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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 2(黙示録2:12-17)
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このテアテラへの手紙で頻繁に登場するキーワードは、「行い(エルゴン)」である。
主は、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐と、そして、その「わざ(エルゴン)」が、初めよりもまさっている事を賞賛しており、主は良い事につけ、悪い事につけ、行いに応じて報われるお方だ。

『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざ(エルゴン)から離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。』(2:22-23)
ここの「女の子供たち」とは、イゼベルの血統的な子孫ではなく、彼女と同じように預言者だと自称して主のしもべに近づいて惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせる者の事であろう。なぜなら主は、これを「耳のある者」全てに警告しておられるからだ。
主は、全世界の人々の心を探り極める御方である。(23節)

主は、世界中どの教会においても、イゼベルのような心に企みある者を主は見透かしておられる。たとえその者が、どんなに巧妙に人をそそのかしたとしても。
そしてその者達が、その行いを悔い改めないなら、聖徒の交わりに出入り出来なくなるように死の床へと投げ込まされ、また、彼女のわざ(エルゴン)を悔い改めない者も、大きな艱難の中に投げ入れられてしまうのだ。
「わたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。」と言われた主は、その事を為される。

『また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。』(黙示録2:24)
この、イゼベルの教えを受ける者は、すなわち、サタンの「深み」を「知(ギノスコー:体験する、性的に交わる)」る事になる。
しかし主は、サタンの深みを知っておらず交わってもいないテアテラの残りの人達には、イゼベルが受ける災いの巻き添えに遭わせるような事はされない。

『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(黙示録2:25)
この「持っているもの」とは、19節で主から賞賛を受けた、以下の「行い」であろう。
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(黙示録2:19)
主は、これらを最後まで固く保っていなさい、と命じられる。

『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。』(黙示録2:26)
この教会において、勝利者に約束されている報いの記述の中には、「勝利者とは何者か」の定義が挿入されている。
それは他の教会には無い独特な点である。

勝利者とは、すなわち、「わたし(イエス様)のわざ(エルゴン)を最後(テロス)まで持ち続ける者」だ。
「最後(テロス)まで」とは、いつまでか。それは、25節からの続きとして見るなら、「イエス様が再臨される時」まで、すなわち「この世の時の終わりまで」、である。
つまり「勝利者」とは、この世界においてイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人の事である。
そのような「勝利者」には、主は、次の報いを約束しておられる。

『彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。』(黙示録2:27)
これと同じ表現が、詩篇2篇にある。

そこでは、諸国の民や王たちが相共に集い、主とその油注がれた方に逆らって、その絆を壊し捨て去ろうと言っている様が記されている。
天に座しておられる主は、それをあざけり笑い、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせ、そして言われる。
『わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。』(詩篇2:7-9)

ここの「油注がれたお方」は、すなわち「キリスト(意味:油注がれた者)」を指しているであろうが、今回の黙示録の箇所では、なんと、キリストに独占的に与えられた特権である「鉄の王杖をもって支配する権威」が、勝利した者達にも与えられる事が約束されているのだ。
主のわざを忠実に守り行った人に対しては、報いとして、王権が与えられる、という約束は、イエス様がたとえ話の中でも示して下さった通りである。(ルカ19章)

『わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(黙示録2:28)
明けの明星とは何だろうか。それは22章で、主ご自身が解き明かしておられる。
『わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。』(黙示録22:16)
明けの明星とは、イエス様ご自身だ。なんと、勝利者には、鉄の支配権威と同時に、イエス様ご自身をも与えられるのだ。

結局私達は、この地上においては、御言葉なるイエス様を握りしめ続けておれば良いのだ。
たとえ、すぐには分からなくても、やがては、御言葉ご自身であられる主が、明けの明星となって、心の中を明るく照らして下さるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。』(2ペテロ1:19-21)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』』(黙示録2:29)
私達もまた、御霊が言われる事に聞き従い、この地上においては、愛と信仰と奉仕と忍耐とに基づいたわざ(エルゴン)を為し、それを手放さずに歩むべきだ。
それには報いがあるからであり、その報いとは、鉄の王権が与えられる事と、イエス様ご自身が私達のものとなるという事である。

