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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

主日礼拝

世の収穫物が来てひれ伏したヨセフの収穫を得よ(創世記37:5-11)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:Hold on to the dream(Gen37:5-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は収穫感謝祭、主が私達に与えて下さったあらゆる良き実りを感謝する日である。今回はヨセフの箇所からだが、実は彼の夢の解き明かしは収穫に関連したものが多い。本日、それらの夢から恵みを得たい。
 
 最初にヨセフが見た夢は、ヨセフが収穫した束がまっすぐに立ち(ナーツァブ:確立する、安定する)、兄達の収穫物が周りに来てそれにひれ伏す(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、という内容であった。
皆さんは、自分の収穫物に、周りの収穫物が集まって来てひれ伏されたいだろうか?宣言するべきである。
彼の夢の内容は、実は私達が日頃宣言しているイザヤ45:14と共通している。詳しく訳すと次のようになる。
 『それで主は言われる。エジプトの労苦の実と、エチオピアの商品(収入)、身丈の高いセバ人達が、あなたの所に渡って来て、あなたのものとなる。彼らは、鎖(足かせ)に縛られつつあなたの後ろを歩み、進んであなたにひれ伏し(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、嘆願(パーラル:祈る)して言う。「確かに(アフ:本当に、ただ**だけ)神はあなたの内におられ、その神以外に神は無く、他の神々は無である」』
 ヨセフの夢の中で、兄達の収穫物がヨセフの収穫物にひれ伏したが、実に、その夢以上の事が実現した。
後に、ヨセフの手元にはエジプトの労苦の実が全部集まり、エチオピアの商品だけでなく、全世界の商品や儲けも、全て、ヨセフの収穫物と物々交換され、またセバ人だけでなく全世界の人々も、ヨセフの兄達も、ヨセフの後ろを歩み、彼にひれ伏し、「奴隷になります」と言って嘆願した。『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。』(41:39-40) だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
 彼は、奴隷に売られても、恨み言をこぼさず、誠実を養い、いつも「神」を主語として人々と話し、主から見せられた夢は正直に宣言して人に伝えた。たとえ、人から邪険に思われるような内容であったとしても。
 
 ヨセフが牢屋にいた時に解き明かした夢も、収穫に関するものだった(40章)。献酌官は、夢の中では王に捧げる杯を持っており、ぶどうが実ったらすぐ収穫して王に捧げた。彼は、収穫の良いものを王に捧げる志を常に持っていたから、しあわせを得たのだ。しかし調理官は、王のために調理された食べ物のかごを頭の上に乗せ、鳥についばまれても放置していた。すると実際、彼自身が木に吊るされ、鳥についばまれるままとなってしまった。私達も、収穫を得たなら、王なるキリストに、いつでも真っ先に捧げる志を持っているべきである。そうするなら、王の御そば近くで仕える幸いを得られるが、もし、最高の礼拝を捧げようという頭の思いや考えを、悪霊やサタンに貪らせたままなら、やがて私達自身が、ついばまれる者となってしまう。
 
 その後のパロが見た夢には、これから世界的な7年の大収穫の年が来て、その後、非常に厳しい大飢饉の7年間が来る、という意味があった。ヨセフは、神様のなさろうとする謎と数字の秘密を解き、うまく対応して生き延びるだけでなく、世界一の大国にのしあがる術まで、しっかりアドバイスしたので、パロは言った。
 神がそれをあなたに知らされたのであるなら、あなたのように神の霊が宿った知恵ある者は、他にいない。
あなたが私の家を治めてくれ、と。 ヨセフのように、いつも神を証し、誠実を養い、主から示された事を正直に伝えるなら、あらゆる秘密を解き明かし、これから起こる事が示されるだけではない。来るべき艱難を、どううまく乗り超えられるか、その方法が示され、誰もが痩せ衰えて行く艱難の時代、逆に、他を出し抜いて断とつトップになれる知恵さえ与えられる。そして、世の王達の方から「支配して下さい」と言って来るのだ。
 
