確かに歴史の中で働いておられ、今を生きている皆さん一人ひとりの中にも働いておられます。

2026年3月19日の学びの箇所では、ダニエルがネブカドネザル王の前に連れて行かれる場面を見ました。ユダの捕囚の民の中から、「王様の夢の解き明かしができる男を見つけました」と報告されたのです。王様は、自分の見た夢のことで心がひどくかき立てられ、夜も眠れず、眠りを奪われるほどに思い悩んでいました。王様はバビロンの知恵者たちに夢の解き明かしを求めましたが、彼らは誰一人として何の役にも立ちませんでした。彼らが王様の周りで取り繕い、高い地位を得て甘い汁を吸おうとしているだけの人々であることがすっかり露呈してしまったため、王様は「バビロンの知恵者を皆、殺してしまえ」という厳しい命令を下しました。

しかし、ダニエルの知恵と思慮によってその処刑は一時的に止められました。ダニエルが友人たちと共に神様に祈り求めたところ、王様が見た夢の内容とその解き明かしが神様から与えられたのです。普通、他人が見た夢の内容など誰にも分かりません。けれども、すべての人の心を探り知っておられる神様が、その夢をダニエルに教えてくださったのです。それはダニエルたちが祈り求めたからです。皆さんも、自分では解決できない問題や課題に直面した時は、神様に祈り求めるべきです。そしてその結果、解決が与えられた暁には、ダニエルが真っ先に神様をほめたたえたように、私たちも真っ先に神様を賛美すべきです。

こうしてダニエルは王様の前に立ちました。王様はダニエルを問い詰めます。「あなたは、私が見た夢とその解き明かしを示すことができるのか。」ダニエルはまだ若者でしたから、とても緊張して震え上がるような場面だったかもしれません。しかし、ダニエルは堂々としていました。彼には神の霊が宿り、主の御手が豊かに置かれており、神様から解き明かしを与えられたという確信と、豊かに蓄えられた神様の言葉があったからです。

ダニエルは王様にこう答えます。「王様が求められる秘密は、この世のどんな知恵者にも解き明かすことはできません。しかし、天には秘密をあらわす一人の神がおられます。」そして、ダニエル2:28にあるように、「その神が、終わりの日に起こることをネブカドネザル王に示されたのです」と告げました。

ネブカドネザル王は、これまで知恵者たちの言い訳や、「神」という言葉を聞き飽きていたため、最初は膝を組んで冷ややかに聞いていたかもしれません。しかし、ダニエルが「王様、あなたが寝床で、この後何が起こるのかと思いを巡らしておられた時…」と語り出すと、王様はハッとしました。「確かに私は思いを巡らしていた。それをなぜこの若者が知っているのか」と驚いたことでしょう。

そしてダニエルは、ダニエル2:31の言葉を語ります。「王様、あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ、その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。」王様は目を見開いて震え上がったはずです。「本当にそうだ。私が見たその像は巨大で恐ろしく、私は怯えていたのだ。誰にも言っていないことを、この若者は言い当てたぞ」と。

ダニエルはさらに詳細に夢の内容を語り続けます。その像の頭は純金、胸と両腕は銀、腹と桃は青銅、すねは鉄、そして足の一部は鉄、一部は粘土でできていました。王様はダニエルの口から出てくる言葉の一つ一つに震えおののいたことでしょう。王様自身が思い出すことすら恐ろしかった、あるいは誰にも打ち明けられなかったその像について、ダニエルは正確に描写していったのです。

さらに驚くべきことに、ダニエルはこう続けます。「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土が混じり合った足を打ちました。すると大きな音がして、足もすねも桃も胸も頭も全部が粉々に砕け散り、夏の脱穀場のもみ殻のように風に吹き払われて、跡形もなくなってしまいました。そして、その像を打った石は大きな山となって、全土に満ちました。これが夢の内容です。」

これを聞いて、王様は立ち上がり、目を見開いて震えていたことでしょう。自分の心の中にしかなかった恐れと不安を、この若者が完璧に言い当てたのです。しかし、ダニエルの言葉はこれで終わりではありませんでした。「これから、その解き明かしをいたしましょう」とダニエルは言いました。