ふさわしくない者に三度声をかけ立たせて下さる主(ヨハネ21:15-19)
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賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 弟子達は、弱く愚かだった。主であるイエス様の受難の時は裏切り、復活した後も、主から聖霊の息を息吹かれて「遣わします」と言われたのに出て行かず、元の仕事である漁師に戻ろうとした。主はそんな弟子達を怒ったり責めたりせず、かえって炭火焼きのパンと魚で迎え、愛によって身も心もほぐして下さった。
弟子達は主から聖霊の息吹を息吹かれ任命されたのに、なぜ、魚を捕る漁師に敢えて戻ろうとしたのか。
ペテロがイエス様と出会った最初に言った言葉にヒントがあるかもしれない。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」(ルカ5:8) 本当は心から主が好きで、主からも、その働きからも離れたくないのに、そして主から「これをしなさい」と命じられたのに、敢えて身を引いてしまうなら、その理由は大体、「自分は到底足りていない、主に相応しくない」という思いがある故だろう。
人間社会では「します」と言って出来なかったり、まして裏切ってしまった場合、責められたり断絶されたりして傷つき、ますます引き篭ってしまうが、ペテロは相当自分に失望し、傷ついていただろう。
イエス様は好きだ、ついて行きたい、3年半の間一緒にいて、本当に充実していたし、楽しかった。
けれどイエス様と一緒にいる内に、到底イエス様に相応しい自分ではない、こんな弱く裏切ってしまった自分は足りていないのではないか、自分はここにいないほうがいいのではないか、いたら迷惑なのかな…。
そのような思いがもしかすると彼にあって、主の働きからフェードアウトしようとしていたのかもしれない。
主は、そんなペテロの心を、そして、そのような私達の心をも、主は全てを知っておられ、取り扱って下さる。
弟子達が主から炭火焼きのパンと魚を頂いて、食べ、心もお腹もほぐれた所で、主はペテロに言われた。
「わたしをアガパオー(完全に愛し尽して)しているか?」 ペテロはイエス様に、自分は「フィレオー(好きである、親愛の情を持っている)している事を、あなたはご存じ(オイダー)です」と、答える外に無かった。
主よ、あなたはご存知です。あの鶏が鳴いた夜明けの晩、死ぬまでイエス様について行くつもりだった、躓かないつもりだった。けれども結局、あなたを知らないと言って躓いてしまった。自分で覚悟した通りには出来なかった。その躓いてしまった悲しみも、受けてしまった傷も、イエス様あなたは全部ご存知です…。
そんなペテロに、イエス様は『わたしの「小羊たち」を「食べさせ(ボスコー)』なさい」と言われた。
イエス様はここで、「いや、アガパオーしなさい」とも「死ぬまでついて来なさい」とも言われなかった。
イエス様は二度目、「わたしをアガパオーしているか?」と、再び訊ねられた。ペテロは先と同様に答え、イエス様は『わたしの「羊たち」を「牧し(ポイマイノー:食べさせ、養い、治める)」なさい』と言われた。
すなわち、一度目の時よりも、さらに「主の羊達」にたいする深い養いが要求されている。
主は、三度目、ペテロに言われた。「わたしをフィレオーしているか?」。ペテロは、主が三度目、「完全に愛し尽くしているか」ではなく、「親愛の情を持っていいるか」と聞かれたので、心を痛めた。
主が自分の側へと降りて来て下さったのだ。完全に主を愛し切れない、従い尽くせない自分のレベルへと。
『主よ、あなたは全てを「ご存じ(オイダー:主観的に知っている)」です。わたしがあなたを愛していることは、「おわかりになって(ギノスコー:経験して知っている)」います。』 ペテロは、あなたはわたしを知っている、という点を、ただただ強調した。従えない弱さがある自分、裏切ってしまった自分、再びその可能性がある自分、そんな足りていない自分を悲しく思っている、けれども、それでもあなたは慕っている、という事を。
主は一貫して「わたしの羊」について指示されている。『わたしの「羊」を食べさせボスコー)なさい。主が求めておられる事は、自分の過去の成り立ちや、弱さや、愛の無さはさておき、主の羊達を養う事なのだ。
そして言われる。『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。・・・こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
働き人がもし、自分で自分を縛り、自分が描いたビジョンに生きるとするなら、それはまだ若造だという事であり、成熟した働き人は、聖霊に縛られ、自分が思っているのではない所へと導かれて行くものだ。
人がもし自分を見、自分の力で生きるなら、必ず失望する。しかし主に依り頼むなら、決して失望はしない。
主は働き人がたとえ二度倒れても、三度、立たせてくださる。 「さあ、私達は主に帰ろう。主は私達をかき裂かれたが、また癒し、私達を打たれたが、また包んでくださるからだ。主は二日の後、私達を生かし、三日目に私達を立たせられる。私達は御前で生きる。私達は主を知ろう、切に主を知ることを求めよう。主は朝の光のように必ず現れ出で、冬の雨のように私達に臨み、春の雨のように地を潤される。」(ホセア6:1-3)