 彼は、大いなる収穫の時期、誰もが掃いて捨てていた収穫物をひとつも漏らさず、ひたすら溜め込んだ。
その後に大飢饉となって、食物の価格が大暴騰した時、その収穫物をもって、全世界の富をかき集めた。
それを用いて、神の民イスラエルが大いに産んで増えていくための肥沃な地、ゴシェンの地を用意した。
 今、天声・エクレシアは、現代のヨセフとなって、御言葉が息吹かれた栄光の次世代教育をするためのシステムづくりを目指している。私達は、主が見せて下さった「夢」を、日々宣言しているだろうか。ヨセフにならって日々、誠実を養っているだろうか。今、その宣言という「蒔いた種」を収穫すべき時が近づいている。
収穫感謝祭の今日、私達に与えられた夢の宣言という「蒔いた種」が、どれほど実ったかを思い返そう。
 それぞれの仕事や事業、ミニストリーが豊かに祝福され、その収穫の束に対して、世の収穫がこぞってひれ伏しに来る幸いを得ていく、これからの皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇講解説教

主に聞かれる祈り(詩篇86篇)

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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
 
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
 
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
 
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
 
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
 
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
 
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
 
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
 
 
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
 
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
 
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
 
 
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
 
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
 
 
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
 
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
 
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
 
 
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
 
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
 
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
 
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
 
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
 
 
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
 
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
 
 
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
 
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
 
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
 
 
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
 
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
 
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
 
 
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
 
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
 
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
 
 
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
 
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
 
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
 
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。

エゼキエル書講解説教

聖なる礼拝を捧げる者であれ(エゼキエル46章)

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かつて、礼拝を軽んじたイスラエルによって、めちゃめちゃにされてしまった礼拝制度の回復すべき事が、40章以降に命じられていた。
この章では、特に、君主(ナーシー:上に立つ者。王ではない。)が、民に代表して捧げる礼拝について、示されている。
 
 
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
エゼキエル46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
エゼキエル46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
 
神殿は、外庭の門と内庭の門があるが、外庭の東向きの門は、ただ、君主だけが出入り出来、一般の人は出入りしてはならないため、通常は閉じておく。(エゼキエル44:1-3)
君主は、民に代表してささげ物を祭司へと渡して、祭司は、それを神に捧げる事が役割であるが、そのささげ物の内訳が、以下に示される。
 
 
エゼキエル46:4 君たる者が、安息日に主にささげる燔祭は、六頭の無傷の小羊と、一頭の無傷の雄羊とである。
エゼキエル46:5 また素祭は雄羊のために麦粉一エパ、小羊のための素祭は、その人のささげうる程度とし、麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
ここでは、7日ごとに来る安息日にささげるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示された。
なお1エパは約22リットル、1ヒンは約3.7リットルである。
 
礼拝には、必ず、犠牲が必要である。
 
創世記4章にカインとアベルの礼拝が記されているが、カインが捧げたものは、ヘブライ語「ペリー」の単数形、すなわち「一つのフルーツ」、対してアベルは、(複数形の)羊の群れの、初子たちの中から、最上ものを選びに選んで捧げた。
 
カインは、農業で暮らしていたので、彼自身は日毎、フルーツをふんだんに食べていたのに、主にたいしては、たった一つのフルーツしか捧げなかった。
何万円もある財布の中から、ワンコインを賽銭箱に投げたような感覚だろう。
 
神が、カインの捧げものに、見向きもしなかった理由は、彼の、主の御前にささげる礼拝には、主を敬う心も、犠牲も、なかったからだ。
 
神がそれを見向きもせず、アベルのささげ物にリスペクト(NKJV)を払ったのを見たカインは、怒った。
その怒りはつまり、カインの心の中では、「カインのほうが、神よりも偉大」だったという事を表している。
だから、彼のささげ物は受け入れられなかったのだ。
 
今ここエゼキエル書では、主を敬う礼拝の回復が指示されている。
私達は、神をリスペクトする心をもって、犠牲を捧げるべきであり、そうするなら、神からリスペクトされる。
 
 
エゼキエル46:6 ついたちには無傷の雄牛の子一頭、六頭の小羊および一頭の雄羊をささげよ。これらはすべて無傷のものでなければならない。
エゼキエル46:7 素祭は雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供えよ。また麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
月ごとに来る新月の祭りに捧げるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示されている。
それは安息日に捧げるささげ物に、若い雄牛が追加されている。
 
 
また、8-10節には、礼拝する者たちが、神殿の中で進むべき順路が示されている。
 
エゼキエル46:8 君たる者がはいる時は門の廊の道からはいり、またその道から出よ。
エゼキエル46:9 国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。
エゼキエル46:10 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。
 