ダニエルは一つ一つの意味を解き明かしていきます。「王様、あなたがその金の頭です。」

つまり、一番上の金の頭は、ネブカドネザル王が治めるバビロン帝国を指していました。当時のバビロンは世界最強の国であり、富、権力、政治、文化のすべてにおいて頂点に立つ黄金の国でした。しかし、どれほど黄金のように輝き、世界最強を誇る国であっても、永遠には続きません。やがて衰え、次の国が起こされるのです。神様は国を起こし、国を衰退させ、王を立て、王を退け、歴史の時を移されるお方です。

そして実際の歴史も、その通りに動いていきました。バビロンはメディア・ペルシア帝国によって滅ぼされます。像の銀の胸と両腕は、このメディア・ペルシア帝国を指しています。二つの腕が示すように二つの国の連合体であり、バビロンほどの統一感はありませんでした。

その次に青銅の国が起こります。これは歴史上のギリシャ帝国です。アレクサンドロス大王が中東からアジアまでを瞬く間に制圧し、世界を支配しました。これにより全世界の標準語がギリシャ語になり、後に新約聖書がギリシャ語で書かれ、世界中に福音が広がる土台が作られました。

さらにその下、鉄のすねが表しているのはローマ帝国です。鉄のように強く、あらゆる金属を打ち砕くような強力な国でした。すべての道はローマに通ずると言われるほど世界を統一し、交通網を整備しました。そして、このローマ帝国の道を通って、キリストの福音が全世界へと告げ知らされていくことになります。人間の目には強い国が勝って弱い国が滅びるように見えますが、神様はバビロン帝国の時代にすでにこれらの歴史をあらかじめ示しておられました。神様こそが歴史の主権を握っておられるのです。

そして、一番下の足の指先は、鉄と粘土が混ざり合った状態でした。強い部分と脆い部分が混在する現代の世界の姿を表しているというのが一般的な解釈です。しかし、さらに深い解釈があります。ヘブライ語で「混じる」という言葉は「アラブ」と発音します。つまり、アラブ諸国が世界で力を持つ時代が来ることを示唆しているとも考えられるのです。現在、アラブ・イスラム圏の人々は世界の人口の約3分の1に近づいています。黙示録6:1-8には四つの馬が登場しますが、4番目の馬の「青ざめた」という色は、ギリシャ語では「若葉色(黄緑色)」を意味します。サウジアラビアやイラクなど、イスラム諸国の国旗の多くには、この緑色が使われています。彼らが世界中に大きな影響を与え、時には剣によってキリスト教徒が迫害され、多くの殉教者が生まれてきた歴史もあります。

マタイ24:6-7にあるように、戦争や飢饉、地震の噂を聞き、人々の愛が冷え回る時代。まさに今、私たちはそのような終わりの時代のしるしを見ています。しかし、その鉄と粘土が混じり合った時代に、人手によらずに切り出された「一つの石」が飛んできて、その像を粉々に打ち砕くのです。

この「人手によらずに切り出された石」とは、永遠の岩なるイエス・キリストのことです。イエス様は人間の手によらずに処女マリアから生まれ、人間の手によらずに死からよみがえられました。このキリストが地上のあらゆる王国を打ち砕き、キリストの王国、神の国が全世界に満ちて永遠に続く大きな山となるのです。

どんなに世の中の国々が政治力や軍事力で圧倒していても、やがてすべての国を打ち砕く岩なるキリストが再臨されます。その神の国は決して滅びることがありません。ですから私たちは、この岩なるキリストにとどまり続けるべきです。

海辺の岩場に行くとカニがたくさんいます。大きな荒波が岩に打ち付けても、カニは岩の隙間にすっと隠れて、全然怖がりません。岩の隙間にいるから安心なのです。同じように、私たちの人生にどんな激しい嵐や荒波が来たとしても、この永遠の岩であるイエス様に避け所を見つけ、そこに身を隠すなら、私たちの心は平安であり、目の前に迫る危険をやり過ごすことができます。岩なるキリストがすべてを解決し、私たちを勝利と平安のうちに住まわせてくださるからです。

