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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

滅ぼし尽くすべき敵と、執り成すべき敵の違い(2サムエル記22:38-46)

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詩篇書講解説教

主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)

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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
 
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
 
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
 
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
 
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
 
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
 
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
 
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
 
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
 
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
 
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
 
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
 
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
 
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
 
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
 
 
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
 
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
 
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
 
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
 
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
 
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
 
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
 
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
 
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
 
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
 
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
 
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
 
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
 
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
 
 
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
 
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
 
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。

主日礼拝

祭司となって祈るべき祝福祈祷(民数記6:24-26)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今回の民数記6:24-26は、祭司はこのように祝福しなさい、と言われた、祝福祈祷文である。私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、王族の祭司とされた(1ペテロ2:9)。それ故、積極的にこの祈りで家族や職場、自分の人生を祝福したい所である。しかし祝福をするに相応しい者となるため、全ての悪意やごまかし、色々の偽善やねたみ、悪口を捨て、生まれたばかりの乳飲み子のように純粋な御言葉の乳を慕い求める必要がある(同1-2節)。そうするとキリストを通じて生ける石として霊の家に築き上げられ、聖なる祭司として、霊のいけにえが捧げられる、と書いてある(同3-5節)。そういう人の祝福には、力がある。
 今回の、この有名な、私達も積極的に宣言すべき祝福祈祷文は、どのような意味と力があるのだろうか。
 
 この祝祷の最初は、「祝福する(バーラフ)」という動詞の、PIEL態(強意、断じて**する)で始まる。「主が断じてあなたを祝福して下さいますように!」という強意が込められているのだ。しかし、何よりもまず私達は、御言葉の乳を慕い求め、御言葉のバリケードを張り巡らす事をするべきだ。なぜなら、せっかく祝福してもらっても、また宣言しても、罪と呪いのパターンを持っているなら、祝福は逃げて行ってしまうからだ。
 祝福(バーラフ)の最初は、「守られますように(シャマール)」である。シャマールの元々の意味は、羊飼いが羊を石垣で囲い、その上に、棘つきの植物を乗せて「厳重に守る」事である。だから、この宣言は、主が厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、悪しき勢力から守って下さいますように、という宣言で始まる。
 25節の「恵まれますように」のヘブライ語「ハーナン」は、目下の存在に対して、「親切にする」「好意を持つ、」「与える」といった意味があり、そこから、「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と訳されている。
 私たちは、神様からの、一方的な「ハーナン(恵み)」によって生かされている。空気や水、太陽、食べ物、健康など、全て生存に必要なものは、一方的に与えられた「恵み」である。それら、生きるのに必要な全ての恩恵を、主が、御顔を照らす事によって満たして下さいますように、と祈る事が、二番目の祝福なのだ。
 
 26節は、主が、その御顔を私たちに「向け(ナーサー)」、「平安(シャローム)」を与えられますように、という祝福で、「向けて」と訳されたヘブライ語「ナーサー」は、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味がある。
 いと高き神が、地に住む低く卑しい「人」に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事だろう。
それはちょうど、母親が、赤ちゃんを顔の近くに抱き上げ、顔を合わせ、見つめ、安心させる様に似ている。
 人は基本的に「楽」である事を求めるが、シャロームの平安は、それよりも遥かに大きな意味を持っている。
人々は「楽」である事を追求する故に、お金を稼ぎ、色々な労をするが、サタンはそれらをエサに人を釣ろうとする。その目的は、人生を破壊し、死に至らしめるためである。 人は、サタンからどんなに高い地位や栄誉、富を得たとしても、真の安らぎは無い。なぜなら、それを得る過程で、犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びに至る事を、彼らは何となく知っているからだ。しかし、神が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い。それは、「楽な状態であるか・否か」を超越した、揺るがない平安である。
 赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、と言って泣く事は無い。赤ちゃんは、お金や地位をどう使って良いかも、その価値も、知らないからだ。ただ、お父さん・お母さんの顔が見れないと、泣く。なぜなら赤ちゃんは、何の疑いも無く信じているからだ。お父さんお母さんが、無条件に自分を愛し、全て守り、必要を備えてくれる事を。だから、その顔が見れないと泣き、顔の近くへと抱き上げられ、見つめられると、喜ぶのだ。
 神様の平安、シャロームを味わい、体験して行けば行くほど、私達も、神様に対して「赤ちゃん」のようになって行き、今どういう状況にあるのか、とか、何を持っている・持っていない、といった事を心配しなくなる。
ただ、神様が御顔を照らし、御顔を向けて下さるかどうか、それだけが、何よりも大事になって行くのだ。
 
