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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

主に召し出されても、何をして良いのか分からない時(ヨハネ21:1-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 復活祭の後、およそ7週間後の聖霊降誕日までの間を、教会の暦は「復活祭期」「主の復活の第*週」と呼んでいるが、この期間、私達は聖霊に満たされる事を祈り求める時としたい。
弟子達は、いつ、聖霊を受けたか。それは実は、ペンテコステの日ではなく、イエス様の復活の日である。
『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』(20:21-22) イエス様はこの時、「あなた方を遣わす」と言われ、そして、息を吹きかけた。
聖霊を受ける理由は、「遣わされるため」である。私達はイエス様の御元で座って聞き入って居たいかもしれない。しかしそこを立って、世へと出て行き、イエス様を伝える者となるべきだ。世に働きは多いからだ。
しかし弟子達は、復活の主からせっかく聖霊の息吹を吹きかけられても、以前と全く変わっていなかった。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「私達も一緒に行こう」と言った。」(3節)
シモンがここで言った「行く(フパゴー)」には、「徐々に退いて離れて行く、去って行く」の意味がある。
つまり彼らは、せっかくイエス様から「遣わされる」ために聖霊の息吹を吹きかけられたのに、弟子としての働きは徐々に退き、元々していた漁へ戻って行こう、と表明したのだ。私達もそういう所があるかもしれない。
イエス様を信じ、イエス様から「あなたを遣わします」と、聖霊の息を吹きかけられたのに、特に変わり映えが無く、むしろ今までいつも目の前で先頭に立ってリードしてくれていた指導者や、牧師がいなくなったら何も出来ず、何も思い浮かばず、手をこまねいて、以前の状態に戻ろうとしてしまうのは、ありがちである。
しかし私達は既に、イエス様を主と告白する事によって、聖霊の息吹は受けている。(1コリント12:3)
世から引き抜かれ、神の国の者とされている。というのに、今まで頼りにして来たものが目の前からいなくなってしまって、何が出来るだろう、と思う働き人は多い。しかし主を信じて行くなら、大きな働きをするのだ。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。』(14:12)
実際、弟子達はペンテコステ以降、イエス様のわざをなし、とても偉大なわざをして行った。
そこに至るまでは、まだ、色々なステップを踏んでいかなくてはならなかったが。

弟子達は、その夜、何も獲れなかった。ひと度、主から聖霊を息吹かれ、任職を受けたなら、以前していた世の事どもに戻ろうとしても、何も獲れないし、また、世に留まり続けてもひたすら虚しく、何の実りも無いのだ。その時、イエス様は岸辺に立たれたのに、弟子達には、それがイエス様だとは分からなかった。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(21:5)
イエス様は、分からないから聞いたのではない。任職と聖霊を受けたのだから、人間をとる漁師に出るべきはずなのに、今までの世の魚を取ろうとするのだから、収穫が虚しいのは当然だろう、と確認したのだ。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(21:6)
イエス様の御旨でない所に闇雲に網を投げても、ひたすら虚しいのだ。伝道であれ、奉仕であれ、御旨でない所に「ここだ」と思って投げても、同じく虚しいのである。しかし、イエス様の御声に従順し、彼が指示される所に網を降ろすなら、人の能力や経験を遥かに超えた、何日分もの養いを得る事が出来る。
そして、それをして下さったのは、人ではなく主であると知り、主はそのような御方であると改めて確認するのだ。ヨハネは「余りある必要を満たされる」というイエス様のご性質を思い出し、「あれは主だ」と叫んだ。
前の仕事・前の状態に戻ろうと言った張本人のペテロは、主であると聞き、衣で裸を覆い海にとびこんだ。
私達も、ペテロのように、イエス様だと気づいたなら、イエス様に敬意を表し、すぐ飛び込んで戻るべきだ。

私達は、イエス様を信じて以降、彼の素晴らしさ、御言葉の甘さを味わっていながら、伝えていなかったり、恐れて戸を閉ざして閉じこもっていたり、前の状態に戻ろうとしたりしていないだろうか。ぬくぬくと現状の心地よさに留まっていないだろうか。もしそうだとするなら、もはやそこを離れて働きに出られるよう、聖霊充満を求めるべきだ。キリストの復活と新しいいのちに生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
私達の罪の償いのために罪過のいけにえとなって下さった主(レビ記5章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