君主は東向きの門から出入りするが、一般の人は、北の門か、南の門から出入りできる。
その際、出る時は、入る時と同じ門を通ってはならない。
 
礼拝へと向かう足、宮から出ていく足には、規律の正しさ、混乱のなさが要求されるのだ。
 
続いて、君主が民を代表してささげるべきささげ物が規定される。
 
エゼキエル46:11 祭日と祝い日には、素祭として、若い雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供え、麦粉一エパには油一ヒンを加えよ。
 
祭日と祝日は、過越祭や仮庵祭などである。
 
 
エゼキエル46:12 また君たる者が、心からの供え物として、燔祭または酬恩祭を主にささげる時は、彼のために東に面した門を開け。彼は安息日に行うように、その燔祭と酬恩祭を供え、そして退出する。その退出の後、門は閉ざされる。
 
東向きの門が開かれるのは、君主が礼拝を捧げる時だけである。
 
 
エゼキエル46:13 彼は日ごとに一歳の無傷の小羊を燔祭として、主にささげなければならない。すなわち朝ごとに、これをささげなければならない。
エゼキエル46:14 彼は朝ごとに、素祭をこれに添えてささげなければならない。すなわち麦粉一エパの六分の一に、これを潤す油一ヒンの三分の一を、素祭として主にささげなければならない。これは常燔祭のおきてである。
エゼキエル46:15 すなわち朝ごとに常燔祭として、小羊と素祭と油とをささげなければならない。
 
礼拝と犠牲は、毎朝、捧げられるべき事が示されている。
現在、私達には、私達の身代わりにほふられ、血を流してくださったまことの子羊、イエス・キリストがおられるので、私達は、動物を捧げるのではなく、日ごと、週ごと、月ごとに、私達に身代わりにほふられてくださったイエス・キリストを覚えつつ、日々、霊的な礼拝を捧げるのだ。
 
 
エゼキエル46:16 主なる神は、こう言われる、君たる者が、もしその嗣業から、その子のひとりに財産を与える時は、それはその子らの嗣業の所有となる。
エゼキエル46:17 しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰る。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。
エゼキエル46:18 君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである」。
 
ここでは特に、君主たる者は、相続地を、相続以外の形で他人に譲渡してはならない、という規定が定められている。
君主たるものに求められる事は、正しさであり、「虐げないこと」なのだ。
 
 
エゼキエル40章以降にて示されて来た、君主たる者への指示は、政治的な命令はほとんど無かった。
ただ、一般人に代表して礼拝を捧げる、捧げ方だけが、細かく指示されており、唯一、君主に要求された政治的な命令といえば、以下だけであった。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
君主たる者に、最も要求されるのは、政治手腕よりもむしろ、誰より主に対して正しく礼拝を捧げるたしなみなのだ。
元々、イスラエルには人間の王は、本来、いらない。
主だけが唯一、王であり、そして人の上に立つ君主の役割は、人々に代表して、主に礼拝を捧げる事だ。
 
 
エゼキエル46:19 こうして彼はわたしを連れて、門のかたわらの入口から、北向きの祭司の聖なる室に、はいらせた。見ると、西の奥の方に一つの場所があった。
エゼキエル46:20 彼はわたしに言った、「これは祭司たちが愆祭および罪祭のものを煮、素祭のものを焼く所である。これは外庭にそれらを携え出て、聖なるべきことを、民にうつさないためである」。
 
19-20節で示された、内庭にある料理場は、祭司だけが食べることが出来る罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえを料理する場所である。
 
 
エゼキエル46:21 彼はまたわたしを外庭に連れ出し、庭の四すみを通らせた。見よ、庭のこのすみにも庭があり、また庭のかのすみにも庭があった。
エゼキエル46:22 すなわち庭の四すみに小さい庭があり、長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つとも同じ大きさである。
エゼキエル46:23 その四つの小さい庭の内部の四方には、石の壁があり、周囲の壁の下に、物を煮る所が設けてあった。
エゼキエル46:24 彼はわたしに言った、「これらは宮の仕え人たちが、民のささげる犠牲のものを煮る台所である」。
 