ダニエル2:21には「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知恵ある者には知恵を、知識ある者には知識を授けられる」とあります。ダニエルはこの神様に信頼し、ネブカドネザル王の時代だけでなく、その後のベルシャツァル王、メディアのダレイオス王、ペルシアのキュロス王の時代に至るまで、長く栄え続けました。神様は、神様に信頼する知恵ある者を立ててくださるのです。

ダニエルが夢の解き明かしをすべて終え、「この解き明かしは真実です」と締めくくった時、ネブカドネザル王はダニエルの前にひれ伏しました。ダニエルを神のように思い、なだめの香りのささげ物をささげるように命じたのです。ダニエルとしては困惑したでしょうが、王様は「まことにあなたの神は神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と告白しました。そしてダニエルを高い位につけ、彼の願いによって三人の友人たち、シャデラク、メシャク、アベデネゴもバビロン州を治める役人に任じられました。こうしてダニエルの信じる神様が敬われるようになったのです。

歴史を動かし、すべての秘密を明らかにしてくださる神様は、今、皆さんの中におられます。地上の王や国々は廃れますが、神様は永遠です。皆さんが、この永遠の岩であるキリストに身を寄せるなら、皆さんの人生は永遠に安泰です。私たちは皆、やがてこの地上での命を終えます。しかし、決して滅びないイエス様を主として頼るなら、キリストと共に永遠の天国で生きることができます。どうか皆さんが、この終わりの時代にあってもイエス様に信頼し、ダニエルのように栄えていくことができますように。

【結論】

地上の国々や権力はやがて砕かれ滅び去りますが、神の主権は永遠であり、歴史は神の御手の中にあります。どのような終わりの時代の混乱や人生の荒波の中にあっても、人手によらずに切り出された永遠の岩であるイエス・キリストに避け所を置き、信頼し続けること。そうするならば、私たちは決して揺るがされることなく、キリストと共に永遠の平安と勝利の中を歩むことができるのです。

天には秘密をあらわすひとりの神がおられ(ダニエル2:17-30) 早天祈祷会 2026年3月19日(Thu)

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【概要】

ダニエルが直面した死の危機を通して、自らの力や世の知恵に頼るのではなく、信仰の友と共に天の神に憐れみと思慮を求め、祈りによって問題を解決し神の栄光を現す生き方について学びます。

【聖書箇所】

ダニエル2:17-18

ヤコブ1:5

ダニエル2:19

ダニエル2:20-23

ダニエル2:28

ダニエル2:30

【励ましの言葉】

神様は願い求める者に、惜しげなく知恵を与えてくださり、決して遅れることなく絶妙なタイミングで助けてくださいます。

【勧めの言葉】

問題に直面したときは一人で抱え込まず、信仰の友と共に祈り、御言葉を握って神様の憐れみを求めましょう。そして解決が与えられたら、まずは神様に賛美と感謝を捧げましょう。

【***詳細***】

今朝は、ダニエル2:17-32から恵みをいただきます。初めにダニエル2:17-18を皆さんと共に宣言します。

「それからダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。彼らはこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知恵者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」(ダニエル2:17-18)

2026年3月18日の夜もダニエル書から学びましたが、この場面において語るべきことがたくさんありますので、前回の続きとしてこの箇所から始めます。

当時、ダニエルたちはネブカドネザル王に仕える身となっていました。そこにはバビロンの知恵者たちがたくさんいました。バビロンという国は、神様の価値観からかけ離れた場所であり、罪がはびこり、神様の御前において汚れたことでも平気で行っているような国でした。そんな中でダニエルたちは、神様に対する純潔をしっかりと保とうとしていました。口に入るものから、耳から入るものに至るまで気をつけ、偶像礼拝に満ちた国の中で自分自身の霊性をいかに清く保つかということを、彼らはしっかりと意識していました。

そのような状況の中で、神様はネブカドネザル王を通してご自身の栄光を現そうとされました。どのようにして栄光を現すのかというと、それは一見すると危機的な状況を通してでした。神様は、ネブカドネザル王に、心が騒いで夜も眠れなくなるような、霊が掻き立てられて辛くてしょうがないような夢を見させました。しかしあいにく、王様はその夢の内容を思い出せなかったのです。