主の復活から昇天までの弟子達の整え(ヨハネ21章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

御心とは(1テサロニケ4:1-8)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
主の引き抜きによって御国の捕虜とされた私達に相応しい歩み(エペソ4:1-10)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
踏みにじられなかったのに踏みにじり、裏切られなかったのに裏切る者(イザヤ33:1-6)
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火曜早天祈祷会

主の復活の息吹に息吹かれて世に遣わされる私達(ヨハネ20:19-29)
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秘められたサインを解き明かして下さる主(黙示録1:17-20)
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ヨハネは、主の日(主日:日曜日)に、霊にあって主の御声を聞き、主が開示して下さった幻を見せられた。
その中に現れた主の有様は、圧倒的「聖」であり、圧倒的に清くあられた。
『わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)

自分の内に、罪ややましい所がある人は、権威のある人、正しく聖なる人と相対する時、恐れおののくものである。
主は圧倒的に聖であられ、何の過ちも無いお方であり、その聖なる御顔を向けられるなら、その人は、はなはだ恐れ、倒れ伏すしか無い。
あの屈強なローマ兵もそうであったし(マタイ28:4)、使徒ヨハネも、預言者イザヤも、エゼキエルやダニエルも、皆、そうであった。

しかし主は、主のしもべヨハネに右の手を置き、「恐れるな」と言って下さった。
ヨハネは、自分のことを「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と言った。(1:9)
私達も、ヨハネと同じような、主にある兄弟姉妹であり、イエスの苦難と御国と忍耐とに共にあずかっている者であるなら、恐れる事は無い。主が右の手を置いて、恐れるな、と語りかけて下さるから。
それは、何と幸いな事だろう。

「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)
主は、この世が始まる以前から、この世の終わりの後さえ、永遠に生きておられる方だ。
そのような永遠なるお方が、私達の主であり、王であり、そして「恐れるな」と言葉をかけて下さる。これこそ、私達がどんな事にも恐れる必要が無い根拠である。

『わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。』(黙示録1:18b)
原文テキスト(Textus Receptus)には、この直後に「アーメン」が挿入されている。
イエス様は確かに、一度、死んだ。しかし、よみがえって、永遠に生きておられる。イエス様はこの事を「アーメン」と言って、「これは確かな事である」という印を押されたのだ。

『そして、死と黄泉とのかぎを持っている。』(黙示録1:18c)
イエス様は、死をも、支配しておられる。
主は、私達のこの肉体のいのちが終わる日も、雀の一羽が地に落ちる日時さえ、支配しておられる。
そして主は、やがて、最後の敵である死をも滅ぼされる。(1コリント15:26)
だから、キリスト者は、死を恐れる必要が無いのだ。

今、この地上で、私達はまだしばし「死」と付き合わなくてはならない。
それは、死とは一切関わりが無いはずのイエス様さえ、人として降りて来られ、人間の死にわざわざ”付き合って”くださったからだ。
この世には、まだまだ救われるべき多くの命たち、死に束縛されながら、そこから解放されたいと切望している人達がまだ多くおり、彼らを救い出すべき務め、すなわち、死に勝利されたイエス・キリストの福音を伝える務めが、まだ残されているからだ。
それを私達が、完遂した後、終わりの日が来る。

『そこで、あなたの「見たこと(エイドー)」、「現在のこと(エイスィ)」、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。』(1:19)
「エイドー」には、「見た」の他に、知った、分かった、という意味があり、また「エイスィ」はBE動詞で、すなわち「在る」という意味だ。
主はヨハネに、あなたは幻で見せられた事、すなわち、今真理として在る事、そして、将来必定的に起こるべき事を、見たままを記せ、と命じられた。
だから、この啓示録、すなわち、ヨハネが主から示され、見た事をそのまま書き留めたこの書は、完成された預言の言葉であり、これに付け加えたり、減らしたりしてはならないのだ。(22:19)