外庭にある料理場(21-24)は、民が食べることの出来るいけにえを料理する料理場である。
 
なお、23節の「物を煮る所」、すなわち「料理場(新改訳)」と訳された「メバシェラー」は、旧約聖書ではここに1度しか登場しない。
モーセの幕屋や、ソロモン神殿で示されなかった、この神殿のユニークな特徴の一つとして、神殿の敷地内に、調理場が示された事も、挙げられる。
 
「食べる事」もまた、礼拝の中の大切な要素である事が、強調されているのだ。
 
旧約においては「和解のいえにえ」が、神と祭司と礼拝者の3者が、共に同じいけにえを食べるものであり、新約でも、共に同じパンを割いて食べる事が、礼拝のひとつである。
私達は、食べるにしても飲むにしても、キリストを覚え、感謝していただくものである。
パウロは、教会を単なる飲み食いの場としてしまった者たちを叱責した。
 
 
エゼキエル40章以降に示されたこの神殿で、特徴的な事は、きよさにおいて、また汚れを持ち込まない事において、特に注意すべきだった。
かつてイスラエルは、神殿に汚れを持ち込んでしまった故に、バビロン捕囚の憂き目に遭って、豪華絢爛な神殿は、破壊されてしまった。
新約を生きる私達もまた、イエス・キリストにあって、聖である事が求められているのだ。
 
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 

家庭や職場というエデンの管理責任(創世記2:15-18)

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主日礼拝

幸せと成功を引き寄せる「家」のあり方(創世記2:20-25)

第一礼拝 Youtube動画

English Service: How important it is to teach the Word of God to our children (Deu6:6-9) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 人が人格を形成する、最も基本的な場は、家庭である。幸せと成功を引き寄せる人格形成のためには、家庭のあり方を整える必要があり、まず家庭の最小単位である「夫婦関係」を整える必要がある。今回は、聖書という知恵の宝庫の色々な箇所から、家庭の地盤固めや、自分が属する”輪”の発展の秘訣を得たい。
 
 『わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて「恐慌(メフーマー:破壊、狼狽、騒動、悔しさ、苛立たしさ)」があるのにまさる。』(箴言15:16) まず、全宇宙・全法則を創造された「主を恐れる」事が第一である。ユダヤ人は子育て・家庭構築において「主を恐れる」事を第一としている故に、祝福され、世界的に成功している。神様から離れ、礼拝から離れた生活は、一見、制限がなく、自由のように見えていて、実はそうではない。絶対に揺るがない基準を持たず、神様の守りを持たないため、多くの財宝を手に入れて行く過程で、罪を犯し、敵を作り、傷を受け、結局、「恐慌(メフーマー)」の状態になってしまう。
 また、次のようにも書いてある。『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、「ごちそう」と争いに満ちた家にまさる。』(箴言17:1) 「ごちそう(ゼバフ)」と訳された語は、「和解のいけにえ」を指す語。つまり、たとえ礼拝に通う家庭であったとしても、争う家庭であるとするなら、平和な貧しい家庭のほうが勝っている。
 もし、自分は「よくしゃべる」と自覚する人は、家庭内では口を謹んだほうがいい。ガミガミする男性または女性は、その妻や夫、子供をひからびさせ、彼らを家に居られなくしてしまうからだ。(箴言21:19,27:15-16)
 イエス様も言われた。どんな国でも内輪揉めしたら荒れ廃れ、家にしても内輪で争えばつぶれてしまう、サタンも、もし仲間割れしているなら、どうしてサタンの国が立ち行くことができるだろう、と。(ルカ11:17)
 サタンの国さえ、仲間割れせず統率が取れているというのに、夫婦が、兄弟姉妹が、ビジネス仲間が、分裂して、統率が取れていない、とするなら、サタンの国にも劣る恥ずかしい状態である。 もっとも、サタンの国は、戦前の日本や、今の共産国のように、強権や圧政、暴力や脅しによって統率を取っており、そのような家庭や国には自由は無く、居るだけで消耗してしまうので、長続きしない。しかし、神の国は、主イエス・キリストにあって一致し、自主的で自由なモチベーションに満ちていて、それで統率が取れているのである。
 
