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エサウ - 一杯の煮物で祝福の権利を売った者(創世記25:23-34)
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週報/メッセージ(説教)概要
今回より、再び聖書の登場人物をテーマに見ていきたい。今回はアブラハムの子イサクの長男、エサウについてである。彼は、神に祝福された家系の長子としての祝福を受け継ぐはずだったのに、取り去られてしまった。また彼の子孫は、一時はエドム人として栄えたのに、今はもう滅んでしまっている。それに引き換え、彼の弟ヤコブは、後に神から「イスラエル」と名付けられ、今なおイスラエル民族は栄えている。
この違いは一体何だろう。どういう人が祝福を勝ち取り、どういう人は、祝福が取り去られてしまうのだろうか。
『エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となった。』(27節)
創世記で「巧みな猟師」は、総じて、主の目には悪い者である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは、自分の力強さに頼り、思うままに好きな所へ出て行って、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにし、欲するままに力で周囲を支配する者であり、それは、神に喜ばれない歩み方である。
最近は、肉食系・草食系の仕分けで、草食系を蔑む雰囲気もあるが、主は、肉食系をこそ蔑まれるのだ。
「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(27節) この「穏やか(タァム)」という語は、「正しい」「全き」「無垢」とも訳せる、義人ヨブの品性を表す語である。(ヨブ記1:1)
彼はエサウと違って、好き勝手な所に出歩かず、父の天幕の周りで父の羊の群れをしっかり見守っていた。
父から任された羊をしっかり見守る事こそ、主に祝福される性質だ。主の働き人は、主から任された羊を放置し好き勝手する者になってはならず、しっかり羊達の面倒を見るべきだ。父イサクがエサウを愛したのは、彼が狩って来る獲物の肉を好んだからだが、リベカは、主の祝福の約束があったヤコブの方を愛した。
多くの人は、世の中をうまく渡り合って腕づくで食を確保できる狩人型人間になりたいと願い、その人が好かれるが、兎と亀の競争のように、後で追い抜されてしまう時が来る。主の祝福の約束がある者によって。
彼はある時、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで疲れ果てて帰ってきた。
その時、ヤコブはレンズ豆の煮物を煮ていた。『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(30-31節)
エサウとしては、いきなり突拍子もない事を要求されたように聞こえたかも知れない。しかしヤコブは、いつも「長子の特権」を狙っていたのだ。母の胎にいた時から兄のかかとを掴みながら出て来た程に、いつも、アブラハムの家系として祝福を受け継ぐ特権を自分のものにしようと、虎視眈々と狙っていたのだ。
しかし、生まれながらに長子として祝福を受け継げる者という座に安住していたエサウは、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が、今すぐ欲しかった。
『エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。・・・彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。』(32-34節)
彼は、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは思っていなかったかも知れない。
しかし彼は確かに食べ、契約は成立してしまったのだ。結局彼は、長子の特権を軽んじていたのである。
神は、生まれながらに人を差別されるのだろうか?少なくとも私達はそう考える必要は一切無い。なぜならキリストを主として信じる者には全て、天の御父から永遠の祝福を受け継げる特権が与えられるのだから。
それは、エサウの長子の特権と同じで、天の御父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、全特権である。
キリストを主として信じるなら、私達も、その全特権にあずかれて、そこに差別も例外も無い。しかし信じないなら、エサウのように、自分の腕力で他を狩りながら生きて行く他はなく、その行き先は呪いと滅びである。
私達は、エサウのようにその特権を軽んじて売ってはならない。エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものはレンズ豆の煮物で、イスカリオテのユダは銀貨30枚だったが、サタンは様々な形にそれを変えて私達に迫り、誘惑して来る。私達はそうした誘惑を断固、イエス・キリストの名によって拒否しなくてはならない。
ヤコブのように、与えられた領分において、与えられたいのちをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