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

使徒トマス(ヨハネ20:24-29)
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御言葉は、聞いた人のその耳の中でこそ、成就する(ルカ4:16-30)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

バビロンのような汚れた国人の中においてさえも主の栄光を現す人の特徴(ダニエル1章)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
いつも「新しくされ続け中」であるはずのキリスト者の歩み(エペソ4:17-24)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
もはや横柄な搾取者はいなくなり、麗しい王に導かれるようになる(イザヤ33:17-24)
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主の働き人をまず満ちたらせ、そして送り出して下さる主(ヨハネ21:9-13)
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テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 1(黙示録2:18-21)
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七つの教会の内の第四番目、テアテラ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:18)

2,語られるキリストの姿
『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。』(2:18)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(2:19)


4,叱責と警告
叱責:『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。』(2:14-15)
警告:『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。』(2:22-23)

5,勧めの宣言
『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(2:25)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(2:26-28)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。』(2:29)


テアテラ教会のメッセンジャーに対する主の現れは、「燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子」であった。
ヨハネは「人の子のような方」と表現したが、主は自らを「神の子」と明言しておられる。
そしてその主は、テアテラ教会のメッセンジャーの事をも知っておられ、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐とを、そして、そのわざ(エルゴン)は初めのよりもまさっている事も、知っておられる。(黙示録2:19)

『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。』(黙示録2:20a)
イゼベルと言えば、イスラエル最悪の王・アハブの妻である。
この一人の女が、王である夫を、ひいてはイスラエル全体を偶像崇拝へと導き、主の怒りを引き起こさせて、3年半もの間イスラエルに雨が降らないようにした。
そしてその3年半の終わりに、主に遣わされた預言者エリヤは、アハブ王とイスラエル全体を前に、しるしと奇跡をもってイスラエルの神、主こそ力ある神である事を鮮やかに示した。
しかしイゼベルは、悔い改めるどころか、エリヤのした事を怒り、殺そうとする。
エリヤはそれで意気消沈し、死をも願ったが、主は彼を養い、立ち直らせられた。
しかし主は、イゼベルに対しては無残な死を下された。
それらの事が、第一列王記に記されている。

「あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている」、ここの「なすがまま(エアオー)」は、放ったらかしにする、放置したままにする、あるいは、看過したり我慢してはならない類の悪しき事でも、対決せず我慢し続ける事(KJV:suffer)である。
そういった「我慢」は、忍耐でも美徳でもない。むしろ、主から非難されてしまう事だ。

『この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。』(黙示録2:20b)
不品行(ポルネオー)とは、売春婦と関係を持ったり、不道徳な性関係を結んだりする事の意味だ。
また、偶像にささげたものを食べる事について、パウロは言っている。
『人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:20-22)

つまり、イゼベルと称されている偽預言者は、主のしもべ達を教えて惑わし、偶像にささげたものを食べさせて悪霊と交わらせ、不品行を行わせる事によって汚れた者と一体化させ、主のねたみを引き起こすようにさせているのだ。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。』(1コリント6:15-17)
このような事については、なすがままにしたり、我慢したりしては決してならない。

『わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。』(黙示録2:21)
イゼベルは、主の預言者エリヤを通して行われたしるしを通して悔い改めの機会が与えられたが、彼女はそれを蹴り、かえってエリヤを殺そうとした。
結局イゼベルは、高い所から突き落とされ、血は飛び散り、死体は犬に食われ、頭蓋骨と両足と両方の手首しか残らないという、凄惨な終わりとなった。(2列王記9章)

主の僕を惑わし、不品行を行わせ、悔い改めの機会を蹴ったテアテラのイゼベルに対して、主はどのようにされるか。
『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:22)
主は、イゼベルのような者は、死に至る病によって床へと縛り付け、もはや出歩きして、不品行したり、誰かを惑わしたりできない状態へと投げ込まれる。
そればかりでなく、この誘惑する偽預言者イゼベルの不品行に同意し、悔い改めず、相変わらず姦淫を行う者に対しては、主は「大きな患難の中に投げ入れる」と言っている。