 私達は、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきである。それによって、祝福に追いかけられる側となり、また、祝福を祈るその祝福が、力を帯びるようになって、「祭司」として整えられて行くからだ(1ペテロ2:1-9)。さらに、御言葉を帯びる事によって、世とサタンに対して、ますます圧倒的に勝利する勇士となって行くのだ。今日も、主が御顔を向けて下さり、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事において最善を尽くし、政治、経済、文化、教育界を支配して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

38年来の病さえも癒やされる3つのコツ(ヨハネ5:1-9)

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ただ言いつけられるだけの報われないしもべと、主人の食卓の喜びに共にあずかれるしもべの違い(ルカ17:1-10)

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夫婦関係、親子関係、ビジネス関係成功の秘訣は、仲睦まじさ(箴言15:16-17)

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主が定められた祝福祈祷(民数記6:24-26)

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今回の箇所は、大祭司が神の民イスラエルを、このように祝福しなさい、という、祝福祈祷文です。
 
キリスト教の礼拝では、両手を上げて祝祷しますが、イスラエルの祭司の祝祷の姿勢は、それとは違います。
 
まずヘブライ語の「ש」(シン)の文字を作り出し、そのようにした状態で、両手の親指・人差し指同士を合わせて、輪をつくり、ヘブライ語の「ס」(サメク)の文字を作り出して、それを空に向けます。
それでこの祝福祈祷文は、「サメク本文」とも呼ばれています。
 
ヘブライ語のシンは「聖である」という意味があり、同時に、「滅ぼす」という意味もあります。
つまり、神様が彼らを聖別し、彼らを蝕もうとするサタンの勢力を打ち滅ぼして下さるように、と、表現します。
 
そして両手を天に向けて「サメク」の語を作って宣布する事によって、神様が彼らを囲い、守って下さるように、と、象徴的に表しています。
 
民数記6:24 「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。
 
まずサメク本文は、「祝福する(バーラフבָּרַךְ)」という動詞の、PIEL態(能動・強意、断じて**する)で始まります。
主が、断じて、あなたを祝福して下さいますように!
という、強意が込められているのです。
 
「祝福(バーラフ)」の元来の意味は、「ひざをかがめる」、そこから「ひざまずく、あがめる、祝福する、賛美する、誉め称える」の意味となりました。
 
あたかも、親が、膝をついて子供の目線に合わせ、
よく食べなさい、健康になりなさい、と、愛の眼差しで目を向けてくれるかのように、
主がお一人一人を特別扱いし、特別保護対象にして下さいますように、という、素晴らしい願いが込められているかのようです。
 
私達も自分自身の守りのために祈る事は重要ですが、何より、私達自身が、テフィリン(御言葉暗唱)をする事によって、神様の言葉というバリケードを、私達自身に張り巡らす事が、何にも増して、有効です。
なぜなら、せっかく祝福を祈ってもらっても、本人自身が、祝福の囲いから出るような性質、つまり、罪や呪いの言動をする思考パターンがあるとするなら、たとえ祝福を受けても、たちまち祝福がその人から逃げてしまうからです。
祝福は、受けるにふさわしい人にとどまり、受けるにふさわしくない人から逃げていくものです。
 