 『もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。』(ガラテヤ5:14) ここで明確な事は、もし内輪で分裂しているなら「互いに滅ぼし合っている」状態である。例えばそのグループに、10の力があるとするなら、互いに噛み合う事で3のエネルギーを浪費し、食い合う事で3のエネルギーを浪費し、残った4のエネルギーで渡り合っていかなくてはならない。グループの力が、15にも20にもなるためには、互いに建て上げようと、互いが積極的に協力し合う必要がある。
 互いに同じ目標を目指し、力を合わせて行くなら、より容易に目的地に到達できるが、もし建設的な努力を全くせず、一方的に誰かにぶら下がって、ブランコ遊びするような者が一人でもいるとするなら、その人がいる故に、引きずられ、8にも7にも減退してしまう。その人は、やがて負担となって、切り落とされてしまう。
奴隷の国・エジプトから脱出した民のうち、信仰の努力をせず、ただ指導者であるモーセに不平不満をぶちまけて、約束の地へ行く事を阻害していた者達は、主によって、荒野で切り落とされて行ってしまった。
 
 特に、社会の最小単位である夫婦関係こそ、重要である。結婚を控えている男女は、自分の「あばら骨」である妻が連れて来られるよう、また「脇腹」である夫の所に無事収まるように、主に祈り求めるべきである。
 神様は、最初の人・アダムが独りでいるのを「良くない」とし、アダムに深い眠りを与え、その脇腹からあばら骨を取り出し、それを元にして女性を造り上げ、そうして彼女を、彼の元に連れてきた。(創世記2章)
 アダムが深い「眠り」を経験したように、男性は、妻や子供をこれから養うために、それまで自由に生きて来た自分を「死」に明け渡さずには、「あばら骨」が取り出される事は無い。また女性も、神様の御手の中で造り上げられ、建て上げられ、女性として完成してこそ、神様は一人の男性の元へ連れて行かれるのだ。
 ふたりは一体となる、と書いてあるが、残念ながら一体ではない夫婦が多い。主が連れてこられた脇腹でないなら、一致できないのだ。互いに、心も、体も、思いも、考えにおいても、「裸」でわかりあえる相手。
独身の男女はそのような伴侶を求め、夫婦はそれを目指すべきである。主を恐れ敬い、神様に喜ばれ、神様に祝福される家庭を構築して、幸いと喜びと成功に満ちた人生を送って行く皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

恐ろしいという心の空洞を御言葉で腸詰めせよ(ヨシュア記4:1-10)

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礼拝再建に必要なもの(ハガイ2:1-9)

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心のおもむくままに歩む虚しい人生と、御霊によって導かれる充実した人生(伝道者の書2:1-11)

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『私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。』(伝道者の書2:1)
 
クリスチャンライフは、喜びに満ちて、充実しているはずなのに、どうしてこんな内容が、聖書の一巻に記されているのだろうか。
 
人は元々、まことの創造主に導かれて、創造主の意図どおりに進むために創られた者である。
だから、創造主抜きに生きるなら、すなわち、私達のいのちを創り、私達の人生に意味を付与して下さった神様から独立し、ただ、自分の心と欲望のおもむくまま、快楽や楽しみを追求して行くなら、「本質を生きていない」という虚しさに必ず覆われ、そのまま人生を終わるとするなら、ソロモンのように「なんとむなしいことか」という、「虚しさ」の実り以外、結ばない。
 
ソロモンは、前半人生は、素晴らしい信仰によって歩み、誰よりも知恵が与えられ、世界一高いIQも与えられた。
しかし、途中から多くの妻をめとり、しかも、多くの偶像礼拝する女性をめとった結果、彼は偶像礼拝もするようになり、女に願われるまま、偶像の神殿もいくつか造った。
その彼が行き着いた先が、これであった。
だから、世の哲学や思想が、知恵を集結して、行き着く先は、大体、この伝道者の書のような内容となり、その内容とは「全てはむなしい」「全ては空」「全ては虚無」なのである。
 
結局、肉欲のおもむくままに邁進する結果、自らを滅ぼし、また、周囲の人にも多大な迷惑をかけることになってしまう。
次に書かれてあるとおりである。
 
『肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』(ガラテヤ5:19-21)
 
実際、神から離れて、肉の行いに邁進し、偶像礼拝や魔術、好色、酩酊、遊興に興じたソロモンが相続したのは、神の国ではなく、虚しさだった。
ソロモンが、事業や、何か物事をした動機は、以下であった。
 
『私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだは「ぶどう酒(ヤイン:ワイン、うきうきさせるもの)」で「元気づけよう(マーシャク:引っ張りまわす、続ける、運転する)」と考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。』(伝道者の書2:3)
 
みなさんの人生は、ぶどう酒に引きずり回されていないだろうか?
うきうきさせるものに、運転させられていないだろうか?
 