黙示録は、誰かに解釈してもらわなければ理解できないサインが多くある。
そしてそれは、人には解釈できないし、解釈する事は、許されてもいない。

『ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。』(ダニエル2:27-28)
ダニエルが仕えたバビロンの王・ネブカデネザル王に、主が見せられた秘密は、どんな呪法者も、知恵者も解き明かせなかったばかりか、王自身さえ、その夢の内容を自分で言えなかった。
同じように、神である主が見せられた謎を解き明かせるのは、ただ、ほふられた小羊、神の御子、キリストのみである。
黙示録においては、主はサインを与えられられる。しかし、そのサインの秘密を明かす「啓示」も、主はセットで与えて下さるのだ。
そして、その主が与えて下さった解釈こそ正しいものであり、それに対して付け加えたり減らしたりしてはならない。
主はこの啓示録の最初に、サインと、その解釈を、ペアで示された。

主はまず、ヨハネに、7つの金の燭台を見せられそしてその燭台の真ん中を歩まれるお方は、7つの星を右手に握っておられた。
この事は、いったいどういう事か。
それを、主ご自身が、20節で明確に解き明かして下さっている。
『あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:20)

ここで、主の右手に「握りしめられた」(2:1)星は、7つの教会の御使である、と、主は明かしている。
「御使い」の原語アンゲロス(エンジェルの元)には、確かに、あの翼がはえた、神々しい天的な使いを意味する事もあるにはあるが、元々は、メッセージを運ぶ者としてのメッセンジャー、頼りを届ける者の意味だ。
つまり、牧師や宣教師、その他、主の意図を取り次いで人に伝える人も、立派にアンゲロスなのだ。

2章以降では、アジヤの7つの教会に、「**にある教会の御使いに書き送れ」と記されているが、ここのアンゲロスは、あの天的な存在の天使ではなく、各教会に遣わされる僕者や説教者、メッセンジャーの事である。
なぜなら、この手紙は、アジアの各教会に、人間の説教者、指導者がもたらし、それぞれの教会で朗読したのであって、天使が各教会に現れてメッセージを伝えたのではないからだ。

黙示録の最初には、この預言の言葉を朗読する者(単数)と、それを聞く人々、守り行う人々は幸いだ、と、記されている。(3節)
つまり、牧師や指導者など、この言葉を朗読する「アンゲロス」を、主は、星として、右の手の中にクラット(しっかり掴んで)して下さるのだ。
私達が御言葉を伝えるアンゲロスとなる時、主が握りしめておられ、離さない。
それは何と心強い事であろうか。
だから私達は、御言葉を伝える時、忠実である事が求められるのだ。

今のこの終わりの時代、私達はこの書を閉じるべきでなく、むしろ朗読し、またそれを聞き、心に留めるべきだ。
これを伝え、主からクラットされる幸いの内に、働いて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

復活の後のイエス様のあらわれ(ルカ24:13-35)
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メッセージ音声

イエス様の十字架と復活以降、イエス様に属する人々に対する現れ方や挙動は、十字架前とは一転する。
『この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。』(ルカ24:13-15)

二人の弟子達は、道すがら話しあったり論じ合ったりしていた。
イエス様の十字架の死と葬りについて、そして、この朝、よみがえったという話を女達から聞いて、その事について。
しかしその内に、なんと、話題の張本人であるイエス様が二人に近づいて、一緒に歩かれた。
それなのに弟子たちには、その彼がイエス様だとは、分からなかった、というのだ。
マグダラのマリヤもその朝、イエス様ご自身が目の前にあらわれたのに、園の番人だと思いこんで、気づかなかった。(ヨハネ20:15)
また、鍵がかかっている弟子たちのいる部屋に突然現れたり、あるいは突然見えなくなったり、あるいは、遠いところにいる弟子たちの所に、瞬時に移動したりと、とにかく、復活以降のイエス様は、そのような不思議な現れ方が多い。

この、イエス様の復活以降の不思議な現れ方は、現代を生きる私達に対しての現れ方と同じではなかろうか。
二人でも三人でも、イエスの名の元に集まる所に、主が来て下さる。
そこが、いかに鍵がかかっていても、いかに遠くにいても、主がそこに、密かに来て下さる。
それに対し、その人が気づかなかったり、あるいは、後になってから「あれは主だった」と気づいたりするのではなかろうか。