テフィリンをして、昼も夜も御言葉を口ずさみ、思いと心に御言葉のバリケードを張った状態にしている人は、呪いをみずから招いてしまうような罪の性質が、どんどん消え去って行きます。
キリストとベリヤルは共存できないからです。
 
そして、ここにおける「祝福」の内訳は、「シャーマル」(שָׁמַר)、すなわち、「守られますように」です。
 
シャマールとは、羊飼いが羊を石垣で囲って、その垣の上にさらに棘つきの植物を乗せてバリケードを張る、というのが元々の意味で、そこから、厳重に守る、という意味になりました。
ですからこの宣言は、主が、あのサメクの字のように、囲いを設け、厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、あらゆる悪しき勢力から、守って下さいますように、という宣言です。
 
 
民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
 
「恵まれるように」のヘブライ語「ハーナンחָנַן」は、元々、目下の存在に、親切にする、身をかがめる、好意を持つ、与える、などの意味があり、そこから「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と、よく訳されます。
 
知っていたでしょうか?
私たちは、実は、神様の一方的な「ハーナン(恵み)」によって、生かされている事を。
私たちが生命を維持していく上で必要なもの、例えば空気や水、太陽、食べ物など、これらは全部、神様が一方的に与えて下さった恵みです。
 
そして、私達の「健康」も、神様から与えられている贈り物であるという事を、忘れてはなりません。
もし心臓が突然、正常に活動しなくなったなら、数分も、生きながらえる事はできません。
そうした事を意識せずに生きている人が、残念ながら大部分です。
 
その 私達の生存において、全ての必要が満たされるように、と、サメク本文の二番目の祝福として、「恵まれますように」が示されています。
 
その恩恵を、主が「御顔を照らす」事によって、私達に施してくださいます。
 
詩篇80篇では、『神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。』という祈りが、3回も繰り返されております。(3,7,19節)
つまり、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、神様との破壊された関係は、修復されます、もとの祝福された状態に戻ることができます、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、破壊された生活が、建て直され、もとの、祝福の生活に戻ることができます、という祈りです。
主が、御顔を照らして下さるなら、そのような回復が可能である、と確信して祈るのが、詩篇80篇です。
 
ですから、主の御顔の光が向けられ、神様との関係や、生活が、回復されるために、まことの光であり、御言葉であられるイエス・キリストに帰るべきなのです。
 
 
民数記6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように
 
サメク本文・三番目の祝福は、主なる神様が、その御顔を私たちに「向けて(ナーサーנָשָׂא)」、平安(シャロームשָׁלוֹם)を与えられますように、という祝福です。
 
ここで、「向けて」と訳されたヘブライ語・ナーサーは、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味があります。
いと高き神が、地に住む、低く卑しい人に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事でしょうか。
それはちょうど、泣いている赤ちゃんを、母親が手で高く上げ、顔の近くへ運んで行き、顔と顔とを合わせ、じっと見つめ、赤ちゃんを安心させるような、様です。
 
平安と訳された「シャローム」というヘブライ語は、よく「平安」「安息」と訳されます。
 
基本的に、人は、安楽である事を求めますが、シャロームの平安は、その「楽」である事よりも、遥かに大きな意味を持っています。
この世の人々は、楽な状態を追求するために、お金を稼ぎ、楽な仕事を好み、楽な状態を目標として、生きます。
 
時には汚い手を使ってでも、「楽」を手に入れようともします。
しかし、そのようにして「楽」を追求する人々は、実は、神様の「シャローム」の平安を見い出す事は難しいのです。
 
サタンは、この世の富や地位、栄誉が由来の「安楽さ」をエサにして、人々を釣りますが、その目的は、人を揺さぶり、破壊し、死に至らしめる事です。
人は、サタンから、どんなに高い地位や栄誉、また富を得たとしても、真の安らぎは、得られません。
どれほどお金や地位を得たとしても、それを得るために犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びへと導く、という事を、彼らは何となく知っているからです。
 