ソロモンは、自らそれに飛び込んでしまった結果、飲まれてしまったのだ。
心がどんなに知恵ふかくても、ぶどう酒や、うきうきさせるものには、勝てず、それに飲まれてしまうのだ。
 
彼は、心のおもむくままに、色々やった。
 
『私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:4-11)
 
結局、神から離れた人が、心のおもむくままにするとするなら、たとえそれが、どんなに知恵深い人がやったとしても、全てはむなしく、益する所は一つもない。
 
ソロモンは、ぶどう酒に引き回され、運転させられる人生を送った結果、むなしくなった。
私達は、自分のおもむくままにではなく、御霊のおもむくままに引き回され、御霊によって運転させられるなら、神様が与えられた、意味ある人生、永遠の価値ある、充実した人生を生きられるのだ。
 
『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』(ガラテヤ5:13-17)
 
何かの事業をするにしても、自分の欲のおもむくままに、ではなく、御霊の赴くままに成し、豊かな御霊の実りを実らせ、充実した事業を成し、充実した人生を送る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ヨハネによる福音書 講解説教

名乗るほどの者ではない私に出来る事は、ただ、キリストのあかしだけ(ヨハネ21:20-25)

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21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
 
ヨハネは、自分の事を、「イエスの愛しておられた弟子」と言って、名前を伏せている。
私達がイエス様を明かししていく上で何かをしたとしても、私達は、ヨハネの姿勢にならって、
「名前?名乗るほどの者ではない」
というスタンスでいるべきだ。
 
後世の神学者の間で、「ヨハネの福音書は誰が記したか?」という議論も起こったが、そんな事に係る必要は無い。
私達はただ、イエス様に従って、イエス様のあかしをすれば良い。
 
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
 
兄弟たちは、イエス様の言葉から拡大解釈した。
しかしヨハネは、イエス様の御言葉をそのままその通り、暗唱して語った。
私達は、イエス様の言葉に「何やかや」を付け足したがるが、人はどうこう評価するか、という事は、重要ではなく、主から与えられた使命を全うするために生きて、そして、使命のために死ぬ事こそ、主の目に尊い事なのだ。
 
イエス様を間近で見たヨハネは、福音書の最後に、こう記した。
 
21:24 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
 
そう、世界は、主イエス様について、書き記すことは出来ないし、有限な世界は、無限なるお方について書き記すには、とうてい、分量が足りない。
なぜなら主は、世界よりも大きいお方であり、世界は、主によって創られたからだ。
 
この有限世界の下で、私達に与えられた、限られたいのちの時間の中でするべき分は、イエス様をあかしする事である。
 
聖書の中であかしされている主は、確かにすごい。
しかし、聖書に記されていない、主のわざの数々、すなわち、この歴史の中で主が為されて来たわざの数々は、私達の想像をはるかに超えて、さらにすごい。
 
その、時空を超えて今も生きて働かれるイエス様のすごいわざを垣間見、体験できるのが、今を生きる私達である。
 
聖書は、私たちが永遠のいのちを得る秘訣のみならず、生活において、働きにおいて、人間関係において、戦いにおいて、生きる上で知るべき必要最低限の知識が、ぎっしり詰まっている。
そして、全て抱えている問題の解決の道も、また、今まで失敗してしまったその全ての原因までも、全部、記されている。
 
私達は、御言葉を通して、私達と共にいて下さる主の存在を認め、主を仰ぎつつ生きるなら、この世に生きている間に必要なすべての知恵と知識を得る事が出来、そして、主のためになした事こそ、永遠に残るのだ。

主日礼拝

永遠の命が湧き上がって来る水を飲ませて下さるお方(ヨハネ4:3-30)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ある女性が、サマリヤという町に住んでいた。彼女はすばらしい男性と結婚すれば、この心の渇きは癒える、と、ささやかな夢を抱きつつ結婚した。しかし結婚生活は、夢見ていたようなものではなく、渇きはもっとひどくなって、離婚する事となった。すぐ別の男性と結婚したが、これもうまく行かず、離婚してしまった。
同じように別の男性と結婚してもうまく行かずに離婚し、結局、5回も結婚と離婚を繰り返したのに、どれもうまくいかなかったので、今度は6人目の男性と同棲を始めた所だった。それで彼女は昔のように公然と出歩けなくなり、パレスチナでは誰も出歩かない昼の暑い時間を選んで、井戸に水汲みしに行くようになった。
 