「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」
かの弟子たちも、イエス様が一緒に歩まれているとは気づかなかったのだが、ここで「目がさえぎられて」と訳されている言葉の原文は「クラテオー」、握りしめる、という意味である。
私達も、自分の思い込み、したい事、固定概念などを「握りしめて」いると、イエス様を見逃してしまったり、あるいは大切な隣人の思いが分かっていなかったりするものだ。

『イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。』(ルカ24:17-19)
彼らの思いは、悲しい思い込み、暗い思い込みで満ちていて、それを握りしめている状態だった。

彼らはイエス様に教えた。
エルサレムで最近起きた事を、すなわち、わざにも言葉にも力ある聖なるお方・イエス様がおられたのに、あろうことか国の指導者達は彼を十字架につけて殺してしまった、さらに三日目の今日、仲間の女達が、墓に行ったのだが、イエスの遺体は無く、しれも御使が現れて『イエスは生きておられる』と告げたというのだ、という事を、目の前に当のイエス様を前にして、暗い顔・悲しい顔をして、言っているのである。
なんと滑稽な事だろう。
しかし私達は、この滑稽な場面を、笑ってはいられない。
なぜなら、私達こそ同じように、イエス様がすぐ隣におられるというのに、暗い顔をして、要らない心配事をして、つらつらと祈り文句で述べたりする者だから。

『そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。』(ルカ24:25-27)
これもまた、実に不思議である。
この二人に対して「私がイエスだ」「この釘跡を見よ」と言えば、簡単に済むだろうに、なぜ、イエス様はそうされないのだろう。
実はそれもまた、現代を生きる私達に対してのイエス様の対応と同じである。

私達は、目で見たり手で触れたりできる「人間」よりも、むしろ、「御言葉」にこそ、拠りすがるべきなのだ。
今、私達は、イエス様が目の前に、見える形で現れてくださって、見たり触りたいと願うだろうか。
いや、そんな事を求めるより先に、気づくべきだ。イエス様は、まさにイエス様を呼び求める人のすぐそばにいる、という事を。

私達の目の前におられるキリストは、御言葉であり、御言葉は目に見えなくても、私達の口に、また心にあるなら、イエス様は確かに内におられ、働いておられるのだ。
ただ私達は、目に見える事や現実に囚われてしまって、それがわからないだけだ。
『では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。』(ローマ10:8)

イエス様が彼らに語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」だった。(27節)
私達は何かと、目で見たり手で触れたりできる人間に求め、頼りがちだが、頼るべきはイエス様ご自身たる「聖書」なのだ。
だからイエス様は、ご自身をあらわすのではなく、聖書を語られたのだ。

弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていたので、彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。
それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。

今を生きる私達の時代も、世の中に、騒動があるだろう。
私達の指導者達が、神に逆らうような、平和から遠ざかってしまうような事をしてしまい、その事で互いに論じたり、思いが捕らわれたりしてしまっているかもしれない。
しかし、イエス様の御言葉に心を向け、耳を傾ける時、御言葉に心は燃やされ、問題は問題ではなくなって行くのだ。

『一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。』(ルカ24:30-31)
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さる。それは、主のご性質である。
この、主のご性質が、彼らのイエス様との記憶と一致した時、彼らは判ったのだ。
実は今まで、ずっと一緒に、イエス様が共に歩んできて下さった事を。
私達も、必要な糧を、イエス様が祝福して裂いて手渡してくださった時、気づくものだ。
主が確かに共におられたという事を。

聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされ、そして、確かに主ご自身がこの旅路に共にいてくださったと、知るのである。
この弟子達は、一緒におられたのは主だと知ると、夜だったのに、また、せっかくここまで歩いてきたにもかかわらず、11.5キロの道を再び戻り、そして集まっている弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、また夜であっても、主が素晴らしい事をして下さった事は、伝えずにはおれないのだ。

そして、イエス様が祝福して裂いて下さった御言葉のパンを、人々の中に持って出て行くなら、それは決してなくならず、それを渡された人々をことごとく潤し、満腹させるのである。
ちょうど、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を養った時のように。