神様が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い、世の何物にもまさる平安です。
それは、「楽」な状態であるか・ないかを超越した、揺るがない平安なのです。
主が与えて下さるシャロームは、たとえ、肉体的に、あるいは、金銭的に、どんなに苦しい状況であったとしても、心が100%「大丈夫だ」と、安息しているのです。
  
赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、という理由では、泣きません。
ただ、お母さんやお父さんの顔が見れないと、泣きます。
そして、顔近くへと抱き上げられて、じっと見つめられると、安心して喜びます。
 
赤ちゃんには、そもそも、お金や地位といった、余計な知識は、ありません。
ただ自分を愛し、大切にし、守ってくれて、そして、全ての必要を備えてくれる、お父さんとお母さんこそ、かけがえの無い存在だと、生まれながら知っているからです。
 
また、お父さんやお母さんが、どんなに今の生活や将来や、お金の心配をしたからといって、子供は心配しません。
なぜなら子供は、お父さんやお母さんなら、なんとかしてくれる、と、信じて疑わないからです。
 
だから私達もまた、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきです。
 
『今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。』(1ペテロ2:2)
 
赤ちゃんのように主の御顔を慕い求め、そしてサタンに対しては、御言葉で完全武装した兵士となるのです。
今日も、神様が御顔を向け、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事に、最善を尽くしましょう。

主日礼拝

この宇宙で最も敵に回してはならない者たち(ヨシュア記10:1-11)

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週報/メッセージ(説教)概要

 再び、ヨシュア記から養いを得たい。前回のヨシュア記9章では、主が「滅ぼしつくしなさい」と命じられた悪辣な民族の一つ、ギブオン人が主に立ち返り、主に助けられたいがために、自分達の出所を偽って、神の民に同盟を求めに来て、救いを得た。主は、罪を悔い改めて救いを求めて来る人は、決して拒まない。
それも、もし神の民より、彼らの方の信仰が優れているなら、主は、彼らの方を弁護し、特別扱いして下さる。
 今回の10章では、主はどれほど熱心に、そのような人を擁護して下さるか、また、そのような、主により頼む人を救おうとする人には、どれほど物事をうまく進ませ、成功させ、祝福して下さるかを、見て行きたい。
 
 ギブオン人がヨシュア達と同盟を結んだ、という事を聞いた周辺の王たちは、連合してギブオンに攻撃を仕掛けた(5節)。罪深い者達と縁を切って、イエシュア(ヨシュア=イエス様)と和平を結び、救いに入ったとたん、以前仲間だった悪辣な者達が歯ぎしりして、罪の生活へ戻そうと、攻撃を仕掛けてくる。それは、救われた人達が経験する宿命と言ってもいい(1ペテロ4:3-5)。そのような時は真のヨシュアであるイエス様に助けを求めるのだ。彼らが助けを求めると、ヨシュア達はすぐ、攻撃を受けているギブオンへ急行した。主は彼らの、主の助けの中で生きたい、という気持ちを汲み取り、彼らを特別扱いされたのだ。
 
 ヨシュア達がいるギルガルから、ギブオンまでは、およそ35km。傾斜地を登って行く形となる。それを夜通し行くのは、骨が折れる行軍である。イスラエルにしてみれば、元々、ギブオンと和を講じるつもりは無く、騙された形で講じてしまったので、心情的には、救いたくなかったかもしれない。だから、このまま放置して、彼ら同士で戦わせて、互いに消耗させる、という手もあったかもしれない。しかし主は、そんな不誠実な計略で勝利させるお方ではない。主は、主に頼りを置く民のために、圧倒的な勝利で救って下さるお方だ。
 主が主の民に願われる事は、一度約束した事を忠実に守る事、そして主の翼の下に保護を求めて来た人は一人も残さず救う事である。主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからである。彼らの内には、あなたに当る事のできる者は、一人もないであろう。』(8節)
 