そこで王は、バビロンの知恵者たちに「私は夢を見た。それを解き明かしてもらいたい」と言いました。しかし知恵者たちは、「まずその夢の内容をお語りください。そうすれば、解き明かしてご覧に入れましょう」と答えました。これがネブカドネザル王の怒りを買ってしまったのです。王は気づきました。「この者たちは、私が夢の内容を語ったら、適当なことを言うつもりだ。何の知恵も知識も得ていないのに、崇高なる神様に願い求めてもいないのに、今まで適当なことを連ねて知恵者扱いされ、特別待遇の甘い汁を吸ってきたのだ。こんな者たちを国にはびこらせておくわけにはいかない」と怒り狂ったのです。そして、バビロンの知恵者たちを皆殺しにしろという命令を下しました。その殺される対象の中には、ダニエルたちも入っていたのです。

ダニエルたちを殺すために、アリオクという役人がやって来ました。しかしダニエルは、思慮をもって対処しました。私たちにもこの「思慮分別」が必要です。相手の正論や勢いに対して、同じように勢いで返したら、話は破綻し、相手をさらに怒らせてしまいます。ほんの些細なことで破壊的な破滅へと関係が至ってしまうことはよくあります。夫婦喧嘩でも、テレビのチャンネルの食い違いだけで互いをなじり合い、修復不可能になって離婚に至ってしまったという話を聞くほどです。離婚だけならまだしも、この時のダニエルの状況は、バビロン中の知恵者を皆殺しにするという、シャレにならない深刻な事態でした。

これを鎮めるためには、神様から知恵と思慮分別をいただき、それをもって対処する以外に方法はありません。相手が鬼の形相で怒り狂って迫ってきた場合、皆さんは主にある平安と思慮分別をもって対処しなくてはなりません。相手の勢いに対して勢いで返したら、話はもっとこじれてしまいます。相手の意図をしっかりと探る必要があります。これはビジネスの場面でも同じです。相手が一体何を求めているのか、冷静になって本来の答えを解き明かしていかなくてはなりません。私たちは本当にこの思慮を求めていくべきです。

ダニエルたちは、自分たちの知恵や思慮には頼りませんでした。王様の夢の内容を言い当てるなどということは、人間には決してできないことだからです。適当に当てずっぽうで「王様、あなたの夢の内容はこうです」と言うのは占い師の手法であり、ここでは一切通用しません。では、ダニエルたちは何に頼ったのでしょうか。彼が真っ先にしたことは、自分たちの祈りの共同体にこの問題を持ち帰り、皆で心を合わせて祈ることでした。ダニエルは王様に取り入ろうとはしませんでしたし、コネを使おうともしませんでした。世の中の人は取り入ったりコネを使ったりしてのし上がっていくかもしれませんが、ダニエルたちはこの問題を、すべてをご存知である神様のもとへと持っていったのです。

私たちは問題が起きると、一人で抱え込んで悩んで、自分で解決しようとする性質があります。しかしダニエルは違いました。共に祈る場に問題を持っていき、そして彼らは祈りました。「どうか憐れみをください」と祈ったのです。

「彼らはこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知恵者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」(ダニエル2:18)

彼らは「自分たちに知恵がありますように」「自分たちが優秀でありますように」とは祈りませんでした。ただ神様の憐れみを乞い願ったのです。この憐れみは単なる同情ではありません。神様の約束に基づいたものです。聖書の至る所に「神は憐れみ深い」と書かれています。その憐れみを求めたのです。御言葉を握って祈ってください。「神様、御言葉にはこう書いてあります。だからこそ、神様、どうか助けてください」と祈るのです。御言葉は真実ですから、神様はそれに応えてくださいます。

神様は、惜しげなく求める人には、惜しげなく与えてくださいます。ヤコブ1:5にはこう書かれています。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)

神様に願い求めるべきです。神様は願い求めたなら、惜しげなく、咎めることなく与えてくださいます。ダニエルたちは、主にある祈りの交わりの中で、兄弟たちと共に祈り、願い求めました。バビロンの知恵者たちと一緒に滅ぼされることがないようにと願い求めました。私たちも願い求めるべきです。不信仰な世の中において、王の気まぐれによって周りの人たちと共に滅ぼされてしまうような状況を、黙って受け入れてはなりません。天の神様がおられます。その神様に祈り、願い求めるべきなのです。