 人は、ささやかな夢を見る。「自分をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」存在を。しかし、そんなささやかな夢を、完全に叶えてくれる人は、実は、この地上にはいない。儚い人間関係がひしめくこの空の下で、ある人は後先考えずに飛び出し、取り返しのつかない失敗をし、ある人は関係が壊れる事を恐れて、自分を出さずに黙って生き、ある人は、人間関係は、自分に有利な方向に利用するもの、と割り切って、騙し騙し生きていく。そうして、束の間の渇きをいやす「水」、たとえば、異性や結婚、お金、仕事、地位といった「水」を求めつつ、来る日も来る日も、暑い思いをしながら、それぞれの井戸と家とを行ったり来たりする。
 しかしそれらを得ても、やがて渇く時が来る、のみならず、それを手に入れる過程で、罪を犯したり、迷惑をかけたり、自分自身の心や身体を傷つけ、あるいは隣人の心や身体にも、傷を積み上げて行ったりする。
 彼女はそんな日々に、ますます渇きを覚えつつ、その日も水がめを持って、あの井戸へと行った。すると、一人の男性が、井戸のところに座って、彼女を待っていた。彼こそ、私達の救い主、イエス・キリストである。
 
 彼は、彼女に声をかけた。水を飲ませてください、と。それは意外な事だった。ユダヤ人とサマリヤ人とは、選民と異邦人という事で、付き合いは無い筈なのに、彼のほうから関係を求めて来たのだ。イエス様は、救いからは遠いような「私達」をも、待っておられ、声をかけて下さる。「あなたから、飲ませてくれないか」、と。
 私達も、罪によって苦くなってしまった自分自身、酸っぱくなてしまった自分の人生を、イエス様に全て明け渡すなら、イエス様は全ての苦さ、酸っぱさを「完了」させ、イエス様の安息を「完成」させて下さる。
 イエス様は、全人類の罪を負って、私達が受けるべき刑罰を身代わりに受けて下さり、最後に「わたしは渇く」と言われた時、人々は彼に、酸いぶどう酒を差し出した。それを受けられると、「完了した(完成した)」と言って息をひきとられた。しかし、三日目によみがえられた。彼を信じる人は、罪に対しては死んだ者、神に対しては永遠に生きた者とされる、のみならず、この人生の、あらゆる問題も、彼が解決して下さる。
 
 『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、また渇くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇く事がないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」。女はイエスに言った、「主よ、わたしが渇くことがなく、また、ここにくみにこなくても良いように、その水をわたしに下さい」。』(ヨハネ4:13-15) 私達もイエス様に、「その水をわたしに下さい」と求める時、全ての問題解決の責任は、イエス様へと移り、イエス様は、どんな人生の問題も解決するために行動を起こされる。イエス様は、彼女からそれを受けると、問題の本質に直球を投げた。
 「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい。」(18節) イエス様が彼女の問題の本質をご存知だったように、私達の問題をも全てご存知である。そして、イエス様と対話し、交わりをして行くうちに、どうしようもなく渇いていた心の渇きは、癒やされていく。彼女は、自分が話していた相手が、待ち望んでいた救い主だと分かると、今まで使い古して来た水がめは、そこに置いて、町へと走って行って、人々に伝えた。
自分の全てを言い当てたイエス様を。どうしようもなく渇いていた自分を癒やし、救って下さったイエス様を。
 イエス様に癒やされた彼女は、今まで負っていた負の遺産は、人々にイエス様の栄光を現す「ネタ」に変わり、もはや恥もなく、決して満たすことの出来なかった渇きは、主イエス様にあって、癒されたのだった。
 
 イエス様は今日も、私達が毎日行き来している”井戸”のそばで、待っておられる。彼に全てを明け渡すなら、今までの人生の酸っぱさは、甘さへと変えられ、決して癒やされなかった渇きは、潤されるだけでなく、腹の奥底から、生ける水が川となって流れ出るようになり(7:37-38)、周りをも潤し、いのちで満たして行くようになる。このイエス様に全てを明け渡し、救いを得て、栄光の働き人とされる皆さんでありますように!
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