 私達も、時には、気乗りしない戦いに「出よ」と、主から言われ、しぶしぶ出ていく事がある。その時「なんであんな者のために苦労しなければならないのか?」と、思うかもしれない。しかし主がそう言われるなら、行くべきなのだ。従いたくない心をとりこにして、御言葉に服従して行くなら、主は莫大な勝利を下さるだけでなく、宇宙規模の奇跡さえも起こして、私達の思いを遥かに超えた結果を、用意しておられるからだ。
 事実、彼らは、この従順を通して、とても短期間に、多くの王達を一網打尽にし、多くの地を占領できた。
皆さんも、短時間で一気に、多くを獲得したいだろうか?それなら、主の示した事に、服従するべきである。
 
 彼らは夜通し、ギルガルから上って行って、敵を急襲した。主が彼らをかき乱されたので、イスラエルは彼らを激しく打った。しかも主は、彼らの上に、大きな雹を降らせ、イスラエル人が剣で殺した数よりも、雹で死んだ者のほうが、多かった(9-11節)。明らかに、天地を支配しておられる主が味方して戦われたのだ。
この宇宙で、最も敵に回してはいけないのは、主の御声どおりに聞き従う主の民である。主は太陽や月の運行を司り、雹の一粒一粒さえ命令して、主に救いを求める民を保護し、彼らを脅かそうとする者を蹴散す。
 主は、主に約束した事を忠実に全うする聖徒を全面的にバックアップし、大いなる御業を見させて下さる。
そして、それを見た救われたばかりの人は、ますます主を畏れ敬い、従うようになり、そして、主の御声に従って彼らを助けた聖徒たちも、それを機に、今まではかどらなかった事が、一気に片つくのである。
 実際イスラエルは、主に服従して彼らを助けた故に、短時間で多くの地を征服し、この地方の占領は一気に進んだ。私達は、自分の好き嫌いや世の価値観で進んで行くべきではない。主の御言葉に従って行くべきである。それまで、主ご自身が直接戦って、奇跡的な勝利を得て来たが、これからは段々、彼ら自身が戦う事になって行く。主は、まだ剣を使い始めたばかりの彼らの手を鍛え、自主的に主の御旨を為そうと働き、自分の足で走り、剣を使い、戦う、という事を徐々に学び、そうして御国の兵士として整えられて行く。
 自主的に御旨を求め、主の世界経営・歴史経営に参加し、この時代、主の御国をもたらす勇士として、政治、経済、文化、教育を支配して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書講解説教

神様を中心とした土地と支配、生活(エゼキエル45章)

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神の民は、聖であるべき事、神様を中心とした歩みをするべき事が、続いて示される。
 
エゼキエル45:1 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。
エゼキエル45:2 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
 
ここでは、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保しなさい、という事であるが、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
まず、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、聖所と至聖所のため、そして、そこで仕える祭司のためのものとし(3-4節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、はその周辺で奉仕をするレビ人のものとし(5節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅0.5万キュビトの地を、イスラエルの全家のものとして(6節)、
それらの土地を聖別し、確保するべき事が命じられている。
 
神の民にとって、聖として確保された地の中心は、聖所、すなわち礼拝である。
神の民たる私達が、ここから学ぶべき事は、私達も、主のために聖別された時間、空間を確保し、礼拝を中心にした歩みをするべきだ、という事である。
 
 
エゼキエル45:7 また君たる者の分は、かの聖地と町の所有地との、こなたかなたにある。すなわち聖地と町の所有地に沿い、西と東に向かい、部族の分の一つに応じて、地所の西から東の境に至り、
 
君たる者(ナーシー:上に立つ者、王ではない)のための土地も、確保されている。
それは、この聖別された土地の西側と東側、どちらも、国境に至るまで延びる広大な土地である。
 
エゼキエル45:8 その所有の地所はイスラエルの中にある。わたしの君たちは、重ねてわたしの民をしえたげず、部族にしたがってイスラエルの家に土地を与える。
 
以上のように、主の聖所と、祭司やレビ人、イスラエルの全家に割り当てるべき、聖別された地が、そして、君主に対する土地が定められた。
 
地は、本来、主のものであって、主から人々へゆだねられたものとして、割り当てられる。
それ故、人は土地を勝手に自分のものとするべきものではない。
この地上で、旅人である私達が、仮の住まいとして生きるべき、主からの借地なのだ。
 