すると、夜の幻のうちに秘密がダニエルに啓示されました。祈りが聞かれたのです。これは遅すぎず、早すぎず、絶妙のタイミングでした。神様の助けが間に合わないということはありません。人の目には遅いと見えることがあっても、神様が皆さんを助けようとする熱心があるならば、決して手遅れになることはありません。

夜の幻のうちに秘密が示された時、ダニエルの第一の反応は何だったでしょうか。ピンと解決策がわかって、すぐに王様のところへ走っていったのではありません。彼らの第一の反応は賛美でした。

「そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(ダニエル2:19)

ダニエルは真っ先に天の神を褒めたたえました。解決が与えられたら、すぐに神様を忘れて行動に移るというのは違うやり方です。秘密を啓示してくださった神様をこそ、まずは感謝し、賛美するべきです。ダニエル2:20-23には、彼らの感謝の祈りがわざわざ四節も紙面を割いて記されています。このことは私たちに、主から解決が与えられたら、時間を割いて、心を尽くして神様に賛美と感謝を捧げるべきだということを物語っています。

ダニエルはこう祈りました。神の御名がとこしえからとこしえまでほむべきこと。知恵と力は神のものであること。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知恵者には知恵を、理性ある者には知識を授けられるお方であること。

今、ネブカドネザル王が絶対的な権力を駆使して、バビロンの知恵者たちを短絡的に皆殺しにしようとしています。しかし、その王を立てたのは神様です。王を廃する権威を持つお方も神様です。知恵ある者には知恵を与え、理性ある者には知識を授けてくださいます。

皆さんも、主がどのようなお方であるかを、賛美や感謝の祈りの中に混ぜ込むべきです。神様は、深くて計り知れないことも、隠されていることも現されるお方だとダニエルは宣言しています。暗闇の中に隠された宝、秘められている財宝を神様が与えてくださるのです。主は暗黒の中にあるものを知り、ご自身に光を宿しておられます。

そしてダニエルは祈りました。

「私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜り、今、私たちがあなたに乞い願ったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」(ダニエル2:23)

知恵が与えられたとしたら、それは私たち由来ではなく、神様由来のものです。だからこそ、神様に感謝し賛美すべきなのです。

こうして夜の幻が示され、神様に感謝を捧げたダニエルは、早速役人のアリオクのところへ行き、「バビロンの知恵者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の御前に連れて行ってください。私が王様にその解き明かしを示します」と言いました。ダニエルは自信を持っていました。神様からありありと幻が示されていたので、王の前に出ても上がることも忘れることもないという自信があったのです。

アリオクは急いでダニエルを王の御前に連れて行き、「ユダの捕囚の中に、王に解き明かしのできる一人の男を見つけました」と告げました。ダニエルの当時の身分は、ユダからの捕囚、つまり捕虜です。王様と捕虜との間には、人間の目から見れば圧倒的な身分差があります。私たちも今、どのような社会的身分でしょうか。今の総理大臣と比べたら圧倒的な差があるかもしれません。しかし、この時代を動かしたのは、ユダの捕虜の一人であったダニエルでした。なぜなら、彼には神様の霊が宿っていたからです。

皆さんにも聖霊が宿っています。時代を動かし、王の権力を定め、あるいは廃するのは、神の霊が宿っている皆さんの側なのです。皆さんが日々祈り、悪しき霊に対して「出て行け」と宣言する働きをしています。イエス様にとどまっているならば、皆さんの方がこの世の権力よりも上なのです。イエス様は「わたしには天においても地においても、一切の権威が与えられている」とおっしゃいました。そのイエス様にあって、皆さんは世の悪しき霊や支配者たちを裁くのです。

ダニエルは王様に言いました。「王が求められる秘密は、知恵者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密を現す一人の神がおられて、この方が終わりの日に起こることをネブカドネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。」(ダニエル2:28)

天には、秘密を現す一人の神がおられます。この神様にあって解き明かせないものは何一つありません。わからないことや問題があった場合、この天におられる神様に告げて願い求め、解決をいただくべきなのです。イエス・キリストの御名によって求めるなら、喜んで与えてくださいます。私たちは何かあるたびに祈り続けるべきです。イエス様でさえ「わたしは父から聞いて行う」とおっしゃいました。私たちが神様抜きで当てずっぽうに行動するなら、それこそ手足を切り離され、家がごみの山にされてしまうような破滅に向かいます。私たちはまず神様に求めるべきです。