日常の内に隠れているイエス様に気付き、御言葉によって日々養われ、イエス様から祝福していただいたパンを受け取り、それを人々へと配り、さらに多くの人々をイエス様にあって潤し、満腹させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

キリストが復活された事の幸い(マタイ28:1-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭(イースター)、私達の主イエス様が復活された事を記念する日である。
イエス様はひと度、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネや母マリヤ、ローマ兵や百人隊長、その他、多くの人達の目前で息を引き取り、槍で突かれると、血と水が流れた。死後硬直しつつある遺体は降ろされ、岩窟の墓に葬られ、その入り口は大きな石で塞がれ、封印され、兵士が番をした。弟子達は皆、イエス様がよみがえるとはつゆ思わず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様は完全に、復活された!女達がイエス様の遺体に防腐処置しようと墓に行った時、ローマの封印は破られており、入口を塞いていた大きな石は脇にやられ、見張っていた兵士達は、死人のようになっていた。そして墓の中に遺体は無く、ただ体を巻いていた布が置き去りにされていたのみだった。
ローマは当時の最高権威であるが、いかに人が最高権威をもってしても、復活のいのちは、妨げられない。
よみがえられたイエス様は、十字架までついて行った女達に真先にあらわれ、弟子達にも現れ、また多くの人々の前に現れて、彼らの前で天に昇られた。イエス様は今も生きておられ私達の内に働いておられる。

イエス様を十字架につけ、一度は死なせる事に成功した祭司長・長老達は、兵士達の報告を聞くと、集まって協議し、兵士達に沢山の金を掴ませ『弟子達が夜中にきて、寝ている間に彼を盗んだ』と言わせた。
それが今日もユダヤ人の間に広まっているが、もし、イエス様がよみがえられなかったとしたら、どうなのか。
イエス様を見殺しにした弟子達は勇気を振り絞って出て来て、墓を守るローマ兵を気絶させ、封印を解き、重い石をころがし、イエス様の遺体を奪って、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。
また、大祭司一族や議員など、大勢の有力者を前に、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって、彼は癒された」と、誰もが驚く大胆さと知恵で、イエス様があたかも生きているかのように主張した、というのだろうか。(使徒4章)
そんな事は、決して有り得ない。そもそも、主を一度見殺しにして見捨ててしまったような弟子達が、もう死んでしまった主を「よみがえった」と言って命がけで吹聴するメリットなど、一体どこにあるというのか。
あらゆるキリストの敵対者・反対者には残念な事だが、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて、その莫大な復活のいのちの力を体験した人や、罪深い人生から全く変わってしまった人は、大勢いる。
キリスト教は当初、ユダヤ教ナザレ派という、元漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、お金も知恵もまとまりもない、弱小集団だったのに、ヘロデ王や皇帝ネロなど、世界に冠たるローマ帝国の迫害をものともせず、むしろ飲み込んでしまい、後には、帝国そのものをキリスト教国へとしてしまった。

復活祭は、キリスト教会では最も重要な祭りだ。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。』(1コリント15:3-6)
今までの人類で、心肺・脳波停止などの「死」から蘇生した人は、沢山いるだろう。しかしイエス様の死と復活は、そのような”蘇生”とは、根本的に違う。人はたとえ蘇生したとしても、必ずまた死ぬ。罪の故である。
しかし、イエス様が一度死なれたのは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため」、つまり、全て死の根源なる”罪”を処罰するための「死」であり、最後の敵である死も、滅ぼされる(同26節)ためである。
罪なき神の御子が、人の罪の結実たる「死」に、束縛されたままである事など、有り得ない。(使徒2:24)
死が有り得ないイエス様が、人間の死にわざわざ付き合って下さったのは、人として罪を負い、その罪を処罰するためだ。そのために彼は神の座をわざわざ降り、人となって、十字架につけられ、死に、そして復活された。それによって死に勝利され、罪に勝利され、私達を縛っている諸々の呪いから勝利されたのだ。
キリストの救いの方法は、死と復活だ。古い自分は一度、全く死んで、復活し、全く新しいいのちで生きるという「いのちの取り換え」だ。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。・・・ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。』(ガラ6:14)
キリストの復活にあって、彼のために新しいいのちを生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

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