9-17節に、君主たる者のつとめが示されている。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
それまでの、イスラエルの歴代の王たちは、暴虐と暴行によって人々を支配し、重税で追い立てていた。
その取り立てて集めた富を、王たちが、わがものとし、おのおのの欲望のままに使うためであった。
しかし、そのような汚れた暴虐の行いゆえに、主はバビロンを通して、全て破壊してしまった。
だから、このエゼキエルに示された神殿や、定められた定めは、ことさら、きよめに立つこと、汚れを持ち込んではならない事が、重点的に示されているのである。
 
神の民は、主から土地を相続地としてゆだねられているからには、主の聖さを汚すことはあってはならない。
また、民の上に立つべき者には、主の聖さを保ちつつ、正しく治める責任が、任されている。
 
上に立つ者は、確かに民から物品を集めるが、それは、君主たちの欲の赴くままに使い込むためではない。
民に代表して、それを、神様の元へと持って行って捧げるためである。
 
エゼキエル45:10 あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
エゼキエル45:11 エパとバテとは同量にせよ。すなわちバテをホメルの十分の一とし、エパもホメルの十分の一とし、すべてホメルによって量を定めよ。
エゼキエル45:12 一シケルは二十ゲラである。五シケルは五シケル、十シケルは十シケルとせよ。一ミナは五十シケルとせよ。
 
ここでは、正しいはかりを基準にしなくてはならない事が、あらためて示されている。
以前は、異なるはかりを用いて、社会に不正や混乱をもたらしていたが、相手や状況によって異なる秤を用いる事を、主は忌み嫌われる。
 
箴言20:10 互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。。
 
 
さらに13-15節には、民が君主に納めるべき割合が示されているのだが、民から集めたそれらは、君主が代表して主にささげるものである、という事が、重要である。
 
主の民には、本来、人間の王は、無いはずである。(1サムエル記8章)
神が王であり、人々の上に立つ君主は、人々が「主にささげる」という行いを促すために人々から集め、人々に代表してそれを主に捧げる、という役割をする者に過ぎない事が分かる。
だから、ここでは「王」ではなく「君主」という言葉が使われているのである。
 
 
18節以降、イスラエルの祭りに関する規定が続く。
 
エゼキエル45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
エゼキエル45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
 
まずは年初に、礼拝場所のきよめをしなくてはならない。
 
エゼキエル45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
 
あやまって罪を犯した者や、わきまえのない者がいる。
彼らは、それを罪とは知らず、意図せずに罪を犯すのだが、しかし、「知りませんでした」で済むものではない。
その贖い・償いを、きっちりしなくてはならず、そのために、犠牲の血が流されなくてはならない。
 
イエス様は、知らずに罪を犯した私達のために、十字架上で血を流し、「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言って、執りなし祈って下さった。
 
21-25節では、過越祭や種無しパンの祭り、仮庵の祭りの規定が示されるが、そこでも、君主が民に代表して捧げるべき事が書かれてある。
 
以上のように、人の上に立つ者は、神と人との間に立って、民に代わって主に捧げる事、そして、神から託された御言葉を、民に守り行わせるべき事が使命である事が示された。
神の国における「偉い人」「人の上に立つ者」は、世のそれとは違う。
決して、世の王たちがしているように、むさぼりの心をもって民草を虐げてはならない。
 
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
マタイ20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
マタイ20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 
 
神の民は、聖である事が、きよさを中心に生活する事が、要求されている。
 
1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
2コリント6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
2コリント6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
2コリント6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
2コリント7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。

エゼキエル書講解説教

聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)

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エゼキエル44:15 しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。
エゼキエル44:16 すなわち彼らはわが聖所に入り、わが台に近づいてわたしに仕え、わたしの務を守る。
 