ダニエルはあの時すでに、「王様、あなたは寝床でこれこれを思い巡らされました」と、すべてをご存知の神様から教えられて知っていました。なぜこの秘密が現されたのでしょうか。

「この秘密が私に現されたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。」(ダニエル2:30)

ダニエルは「自分に誰よりも知恵があるからではない」と告白し、神様を前面に出しました。パウロやヨセフと同じです。ヨセフもファラオの前に進み出た時、「神が解き明かしてくださる」と言いました。なぜこの一連の騒動が起きたのでしょうか。それは神様が全世界にご自身の栄光を示されるためです。今、この世の中で騒動が起きているのも、私たちが神様に祈り求め、神様が全世界にその栄光を告げ知らせるためなのです。

今日私たちが知るべきは、まず神様に願い求めるべきだということです。皆さんの中に知恵が欠けた人がいるでしょうか。思慮を求めている人がいるでしょうか。思慮がないゆえに人を怒らせ、物事を破壊して痛い思いをしてきた人は、神様に願い求めてください。神様は惜しげなく、咎めることなく与えてくださるお方です。知恵と思慮分別を求めましょう。そして、皆さんがこの時代に平和をもたらす者として用いられ、王よりも上に立つ権威あるお方、イエス・キリストの御名によって、この世界を治めていく者となりますように。

私たちの祈りを聞いてくださる天の父なる神様。この日本の地において、あなたを礼拝する信仰が失われてしまったかのような状況の中で、私たちはしつこくあなたの御名を掴んで祈り求めています。どうか私たちの祈りを聞き、全世界に隠された宝、秘められた財宝を見出させてください。一人ひとりがこの時代のダニエルのように大いに用いられますように。そして次世代の子どもたちに、ダニエルのようなディシプリン教育を施していくことができますように。子どもたちを神様のもとに連れてくるケアの働きから、一切の妨げを取り除いてください。すべての秘密を現される神様が、私たちがなすべきことを示してくださることを感謝し、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

【結論】

この世にあって直面するあらゆる問題に対して、私たちは自らの知恵ではなく、天にいます秘密を現される神様に祈り求めるべきです。祈りによって知恵と思慮分別をいただき、神様の栄光をこの世界に示していく者となりましょう。

いい加減だった事があらわにされた世の知者、真の知恵を全能者に求めるダニエル(ダニエル2:1-16) 2026/3/18 水曜夜礼拝

Youtube動画

【概要】

ダニエル2:1-16を中心に、ネブカドネザルの夢騒動の中で露わになった人間の知恵の限界と、神に伺い求めたダニエルの「知恵と思慮」「祈り」の歩みをたどり、御言葉を心に蓄え主に信頼して歩む招きを示すメッセージです。

【聖書箇所】

  • ダニエル2:1-16

  • ダニエル2:17-19

  • マタイ7:7-8

  • ヤコブ1:5

  • 詩編37:1-2

  • ルカ18:27

【慰めの言葉】

  • 世の中に解決の手立てが見えない時でも、主は先んじて働いておられ、私たちの祈りに耳を傾け、道を備えてくださる。

  • 神には不可能なことはありません。心が騒ぐときも、主は不安を平安へと変えてくださいます。

【励ましの言葉】

  • 不可能に見える課題に直面した時こそ、すべてを知り不可能を可能にされる神に祈り求めよう。御言葉を心に刻み、日々主に聞き従う者に、神は知恵と解決を与えられる。

【戒めの言葉】

  • 神の民でありながら御言葉に従わない歩みは、混乱と行き詰まりを招く。上辺の霊的言葉や体裁でごまかさず、神に伺いも立てずに「できません」と諦める態度を捨てよう。

【勧めの言葉】

  • 御言葉を暗唱し、長期記憶に蓄える習慣を持とう。ダニエルのように「知恵と思慮」をもって応対し、状況を見極め、時を願い出て、仲間とともに祈る歩みを身につけよう。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 御言葉を後回しにし、祈りを怠って自力で解決しようとしてきた心を主の御前に認め、方向転換しよう。神ならぬ「空気」や人の機嫌を伺う生き方から離れ、主の御前に出て真実を求める者になろう。

