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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

聖霊によって心刺された時(使徒2:36-42)
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聖霊に満たされるための心備え(使徒1:3-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

使徒行伝は、現代を生きる私達と同じキリスト者達、主の働き人達が行った「言行録」である。
弟子達は、福音書で見られたような弱く俗的で、すぐに間違いを犯すような有様とは真逆の、強く大胆で、きよく聖なる有様が記されている。そのようになった分岐点は、彼らが聖霊に満たされた時であった。
聖霊に満たされたキリスト者は、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる。
ペテロは以前は自分で自分を縛り、自分の好む所を歩き回っていたが、主が復活し、聖霊に満たされて以降、もはやそのように歩むのを止め、自ら聖霊の導かれるままに歩み、主のために生き、主のために死ぬようになった。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても、主のもの。それが、主の働き人の本来の生き方である。(ローマ14:8) 主は、働き人に約束しておられる。
「聖霊があなたがたにくだる(エペルコマイ:圧倒的に臨む、迫り来る)時、あなたがたは力を受けて・・・さらに地のはて(エスカトス:最後の、末端の)まで、わたしの「ために(原意)」証人となるであろう」(使徒1:8) 
キリスト者は、二通りある。以前のペテロのように自分のために生き、自分の好む所へ行こうとする人、また、主のために生き、主の御霊に導かれるままを生き、主の栄光のために死ぬ人と。前者の人生は、自由のように見えていて実はそうではなく、失敗が多く、最後まで主に従い尽くせず、惨めさと恥ずかしさに行き着く。がしかし後者の人生は、力強く、充実し、主の栄光に満ち満ちている。だから私達キリスト者は、もはや、自分に生きる事は止め、主のために生きるために聖霊を求めるべきなのだ。弟子達は聖霊を受ける前、どのように整えられて行っただろう。私達も聖霊が臨むまで、どう整えるべきか、使徒行伝から学びたい。

『イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』(使徒1:3)
イエス様が復活されて後、天に昇られる日までの四十日間、すなわち、もはや弟子達と面と面を向かって交わる事ができなくなるときまでの尊い四十日、主が弟子達に現れた都度示された事は、「ご自身が確かに生きておられる事」と、「神の国(バシレイア トゥー セウー:神の(王としての)統治」についてであった。
これら2つの事は、私達キリスト者にとって、重要な備えである。もし主の働き、主のミニストリーにおいてこれら2つ、「イエス様が生きておられる事」、「神の統治」が無いとするなら、全く無意味だ。
私達は、きょうと言われているこの日、今まさに現実この瞬間に、イエス様が生きて、働いておられる事を、常に信じ意識しているだろうか? また、主の支配が、地のエスカトス、すなわち、私達の生活や仕事、ミニストリーの末端・極みに至るまで、行き届いている事を、切に求めているだろうか。
主の支配ではなく、その逆に、自分の支配が隅々まで行き届く事を、求めたりしていないだろうか。
聖霊に満たされる事を求めるなら、まず、ここを整える必要がある。

「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
主は次に、命じられる。エルサレムという都、主の宮があり、主の民が礼拝に集うべき所から離れず、父なる神の約束を「待っている(ペリメノーの現能:期待して待つ)」事を。すなわち、主の礼拝、主の交わりから離れず、積極的な心で、すなわちボーッとではなく、期待する心持ちで、主の約束の成就を待ち望む事だ。
バプテスマは「浸し込む」事の意味である。死と復活を経たキリスト者は、いつまでも以前の自分を死に明け渡し続けるという段階にとどまらず、積極的に聖霊に浸しこまれる事を求めるべきだ。
「主よ、イスラエルのために国を復興(復元する、元通りする)なさるのは、この時なのですか」 弟子達は、四十日、神の支配に拠って歩むべき事を学び続けたはずなのに、相変わらず世の国の、以前の栄光の復元を期待した。あいにくイスラエルは、以前の栄光が帰るのではない。イスラエルはもはや一民族のものではなく、全世界がイエス様にあって一つとされ、神の民、霊的イスラエルとされる事が主のご計画である。
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と主が言われたように、私達は、これから主が何をなさるかを「理解」しようとするより、私達の思いを遥かに超えた主の圧倒的なわざに期待するべきだ。聖霊を待ち望むこの時期、私達は自分の自由にしたいという思いを御前に置き、ただ主の御言葉が成る事を積極的に期待しつつ、主の御国と御心を求めたい。