主は、悔い改めの機会を与えられる。
今までこの人が、偽預言だと分からなかった、無知ゆえについて行ってしまい、自らを汚してしまった、けれども、御言葉に照らし、また結んでいる実を見たら、実は偽預言者だと分かった、そのような場合は、すみやかに今までの行いを悔い改め、離れるべきだ。
離れて悔い改めるなら、災いは及ばない。
しかし、悔い改めの機会が与えられて、なお御言葉のモラルに反する事をし続けるなら、主はその者を大きな艱難に投げ込まれてしまう。

エペソは偽使徒を見ぬき、憎み、許しておかなかったが、テアテラは、なすがままにして、放置し、我慢した。
そこを、主から非難を受けている。
イゼベルの時代、エリヤが警告を与えたように、私達もイゼベルのような者に警告をしないとするなら、主はそのしもべを非難されてしまうのだ。
それ故、教会の中においてそのような事をするものがあるなら、容認してはならない。
イスラエルの王アハブは、主の民を過ちに導くイゼベルを放置した結果、イスラエル全体を偶像崇拝という霊的不品行へと導き、3年半もの間、雨が降らない災いへと導いてしまった。
現代も、イゼベルの性質の者をなすがままにしておくと、教会全体が霊的な干魃、霊的な飢饉状態で、渇き切ったものにされてしまう。

今の時代、イゼベルのような偽預言者が、人々を霊的姦淫へ促し、惑わしている。
例えば、イエス・キリスト以外にも救いはあるのだとか、他の神々を礼拝する事も実はまことの神を礼拝している事になるのだとか、復活も奇跡も地獄も無いのだとか、そうした誤った教えを吹聴し、それに惑わされ、一切霊的な潤いが無く飢え渇いている人々が、実に多い。

エリヤのように、正確に主の御言葉を語り、断固としてそれを貫き、伝え、そして信じる者に伴われるしるし(マルコ16:17-18)をもって主にあって有用に用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ペルガモ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:12-17)
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七つの教会の内の第三番目、ペルガモ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:12)

2,語られるキリストの姿
『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。』(2:12)

3,賞賛と激励
『わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。』(2:13)

4,叱責と警告
『しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。』(2:14-15)

5,勧めの宣言
『だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。』(2:16)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある。』(2:17)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:17)


ペルガモの王は、当時世界一の蔵書を誇ったアレクサンドリア図書館を上回る図書館を建てようと画策して、文献の収集に務めた所、エジプトからパピルス紙の輸出を禁じられてしまったため、代わりに、羊皮紙による写本の文献を収集するようになった。
以降、ペルガモは、「羊皮紙」の代名詞的な都市となる。(羊皮紙のイタリア語:pergamena、スペイン語:pergamino、ポルトガル語:pergaminho、英語:parchment)。

このペルガモ教会の使いに向けたメッセージの、重要なキーワードは、「剣」である。
『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。』(12節)
『主が、悔い改めない人と、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦う。』(16節)
これら2節で並行して言われている事は、主は剣をもって戦われる、という事の宣言である。

『わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。』(黙示録2:13)
ペルガモは、学術・文化が発達し、かつ、偶像崇拝も盛んな都市であった。アクロポリス遺跡からは、ゼウス祭壇やアテナ神殿の遺跡も発掘されている。
このように、学術・文化・偶像崇拝も盛んな所は、サタンも働きやすいもので、主も、「そこにはサタンの座がある」と言われた。

そのような所で、イエスこそ唯一の救い主であると告白し続ける事は、困難であった。
実際、ペルガモ教会の牧者であったアンテパスは、金属製の牛の像の中で、焼き殺されたという。
そんな激しい状況の中でも、ペルガモ教会の聖徒たちは、信仰を捨てなかった。

『しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。』(黙示録2:14-15)
非難されている点は、バラムの教えを奉じている(クラテオー:握りしめている)者が、このペルガモ教会の中にいる、という点だ。
あのような激しい迫害の中でも信仰を貫き通したというのに、なぜ非難されてしまうか。
それは、バラムの教え(即ちニコライ宗の教え)は、せっかくの素晴らしい信仰を台無しにしてしまうからであり、いかに素晴らしい信仰の行いと忍耐の実績ある者であっても、看過してはならないからだ。

「バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせた」
その事は、民数記22-25章に記されている。
イスラエルの民がエジプトを出て荒野を進んでいた時、イスラエルを恐れ敵意を燃やすモアブの王・バラクは、有名で有力な預言者・バラムに大金を積み、イスラエルを呪わせようとしたのだが、バラムは主から呪うのを禁じられて、どうしても呪えず、かえって祝福する事となり、バラクの意図とは真逆の事をする事となった。
『こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。』(民数記24:25)
しかしバラムは、バラクから金銀を受け取らずにそのまま去った、のではなかった。
主はここまではっきりイスラエルを愛しておられる事を、モアブに対し、またバラムに対し明らかに示されたというのに、バラムはなおもイスラエルを陥れようと画策する。

『イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。・・・ その疫病で死んだ者は二万四千人であった。』(民数記25:1-2、9節)
この、モアブの娘達とみだらな事をさせ、イスラエルの心を、主から分裂させるようバラクに入れ知恵した者が、バラムである。

敵であるサタンは、城を直接攻撃では落とせないとなると、城内の人の心を惑わして、城主とその僕達とを仲違いさせる戦法を取ってくる。
すなわち、人を誘惑し、堕落させ、そうして主の怒りを引き起こさせ、神が人を滅ぼすよう仕向ける戦法である。
このように、誘惑によって人を堕落させ、滅びへと導くサタンの戦法は、アダムの時から、バラムの時代も、ペルガモ教会の時代でも、そして、現代でも続けられている。

バラムは、あんなにも鮮やかに主の御心が示されたのに、すなわち、主は徹底してイスラエルを祝福しようとしておられる事を知り、体験した、というのに、どうして尚もイスラエルを陥れようとしたのか。
それは、彼は「不義の報酬を愛した」からだ。(2ペテロ2:15)
主の御胸よりも、不義の報酬を愛するような心は、預言者としては「狂気の沙汰」(同16節)である。
彼は、主の御心よりも、金銀の報酬のほうを選び、そちらを握りしめてしまったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
しかし主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に殺されたのであるから、彼が神の民を売ってまで得た不正な報酬を楽めた期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。(ヘブル10:26-29)

人は、外的な攻撃にはよく対抗し、心して戦ったり祈ったりするものだが、気持よくさせる誘惑に対しては、誘惑に会わせないよう祈ったり対抗して戦ったりする事には、疎いようである。
神の民の二万四千人が倒れてしまった原因が、バラムのたった一人の、不義の報酬を愛する心に拠った、という事に、私達はよく心するべきである。
アンテパスがあんなに酷い殺され方で殉教しても、ますます信仰を貫いた、あの立派なペルガモ教会を主が容赦なく叱責され、しかもその理由が、バラムの教えを奉ずる者がいる、という点であったのを、私達はよく心に留めるべきである。

『だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:16-17)
ペルガモ教会のアンゲロス(メッセンジャー)に対してなされたこの勧めは、この手紙の二次受信者である「私達」に対しても、向けられている。
すなわち、不品行や偶像崇拝を勧めて来るような、あるいは御胸よりも不義の報酬のほうを愛するような「狂気の沙汰の預言者」の性質が、私達の中に見いだされるとするなら、速やかに悔い改めるべきなのだ。
そうでないと、主の口から出る剣によって、切り分けられてしまう。
主の口から出る御言葉の剣は、私達の心の内を露わにし、霊と魂の分かれ目をも刺し貫き、バラムの教えに奉じる者と清純な神の民との間を切りわけられる。

もし私達が群れの牧者であるとするなら、私達の群れの中の、ある人が、主ご自身の剣によって滅ぼされてしまうとするなら、どうして耐えられるだろうか。
あのバラムの時代、主の災いの剣を止めさせたのは、大祭司ピネハスの決して妥協しない果敢な行いであったし、ダビデの時代、主の災いの剣を止めさせたのは、ダビデの、自分の民を思いやる悔い改めの告白だった。
私達もピネハスのように、主のひどい災いが降る前に、その災いの元を断ち切るべきであり、群れの誰一人として滅びへと導かれないよう、牧者として守るべきなのだ。

『勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。』(黙示録2:17)
勝利者には、二つの「隠された」報酬が、約束されている。
その一つは、隠れたマナである。マナは、エジプトから脱出した神の民が、40年、荒野で主から与えられた食物だった。
もう一つの報酬は、白い石が与えられる事だ。そこには、それを受ける者以外は誰も知らない、新しい名が記されているのだ。

私達も、主への真実を貫き通し、悔い改めによって勝利するなら、世の人、他の人にはとうて味わえない、主からの霊的・肉的な養いがあるのだ。
このような、他の誰も味わえない隠された喜びに預かる「勝利者」として歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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