【***詳細***】

今日の箇所はダニエル2:1-16です。はじめに1節を宣言します。「ネブカデネザルの治世の第2年に、ネブカドネザルはいくつかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなくなった。」(ダニエル2:1)

この一節は、神が歴史に介入し、時代を動かす起点となった出来事を示しています。王の心が騒ぎ、眠れないほどの夢。人間の力では解けない問いが、権力の頂点に立つ者を不安にさせました。私たちの時代にも、社会や個人に心を騒がせる出来事があります。人間の知恵では届かない問題があり、世の中の手立てでは解けない課題が山積みです。けれども、主に信頼する者、御言葉を心に蓄える者は、そこに神からの解決を受け取ることができます。

ダニエルの時代、神の民イスラエルは本来、神に従うはずでしたが、多くは御言葉に従いませんでした。バビロン捕囚という厳しい現実の中で、わずかな少年たち—ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザルヤ—が、御言葉を心に刻み、身を清め、神に喜ばれる者であり続けました。神はこの「少数の忠実」を通して、ご自身の栄光を世界に示そうとされました。数は問題ではありません。御言葉を真に宝とする者がいるかどうか、そこに主の働きが始まります。

本文に進みます。「そこで王は、呪法師、祈祷師、まじない師、カルデヤ人を呼び寄せ、自分の夢を告げて、その解き明かしをさせようとした。彼らが王の前に来たとき、王は彼らに言った。『私は夢を見た。私の心は、その夢の解き明かしを知ろうとして騒いでいる。』」(ダニエル2:2-3)

王は帝国中の知恵者を集めました。しかし、彼らは人間の知恵の限界を越えることができません。「カルデヤ人は王にアラム語で言った。『王よ、永遠に生きられますように。どうか夢をしもべたちにお告げください。そうすれば、私たちは解き明かしをいたします。』王はカルデヤ人に答えた。『私が決めたことは確かである。もしお前たちが、私にその夢とその解き明かしを知らせないなら、お前たちは手足を切り落とされ、お前たちの家はゴミ捨て場となる。』」(ダニエル2:4-5)

王は「夢の内容そのもの」を言わずに解き明かしを求めました。これは、人間の知恵が本物かどうかを試す厳しい要求でした。「彼らは再び答えて言った。『王はしもべたちに夢をお話しください。そうすれば、私たちはその解き明かしを示します。』王は答えた。『私は確かにお前たちが時を稼いでいると見抜いている…お前たちが夢とその解き明かしを知らせないのなら、お前たちのためには同じ法令が一つのものとして定まっている。』」(ダニエル2:7-9)

このやり取りの中で、世の知恵が無力であることが暴かれます。最終的に彼らはこう告白します。「カルデヤ人は王の前で答えて言った。『このことを王に知らせることができる者は地上にいません。どんな王、大王、統治者も、このようなことをどんな呪法師や祈祷師やカルデヤ人に求めたことはありません…このことを知らせることができるのは、神々のほかにはありません。彼らは人間と共に住んではいません。』」(ダニエル2:10-11)

ここで、神の出番が整えられます。人間の限界が露わになる時、天の知恵が輝きます。しかし王は怒り、知者たちを皆殺しにする命令を出します。「このため、命令が出され、知者たちは殺されようとした。ダニエルとその仲間たちも殺されることになった。」(ダニエル2:13)

絶体絶命です。ここでダニエルがどうしたか。「そのとき、ダニエルは王の親衛隊長アルヨクに、慎重で思慮深い言葉で答えた。『なぜそのような厳しい命令が王から出たのですか。』するとアルヨクはダニエルにその事情を知らせた。ダニエルは王のところに入り、王に願って、夢の解き明かしを示すために、時を与えてもらうように求めた。」(ダニエル2:14-16)