祈祷会 礼拝説教メッセージ
主の小羊を飼う者とは(ヨハネ21:15-18)
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祈祷会礼拝説教メッセージ
世の計算と神の国の計算(ルカ14:25-35)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
新しく造られた者に相応しい歩みと捨てるべき性質(エペソ4:25-32)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主から敵対されるエドム:兄弟姉妹を害するその性質(イザヤ34:1-8)
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早天祈祷会
二日の後に生き返らせ、三日目に立ち上がらせて下さる主(ホセア6:1-3)
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サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
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七つの教会の内の第五番目、サルデス教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:1)

2,語られるキリストの姿
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。』(3:1)

3,賞賛と激励
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(3:4)

4,叱責と警告
『わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』(3:1)

5,勧めの宣言
『3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(2:25)

6,勝利者に約束されている報い
『彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(3:4-5)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)


今までの教会たちと違い、主はサルデス教会に対して、賞賛の前に叱責を与えておられる。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている(ready to die)残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。』(黙示録3:1-2)
主はサルデスに対し、あなたは、生きているとは「名ばかり(オノマー:名、名声、評判)」で、実は死んでいる、と評価された。

ヤコブは、行いのない信仰は死んだものである、と言ったが、それとは別に、主の御前に「死んだ行い」というものもある。それはすなわち、信仰に由来しない行いである。
『義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。』(ローマ9:30-32)

『だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(黙示録3:3)
人は考察する。主はいつ来られるのだろう、と。
実際、主が再臨されるタイミングについては色々な説が提唱され、そのうち、どの説に自分が属するか、という事によって、世界の教会は分断され互いに論争している。
しかし、その現状こそ、死んだ行いであると知るべきである。
なぜなら主は、『その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。』と言っておられるのだから(マタイ24:36-37)。
誰も知らない、御使たちもまた子も知らない、ただ父だけが知っておられる、と主がわざわざ言われた「その日その時」を知ろうとするなぞ、傲慢である。
知る良しもない事は、知らないままにして置き、私達はむしろ、主がいつ来られても大丈夫なように、目をさまして備えておくべきだ。

主は言われた。
『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』(マタイ24:45-51)
主はいつ来られるかわからないが、盗人のように来る、という事は、確かである。その日その時を、人は知らない。
だから私達は、主人であるイエス様がいつ来られても良いように、無毛な議論に酔ったり、それでしもべ仲間を打ち叩いたりする事は止め、霊においてしっかりと目を覚まして、任されている聖徒達に、時に応じた御言葉の食物を食べさせるべきなのだ。

主は黙示録16章でも言われている。
『見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。』(黙示録16:15)
主がこの事を言われたのは、最後の災いである第七の鉢をぶちまける直前、かえるのような三つの汚れた霊、すなわち、しるしを行う悪霊どもが、全世界の王たちを惑わして、ハルマゲドンに召集する事を示している所に、挿入的に語られている。
終わりの時、私達は、しるしを行う悪霊に惑わされたり、酔わされたりする事なく、目を覚まし続け、「神の七つの霊と七つの星とを持つ」主から目を離さず、御言葉に目を留め続けるべきなのだ。

『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(黙示録3:4-5)
サルデスに対する賞賛は、メッセージの後半に少しだけ挿入されている。
それは「その衣を汚さない人が、数人(オリゴス:少し)」しかいなかったからだろうか。
黙示録において主から与えられる「白い衣」とは、殉教者に与えられる慰めの衣であり(6:11)、大きな患難を通って来た全世界の人達が、小羊の血で洗ったものである。(7:14)
そして、小羊キリストの婚姻のために、自らを整えた花嫁に対して、主は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許されている。
「この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(19:8)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
私達は、この時代において、聖霊が語られることに耳を傾け、心に留め、そして行うべきである。
結局、正しい行い(それも、信仰に基づいた御言葉に適った行い)をし続ける者にこそ、勝利者に与えられるべき「白い衣」が与えられるのだ。

テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 2(黙示録2:12-17)
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このテアテラへの手紙で頻繁に登場するキーワードは、「行い(エルゴン)」である。
主は、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐と、そして、その「わざ(エルゴン)」が、初めよりもまさっている事を賞賛しており、主は良い事につけ、悪い事につけ、行いに応じて報われるお方だ。