福音が大胆に語れるよう祈ってください(エペソ6:19-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-6-8 23:00
キリストのからだのそれぞれ違った器官である一人ひとり(1コリント12:4-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-6-7 15:50
御国から派遣された大使であるキリスト者達(使徒4:5-31)
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週報/メッセージ(説教)概要
聖霊に満たされた人、すなわち、聖霊様がその人の支配の王座に座され、このお方に支配され突き動かされている人は、力強く大胆なイエスの証人となる事を、ここ数ヶ月、詳細に見て来た。
今回、あの弱かった弟子達が、どれ程大胆になったか、その最たる出来事を見る事ができる。
神殿で大胆にイエス様を証ししていたペテロ達を捕らえ留置したイスラエルの長達は、翌日、さらに錚々たる者達を招集する。5-6節の面々は、市長達や学者達、国会議員レベルの人達のようなものだ。
そして彼らはペテロとヨハネ、すなわち、無名無学な元漁師の二人を、この錚々たる面々の前に引き立し、尋問する。「あなたがたは、一体、なんの権威、また、誰の名によって、このことをしたのか」(7節)
普通なら震え上がって、ただ赦しを乞う所だろう。彼らもそれを狙っていたかもしれないが、ペテロ達はそうではなかった。『その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人達、ならびに長老たちよ…』(8節)
ペテロはここでもメッセージを始めるが、その言わんとする事は、前回・前々回とほぼ一緒である。
すなわち、十字架上で死んで、復活し、父なる神から権威が与えられた、あのナザレ人イエスについて。
『この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。』(10節)
もしイエスがよみがえって”いない”としたなら…これ程ナンセンスな主張は無いだろう。しかしイエス様は実際に復活し、その御名には救いの権威が与えられ、信じる人には証拠としての奇跡が行われたのだ。
ペテロはさらに、尋問とは関係の無い、むしろ彼らの神経を逆撫でしかねない「真理」を言う。
「この人による以外に救はない。私達を救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」(12節) 彼らは尋問されながらにして、救われる為に必要な、最も重要な真理を語ったのだ。
彼らは弟子達の大胆さと、また、彼らが無学な人であったと知って、ますます驚き、また、実際に癒やされた人が目の前に立っていては、返す言葉が無かった。そこで彼らを退場させ、内々で議論する。
この事は否定しようが無い。しかしこれ以上、この名によって語ってはならないと言って、おどそう、と。
『そこで二人を呼び入れて、イエスの名によって語る事も説く事も、一切相成らぬと言い渡した。』(18節)
どんな奇跡やしるしが起きたとしても、頑として聞き入れない人は、いる。彼らは自分の過ちを、頑として認めたがらず、また、自分が支配者である事の座を、頑として手放したくないからだ。
人には、二つの道しかない。すなわち、全能なる神から促されるままイエス様を自分の救い主として受け入れ、自分の全ての支配権を彼に明け渡すか。それとも、頑としてそれを譲らず、自分で握り締め続けるか。
受け入れる人には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられるが、後者には、永遠の罪の刑罰が与えられる。
『ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。』(19節) ペテロとヨハネは、人の間で最高権威と呼ばれるような人々に囲まれ尋問されているようでいて、実はその彼らに、御国から派遣された大使として、彼らにも必要な「救い」のメッセージを語り、そればかりでなく、頑として受け入れない彼らを、神の御前で訴えたのだ。
『釈放された二人は、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。』(23-24節) 聖徒達は、国家からマークされてどうしよう、と縮こまったのではなく、逆に心を一つにし、天地を創られ国家さえ存続させておられる主に、熱心に祈った。
私達・聖徒達を脅かす者達よりも、私達の主の方が強く、「上」なるお方である。だから私達も祈るべきである。この脅かしをご覧になり、もっと大胆に、もっと力強く御言葉を語らせ、キリストを証させて下さいと。
彼らが祈ると、あのペンテコステのような不思議な事が起きた。「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(31節)
キリストの復活の福音を邪魔する者は、確かに出てくる。しかし、その相手がたとえ国家であったとしても、決してひるむ事のない大胆さと、誰にも論破できないしるしや知恵もまた、与えられるのだ。聖霊様に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