ここに、御言葉を心に蓄えた者の姿があります。

  • 「慎重で思慮深い言葉」—状況に煽られず、相手を立てつつ真相に近づく言葉を選ぶ知恵。

  • 「王のところに入り」—恐れに支配されず、与えられた立場で責任を果たす勇気。

  • 「時を求めた」—神が答えをくださると信じ、祈りのための余地を求める信仰。

ダニエルは、自分に超自然的な力があるからといって即答したわけではありません。彼は「時をください」と願いました。これは、神が解決をくださることを信じ、同時に祈りの時を確保するための行動です。実際、この後の節に進むと、彼は仲間とともに憐れみを求めて祈り、神が奥義を明らかにされます。「ダニエルは家に帰り、仲間のハナニヤ、ミシャエル、アザリヤに、この秘密について知らせ、バビロンの知者たちと共に滅ぼされないよう、この秘密のことで天の神のあわれみを乞うように頼んだ。」(ダニエル2:17-18)「その秘密は、夜の幻のうちにダニエルに明らかにされた。」(ダニエル2:19)

この流れは、私たちの人生でも同じです。心が騒ぎ、眠れない夜がある。世の知恵は解決を出せず、状況は一層厳しくなる。しかし、そこで御言葉を蓄えた者は、慎重で思慮深く応え、恐れに支配されず、祈りの時を確保します。主はすでに先んじて働いておられ、祈る者に道を開かれます。

新約の御言葉も、この歩みを力強く裏づけます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)「あなたがたのうちに知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる神に願い求めるがよい。そうすれば与えられる。」(ヤコブ1:5)そして、「人にできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)

私たちはしばしば、カルデヤ人たちの罠に陥ります。表面的な霊的言葉を並べ、儀式めいた行いで自分を装い、究極の問いに直面すると「できません」と肩をすくめてしまう。あるいは「神ならできる」と言いながら、実際には祈らない。神ならぬ「空気」を読み、周囲の反応ばかりを気にして、主の御前に出ることを怠る。けれども、神は今日も招いておられます。真実に御前に出て、祈り求める者に、知恵と思慮を与え、道を開いてくださいます。

御言葉を暗唱し、長期記憶に蓄えることは、単なる知識の積み上げではありません。神からの知恵、思慮分別、見分ける力が養われます。状況判断が整い、目先に振り回されず、主の視点から物事を見る力が与えられます。ダニエルたちは学問に優れただけでなく、主からの知恵によって、王の時代の課題に応える器となりました。神は「人数の多さ」より「心の真実さ」をご覧になります。少数の忠実が時代を照らすのです。

では、私たちはどう応えるべきでしょうか。

  • 御言葉を暗唱する時間を日々の生活に組み込む。たとえば、一日一節を覚え、週ごとに復習する。

  • 困難に直面した時、「時をください」と言える勇気を持ち、祈るための余地を確保する。

  • 言葉を選ぶ。慎重で思慮深く、相手を立てる言い方を心がける。相手の意図を汲み取る思慮を養う。

  • 仲間とともに祈る。ダニエルは一人で抱えませんでした。教会という共同体で祈り合いましょう。

最後に、会衆で心を主に向けて宣言します。「悪を行う者に対して、腹を立てるな。不正を行う者に対して、妬みを起こすな。彼らは草のように、たちまち枯れ、青草のようにしおれるのだ。」(詩編37:1-2)怒りや焦りではなく、主への信頼と待ち望みによって歩むことを、互いに確かめ合いましょう。

主よ、あなたが何かを語ろうとされる時、またこの世に働こうとされる時、私たちの心が騒ぐほどの出来事が起こることがあります。しかし、あなたに信頼し、あなたの御言葉を蓄える者には、解決が与えられます。あなたはすでに先んじて進んでおられます。私たちはそれに従います。どうか、知恵と思慮を与え、祈る心を新たにしてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

【結論】

  • 人間の知恵が尽きるところで、神の知恵が輝く。ダニエル2:1-16はその舞台設定であり、祈りへの扉が開かれる場面である。

  • 無理難題の前で思考停止するのではなく、ダニエルのように「知恵と思慮」をもって応対し、真の神に伺い求めよう。主は求める者に惜しみなく知恵を与え、不可能を可能にされる。

  • 御言葉を心に蓄える者は、慎重で思慮深く、恐れず、祈りの時を確保し、神からの解決を受け取る。少数の忠実が時代を照らす。今日、御言葉を暗唱し、主に信頼して、与えられた場で神の栄光を現そう。作成日: 2026-03-18 19:18:46

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