『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざ(エルゴン)から離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。』(2:22-23)
ここの「女の子供たち」とは、イゼベルの血統的な子孫ではなく、彼女と同じように預言者だと自称して主のしもべに近づいて惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせる者の事であろう。なぜなら主は、これを「耳のある者」全てに警告しておられるからだ。
主は、全世界の人々の心を探り極める御方である。(23節)

主は、世界中どの教会においても、イゼベルのような心に企みある者を主は見透かしておられる。たとえその者が、どんなに巧妙に人をそそのかしたとしても。
そしてその者達が、その行いを悔い改めないなら、聖徒の交わりに出入り出来なくなるように死の床へと投げ込まされ、また、彼女のわざ(エルゴン)を悔い改めない者も、大きな艱難の中に投げ入れられてしまうのだ。
「わたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。」と言われた主は、その事を為される。

『また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。』(黙示録2:24)
この、イゼベルの教えを受ける者は、すなわち、サタンの「深み」を「知(ギノスコー:体験する、性的に交わる)」る事になる。
しかし主は、サタンの深みを知っておらず交わってもいないテアテラの残りの人達には、イゼベルが受ける災いの巻き添えに遭わせるような事はされない。

『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(黙示録2:25)
この「持っているもの」とは、19節で主から賞賛を受けた、以下の「行い」であろう。
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(黙示録2:19)
主は、これらを最後まで固く保っていなさい、と命じられる。

『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。』(黙示録2:26)
この教会において、勝利者に約束されている報いの記述の中には、「勝利者とは何者か」の定義が挿入されている。
それは他の教会には無い独特な点である。

勝利者とは、すなわち、「わたし(イエス様)のわざ(エルゴン)を最後(テロス)まで持ち続ける者」だ。
「最後(テロス)まで」とは、いつまでか。それは、25節からの続きとして見るなら、「イエス様が再臨される時」まで、すなわち「この世の時の終わりまで」、である。
つまり「勝利者」とは、この世界においてイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人の事である。
そのような「勝利者」には、主は、次の報いを約束しておられる。

『彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。』(黙示録2:27)
これと同じ表現が、詩篇2篇にある。

そこでは、諸国の民や王たちが相共に集い、主とその油注がれた方に逆らって、その絆を壊し捨て去ろうと言っている様が記されている。
天に座しておられる主は、それをあざけり笑い、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせ、そして言われる。
『わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。』(詩篇2:7-9)

ここの「油注がれたお方」は、すなわち「キリスト(意味:油注がれた者)」を指しているであろうが、今回の黙示録の箇所では、なんと、キリストに独占的に与えられた特権である「鉄の王杖をもって支配する権威」が、勝利した者達にも与えられる事が約束されているのだ。
主のわざを忠実に守り行った人に対しては、報いとして、王権が与えられる、という約束は、イエス様がたとえ話の中でも示して下さった通りである。(ルカ19章)

『わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(黙示録2:28)
明けの明星とは何だろうか。それは22章で、主ご自身が解き明かしておられる。
『わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。』(黙示録22:16)
明けの明星とは、イエス様ご自身だ。なんと、勝利者には、鉄の支配権威と同時に、イエス様ご自身をも与えられるのだ。

結局私達は、この地上においては、御言葉なるイエス様を握りしめ続けておれば良いのだ。
たとえ、すぐには分からなくても、やがては、御言葉ご自身であられる主が、明けの明星となって、心の中を明るく照らして下さるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。』(2ペテロ1:19-21)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』』(黙示録2:29)
私達もまた、御霊が言われる事に聞き従い、この地上においては、愛と信仰と奉仕と忍耐とに基づいたわざ(エルゴン)を為し、それを手放さずに歩むべきだ。
それには報いがあるからであり、その報いとは、鉄の王権が与えられる事と、イエス様ご自身が私達のものとなるという事である。

ふさわしくない者に三度声をかけ立たせて下さる主(ヨハネ21:15-19)
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週報/メッセージ(説教)概要