通常のレビ人は、もはや、この新しい神殿の聖所での奉仕には預かれない事が、前回示された。
その理由は、彼らは本来、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を、教えなければならなかった、はずなのに、彼らはそれを教えず、むしろ、民の罪、民の俗っぽさに、染まってしまかったからだ。
 
しかし、ツァドクの祭司の子孫は、そのようでなく、主の前に誠実を尽くした。
それで、ツァドクの子孫が永遠に、主の御側近くで祭司の務めをするものとして、栄光の任務が与えられた。
 
今回の箇所は、ツァドクの子孫が、祭司として、聖所で仕える際に気をつけるべき事が定められている。
ここに記されている規定は、出エジプト記やレビ記からいくつかピックアップされているが、その内訳は、特に、祭司たる者は、きよさと聖を保つべき事、汚れを帯びないようによく気をつけるべき規定に、特化されている。
 
なぜなら、祭司たるものは、主の最も近くで奉仕する者であり、人々の前で、主の聖であられる事を表し、主の栄光を示さなければならないからである。
彼らはもはや、以前、レビ人達が犯した過ちを、もう繰り返さないようにしなくてはならない。
 
エゼキエル44:17 彼らが内庭の門にはいる時は、麻の衣服を着なければならない。内庭の門および宮の内で、務をなす時は、毛織物を身につけてはならない。
エゼキエル44:18 また頭には亜麻布の冠をつけ、腰には亜麻布の袴をつけなければならない。ただし汗の出るような衣を身につけてはならない。
 
祭司が務めに入るために、聖なる領域に足を踏み入れる際、その聖なるつとめ専用の服に着替えてから入るべき事が示されている。
そこでは、毛織物を、すなわち、世の方法で血が流されて作られた着物を、身に着けてはならない。
 
動物の血が流されるようになったのは、エデンの園において、人が主のたった一つの戒めを破って以来だった。
また、人が、汗を流して土地を耕さなければならなくなった、というのも、人が神のことばに逆らい、女の言葉に従った故だった。
 
祭司は、人の前には神の代理として立ち、また、人の代表として神の前に立つ故、エデンで犯した神の言葉に対する違反の刈り取りを、身に帯びて、その務めに入ってはならない。
彼らは、罪のいけにえによって、贖われ、清められた状態で、つとめに入るからだ。
 
エゼキエル44:19 彼らは外庭に出る時、すなわち外庭に出て民に接する時は、務をなす時の衣服は脱いで聖なる室に置き、ほかの衣服を着なければならない。これはその衣服をもって、その聖なることを民にうつさないためである。
 
神の民は、確かに聖なる民ではあるが、この祭司の服は、さらに聖なるものである。
「聖」とは「切り分けられた」事の意味がある。
神の民は、世から切り分けられた者たちであり、そして祭司は、その中からさらに切り分けられた者たちであり、特に、聖所における働きは、そうである。
 
その、聖なる服を身につける事によって、聖所に入ることが出来るほどの「切り分けられた」服を着たままで、世の、俗なる者たちの前に出て、民を聖なるものとしてしまうなら、どうなるか。
祭司のように、聖と俗をわきまえない者たちが、聖別されてしまったとしたら、彼らがその身で俗なる所に行き、罪を犯し、その聖さを冒すなら、彼らが咎を負う事になってしまう。
 
 
エゼキエル44:20 彼らはまた頭をそってはならない。また髪を長くのばしてはならない。その頭の髪は切らなければならない。
 
男子が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであると、自然自体が教えている。(1コリント11:14)
また、頭を剃る行為は、死人を悼む行為と直結している。(後述)
エゼキエル44:21 祭司はすべて内庭にはいる時は、酒を飲んではならない。
 
アロンの子ナダブとアビフは、おそらく、ぶどう酒に酔った状態で聖所に入って、主の前に異なる火を焚き、主の前で焼き殺されてしまった事が、レビ記10章から見る事ができる。
 
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:6 モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。
10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。
 