 弟子達は、弱く愚かだった。主であるイエス様の受難の時は裏切り、復活した後も、主から聖霊の息を息吹かれて「遣わします」と言われたのに出て行かず、元の仕事である漁師に戻ろうとした。主はそんな弟子達を怒ったり責めたりせず、かえって炭火焼きのパンと魚で迎え、愛によって身も心もほぐして下さった。
弟子達は主から聖霊の息吹を息吹かれ任命されたのに、なぜ、魚を捕る漁師に敢えて戻ろうとしたのか。
ペテロがイエス様と出会った最初に言った言葉にヒントがあるかもしれない。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」(ルカ5:8) 本当は心から主が好きで、主からも、その働きからも離れたくないのに、そして主から「これをしなさい」と命じられたのに、敢えて身を引いてしまうなら、その理由は大体、「自分は到底足りていない、主に相応しくない」という思いがある故だろう。
人間社会では「します」と言って出来なかったり、まして裏切ってしまった場合、責められたり断絶されたりして傷つき、ますます引き篭ってしまうが、ペテロは相当自分に失望し、傷ついていただろう。
イエス様は好きだ、ついて行きたい、3年半の間一緒にいて、本当に充実していたし、楽しかった。
けれどイエス様と一緒にいる内に、到底イエス様に相応しい自分ではない、こんな弱く裏切ってしまった自分は足りていないのではないか、自分はここにいないほうがいいのではないか、いたら迷惑なのかな…。
そのような思いがもしかすると彼にあって、主の働きからフェードアウトしようとしていたのかもしれない。
主は、そんなペテロの心を、そして、そのような私達の心をも、主は全てを知っておられ、取り扱って下さる。
弟子達が主から炭火焼きのパンと魚を頂いて、食べ、心もお腹もほぐれた所で、主はペテロに言われた。
「わたしをアガパオー(完全に愛し尽して)しているか?」 ペテロはイエス様に、自分は「フィレオー(好きである、親愛の情を持っている)している事を、あなたはご存じ(オイダー)です」と、答える外に無かった。
主よ、あなたはご存知です。あの鶏が鳴いた夜明けの晩、死ぬまでイエス様について行くつもりだった、躓かないつもりだった。けれども結局、あなたを知らないと言って躓いてしまった。自分で覚悟した通りには出来なかった。その躓いてしまった悲しみも、受けてしまった傷も、イエス様あなたは全部ご存知です…。
そんなペテロに、イエス様は『わたしの「小羊たち」を「食べさせ(ボスコー)』なさい」と言われた。
イエス様はここで、「いや、アガパオーしなさい」とも「死ぬまでついて来なさい」とも言われなかった。
イエス様は二度目、「わたしをアガパオーしているか?」と、再び訊ねられた。ペテロは先と同様に答え、イエス様は『わたしの「羊たち」を「牧し(ポイマイノー:食べさせ、養い、治める)」なさい』と言われた。
すなわち、一度目の時よりも、さらに「主の羊達」にたいする深い養いが要求されている。
主は、三度目、ペテロに言われた。「わたしをフィレオーしているか?」。ペテロは、主が三度目、「完全に愛し尽くしているか」ではなく、「親愛の情を持っていいるか」と聞かれたので、心を痛めた。
主が自分の側へと降りて来て下さったのだ。完全に主を愛し切れない、従い尽くせない自分のレベルへと。
『主よ、あなたは全てを「ご存じ(オイダー:主観的に知っている)」です。わたしがあなたを愛していることは、「おわかりになって(ギノスコー:経験して知っている)」います。』 ペテロは、あなたはわたしを知っている、という点を、ただただ強調した。従えない弱さがある自分、裏切ってしまった自分、再びその可能性がある自分、そんな足りていない自分を悲しく思っている、けれども、それでもあなたは慕っている、という事を。
主は一貫して「わたしの羊」について指示されている。『わたしの「羊」を食べさせボスコー)なさい。主が求めておられる事は、自分の過去の成り立ちや、弱さや、愛の無さはさておき、主の羊達を養う事なのだ。
そして言われる。『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。・・・こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
働き人がもし、自分で自分を縛り、自分が描いたビジョンに生きるとするなら、それはまだ若造だという事であり、成熟した働き人は、聖霊に縛られ、自分が思っているのではない所へと導かれて行くものだ。
人がもし自分を見、自分の力で生きるなら、必ず失望する。しかし主に依り頼むなら、決して失望はしない。
主は働き人がたとえ二度倒れても、三度、立たせてくださる。 「さあ、私達は主に帰ろう。主は私達をかき裂かれたが、また癒し、私達を打たれたが、また包んでくださるからだ。主は二日の後、私達を生かし、三日目に私達を立たせられる。私達は御前で生きる。私達は主を知ろう、切に主を知ることを求めよう。主は朝の光のように必ず現れ出で、冬の雨のように私達に臨み、春の雨のように地を潤される。」(ホセア6:1-3)

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