以上のように、祭司は、聖なるつとめに入る際、「死ぬ事の無いように」、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならない。
主は、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現す」と言われたからだ。
祭司は、聖なる油注ぎを受けた故、聖なる場、聖なる位置を離れてはならないし、また、死んだ行いや、死んだ者に、関わってはならない事が、レビ記10章に書かれてある。
 
エゼキエル44:22 また寡婦、および出された女をめとってはならない。ただイスラエルの家の血統の処女、あるいは祭司の妻で、やもめになったものをめとらなければならない。
 
この事は、レビ記21:7にも書かれている。
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
 
祭司は、神に対して聖(切り分けられた者)であるので、きよさを保たなければならない。
一般のやもめや、一般の離婚された女は、既に、以前の「一般の男」を知っており、すなわち、既に世俗と結合されてしまっているので、「聖」である事が要求される祭司には、嫁ぐ事はできない。
だから、もしそれが祭司のやもめであるなら、めとってもよい、と言われている。
 
祭司はなぜ、ここまで、きよさを追求しなければならないのか。
その理由が以下に示されている。
 
エゼキエル44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
 
ここでは「教えなければならない」というキーワードが、2回繰り返し強調されている。
そう、祭司たるものは、神の言葉、律法を「教え」なくてはならないからだ。
 
祭司こそ、一番、聖なるものと俗なるものを切り分け、汚れたものときよいものとの区別しなくてはならない存在である。
前回の所では、それをしなければならないはずのレビ人が、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせ、そうして聖なる領域に汚れを持ち込んでしまった故に、彼らにはペナルティが課せられた。
 
本来、聖と俗を切り分け、汚れたものときよいものの切り分けを、教えるべき立場の者が、俗物となり、また汚れていたなら、会衆全体が、聖さを見失い、俗物となってしまう。
だから、祭司は、特に、きよさと聖を身に着けなくてはならないのだ。
 
エゼキエル44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわが律法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
 
祭司が、世の裁判官の役割をする理由は、彼らが神の法律を一番知っているからである。
神の民は、世の仕方、世の裁判、人間の思考で、世の裁判官にさばきを委ねてはならないのだ。(1コリント6章)
 
エゼキエル44:27 彼は聖所に入り、内庭に行き、聖所で務に当る日には、罪祭をささげなければならないと、主なる神は言われる。
 
祭司は、罪のためのいけにえを捧げて、罪の問題を解決したからこそ、聖なる務めに入ることができるのだ。
 
エゼキエル44:28 彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。あなたがたはイスラエルの中で、彼らに所有を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。
 
祭司が受け継ぐ、相続の土地は、この地上には、無い。
主ご自身が、相続地であるからだ。
彼らは畑を耕したり、海に出て漁をして食料を得るものではない。
神の働きをして、食を得る者である。
 
エゼキエル44:29 彼らは素祭、罪祭、愆祭の物を食べる。すべてイスラエルのうちのささげられた物は彼らの物となる。
エゼキエル44:30 すべての物の初なりの初物、およびすべてあなたがたのささげるもろもろのささげ物は、みな祭司のものとなる。またあなたがたの麦粉の初物は祭司に与えよ。これはあなたがたの家が、祝福されるためである。
 
ここに、「あなたの家に祝福が宿るため」と書いてある。
祭司の食物を絶やさないなら、祭司は立派に務めあげる事が出来、心置きなく祝福を祈る事ができるからである。
イサクが心置きなく祝福できたのは、おいしい食で満腹したからだった。
 
エゼキエル44:31 祭司は、鳥でも獣でも、すべて自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べてはならない。
 
祭司が食べて良い動物は、ただ、主に捧げられるためにほふられたもの、である。
世の方法で血を流し、殺したものは、祭司は食べてはならない。
 
以上、主の御そば近くで仕えるべき者の標準は、世の標準とは全く違っていた。
私達もまた、王族の祭司とされた者として、自らをきよめ、聖別するべきである。
 
1ペテロ
1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
 
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

 

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